Chapter.3-8

門衛の騎士がその黒い霧に気付いたのは、空がすっかり夜の顔になり、星の瞬きに彩られた蒼白い月が煌々と地上を照らし始めた頃だった。
このバルセナタンを守る城壁と大正門には魔術師ギルドの指示の下、邪を祓うための防御魔術、またそれを察知するための感知魔術が施されており、外部からの敵意ある進入や攻撃に対して高い防護能力を備えている。
加えて大正門の守りにはそれ専任の魔術騎士団一個中隊が怠りなく従事しており、魔妖術の類の目に見えないものだけでなく人による物理的脅威にも常に目を光らせているのだ。
にも関わらず、大正門と城壁に施された魔術はその異常を何一つ感知することができず、彼らは対処に備えることもできなかった。
それが現れ出でたのは、誰もがおよそ予測もしていなかったところからだったのだ。
帝都を襲った(正しく言うならヘルメス邸を襲った)という異変事の報告を受けてから、バルセナタンでは学都の守備をより強固なものへと引き上げるよう指示が出ていたのだが、彼らの意識はそもそも城壁の外に対して向けられていた。
大正門を抜けた正門広場の地面から、ゆるゆると黒い微かな煙が細くたちのぼり始めた事に、最初は大門を通り抜けてきたばかりの旅人や近くを歩いていた学都の住人も全く気付くことがなかった。
大門を抜けてすぐに扇状に広がる大広場は、バルセナタンの表玄関であり、この学問都市へ出入りする人間が最初と最後に目にする都市の顔でもある。
馬車や馬が通る大通りはこの広場から3方へと伸び、それぞれの通りの両脇には人々がのんびりと歩くための歩道が作られ、通り沿いには多種多様な店が軒を連ねていた。
また正門広場に面した歩道脇には様々な屋台も並んでいて、広場の中央には中心に背中に翼を持つ獅子像を戴いた立派な円い噴水がある。
スカラビア公国建国当時から変わらぬ姿のそれは、地下から汲み上げた天然の湧き水を常に滾々と湛え、旅人達や馬、そしてもちろん学都に暮らす住民達に清浄な恵みをもたらす憩いの泉として愛されていた。
その邪とはおよそ無縁に思える泉の縁石の隙間から、それは蛇さながらに身をくねらせて敷石の上に這い出て来たのだ。
ゆっくりと少しずつ、薄い靄のような煙は敷石の上の一箇所に溜まり、次第にその濃さを増していった。
やがてそれが人の頭部ほどの大きさの塊にまでなった頃、ようやく噴水の溜め水を汲みにやってきた路上の年老いた物売りがそれに目を止め、腰を抜かさんばかりに驚いて悲鳴をあげた。
それをきっかけに、門衛の魔術騎士達はその存在を知る事となったのだった。
門塔に詰めていた全騎士は一斉に外へ飛び出し、黒い霧の塊と噴水を円形に囲うように陣取りながら、遠巻きに様子を見守る人々を下がらせた。
騎士達が一定の距離をおいて円陣の態勢を整える頃には、黒い霧は既にはっきりと禍々しい空気を漂わす大きな黒い塊に膨れあがり、十分な距離をとって離れているにもかかわらず騎士達が見上げるほど巨大になっていた。

「…一体あれは…何なんだ!?」

騎士の1人が呆然と呟いた。
得体の知れない、だが明らかに歓迎すべからざるものに対峙している事を、その場の騎士達の誰もが認識していた。
それでも、彼らが下がって広場を離れるよう指示した見物人の中には好奇心の強さや危機感のなさから、その場に立ち尽くしたまま騎士達と同様に黒煙をぽかんと見上げている者も幾人もいた。
彼らにとってもそれは見た事もない異常な何かであり、目が放せない事態だったのだ。
たとえその結果が後々、彼らにどんな恐怖と後悔をもたらす事になったとしても。
鞘から抜き放った剣を構えた騎士達と幾人かの市民が見上げる視線の先で、黒い霧は生き物のようにうごめきながら見る見るうちに形を変容させてゆき、ついに地を這う雷鳴のような嘶きが轟いた。


*** ***


突然冷水を浴びせられでもしたかのように、リリスは文字通り跳ね起きた。
こめかみのあたりでドクドクとうるさいほどに血管が脈打ち、眠りの淵にありながら耳の奥で捉えた音に警鐘を鳴らしている。
瞬時に泣き疲れて意識を投げ出してしまう前に自分がした事を思い出し、リリスは床へ目をやった。
割れた小瓶の欠片の中に、あの石が転がっている。
果実酒に濡れた床はまだ湿ってはいたけれども乾きかけており、わずかに残った液体の小さな水溜りの中にそれはあった。
だがそれを視界に捉えた途端、リリスは息を呑んだ。
石は森の川岸で見た時と同じ、朧気な淡い光を発していた。
あたかも緩やかに穏やかに呼吸するかのように。
その時、リリスの耳に忘れようとしても忘れられない妖魔の声が届いた。
雷鳴にも似た地鳴りのような嘶き。
ぞっとリリスの全身から血の気が引き、体中が凍りついたように冷たくなる。
あの夜の記憶が蘇り、今は完治しているはずの肋骨が軋むように痛んだ。
あれが、再び現れたのだ。
大きく見開いた彼女の眼の前で、その嘶きに呼応するかのように、石がふわりと強く輝いた。

“呼んでる…!?”

リリスはとっさにそう思った。
理屈でなく本能で、それを悟った。

石が首のない騎士を呼んでいる。

思い返してみれば、彼女が父の書斎で襲われた時、確かにあの魔騎士は石に注意を向けていたようだった。
あの時は、石はまだ何の変化も見せてはおらず、魔騎士もおそらく彼女がそれを持っていた事を察知してはいなかっただろうけれども。
しかしそう思うと、なぜそれが麻布に幾重にも包まれて果実酒の壷の底に沈められていたのかが腑に落ちる。
きっと、石が魔騎士を呼び寄せようとするのを防ぐためだったのだ。
それがなぜリリスの家にあり、そのように隠されていたのかはわからない。
けれども、少なくとも彼女がそれを見つけ、隠し場所から外へと出してしまったために、あれは彼女の家を襲ったのだ。
石に導かれて。
それなら、今度も?

リリスは寝台から飛び下り、ゆっくりとだが今や力強く明滅を始めている石を慌てて拾い上げた。
もう果実酒の入っていた小瓶は割れてしまった。
今すぐそれを液体に沈めることはできない。
それでもそのまま放っておくわけにはいかなかった。
リリスは枕もとに放り出されていた皮袋の中から適当な布片を探し出し、歯を使って何枚かに裂くと急いでその中に石を包み込んだ。
それからそれを小袋に入れ、長い革紐で口を縛って自分の首にかけられるようにし、身につけたシャツの内側へと押し込む。
それで石の呼び声を魔騎士からどの程度遮れるのだろう?
それでもとにかく、そのままそれを外に出しておくよりはマシな気がした。
更にリリスはシャツの上からチュニックを被り、皮袋の中に身の周りのものを手当たり次第に詰め込み始めた。
一刻も早く、ここから離れなければ。
ここを出てどこに行けばいいのかはわからなかったが、彼女が石と共にここにいれば、あの魔騎士はここを襲うに違いない。
震える手で慌しく荷物をまとめるリリスの耳に、もう一度あの嘶きが響いた。
今度は先ほどよりもっと、その声の主はこの場所に近づいていた。


*** ***


大正門を守る魔術騎士達の眼の前で、禍々しい黒い霧の塊は通常目にするものの倍はあろうかという大きな馬と、その背に跨る騎士へと形を変えた。
月明かりに照り映える漆黒の馬の毛は艶めき、狂気を宿した危険きわまりない眼は、鮮血色に染まってギラギラと光っていた。
悪意に満ちた魔馬の口唇は裏返しにめくれ上がり、むきだしにされた歯列からは悪臭漂う薄黒い液体がしたたり落ちている。
吐き出される息は腐臭そのものだ。
その様だけでも十分に不吉でぞっとするものだったが、魔馬の背で手綱を握る闇そのものにも思える黒色の騎士の姿は、居並ぶ魔術騎士達と見物人の目を釘づけにした。
濡れたようにてらてらと光る黒い鋼の甲冑に身を包み、肩から背中へ闇色の長いマントを垂らした騎士には、首から上がなかった。

騎士がぐいと手綱を引き絞ると黒馬の前足が高々と上がり、それが見る者の胃の腑をも震撼させるほど重々しい音と共に敷石にめり込むように打ち下ろされた時、ようやく門衛を任された魔術騎士達は我に返った。

「ここから先へは通すな!!」

隊長が剣の切っ先を闇の騎士へ向け、片手で呪いの印を結びながら叫ぶ。
学都の守護者を自負する誇り高き魔術騎士団の門衛達は、一斉に同意の声を上げ、隊長に倣って口々に防御と攻撃強化の呪文を唱え身構えた。
隊の一部の騎士は、いまだ現実味のない事態に思考が働かず立ち尽くしたままの学都の住民達を、追い立てるように大通りから路地へと走らせる。
馬上の黒騎士はするりと腰に帯びていた剣を片手で抜くと、ぶるん、と力強く空を薙いで振り下ろした。
一陣の風が見えない刃のように円陣の一端を守る騎士に向かって猛烈に吹き付け、騎士は刃を地表へ向けて構えた剣の面でその風を受けた。
ピリピリと青白い火花が剣の面に走り、魔術騎士のマントをはためかす。
もしも今この場にコウがいたなら、彼が対峙した時に比して魔騎士の力が格段に強くなっている事に気付いただろう。
騎士から陽炎のようにじわりじわりと滲み出る強い瘴気のようなものが、周囲の空気をひたひたと毒していく。
束の間睨み合った後、剣風を受けた騎士が先陣を切った。
両手を下げ地面に剣先を向ける格好で構えた剣が、ほのかに紫の光を帯びる。
彼が眼前の騎士に向かって駆け出すと、同じく等間隔を保った位置の魔術騎士達が四方から走り出た。
魔馬があざ笑うかのように鼻息も荒く歯を鳴らし、首なしの騎士は手綱を引いてぐるりと馬首をめぐらせた。
駆け寄った騎士は、後足だけで立ち上がり巨大な壁のようにそそり立った魔馬を、下段から一気に切り上げる。
馬の大きな鋼鉄のごとき蹄が刃を弾き、瞬間、騎士は後方へ跳び退った。
間髪を入れず駆け寄った騎士達から同様に剣が繰り出されたが、馬上の魔騎士は歯牙にもかけぬ様子で彼らの剣をたったふた振りの動作で払い退けた。
うっそりとした巨体に見合わぬ素早さだ。
剣と剣とが触れ合ってもいない騎士でも、魔騎士の剣が発する魔道波のようなものに押しやられて思わず後退る。
彼らは個々に顔を歪め、血走った目をギラつかせた魔馬を睨み据えた。
と、魔馬はぐっと腰を落として後足に力を込めた。

「通すな!!」

いち早くそれに気付いた隊長が叫び、声に出して長い呪文を唱え始めた。
魔馬に乗った騎士を中心に凹凸状に二重の輪を形成していた魔術騎士達も、それに合わせてすぐさま同じ呪文を合唱する。
たちどころに、見えない糸が彼らの周りにピンと張り詰めた幕を織り成し始める。
魔馬は自分と主を取り囲む騎士達の動きには何らかまわず、引き絞られた弦のように後足で地を蹴って跳ねた。
その動きに合わせて、呪文を合唱していた騎士達が一斉に剣先を頭上に高く掲げた。
全ての剣の先から、白く眩い細い糸のような光が放たれ、上空に光の膜が織り上げられる。
彼らの描く円陣を取り囲んで既に織りあがっていたものとも絡み合い、それは伏せた椀状に彼らと魔騎士を正門広場に閉じ込め、同時に上空に跳ねた魔馬を首なしの騎士共々包みこもうと覆いかぶさった。
なりの大きさからは想像もつかないほど高く跳躍していた魔馬は、いったんは覆いかぶさった膜の内側にかろうじて捕らえられるかに思われた。
思われたのだが。
自らの行く手を阻んだそれを、魔馬は剥き出した歯で食い破ろうと噛み付いた。
魔馬の歯が光の膜をギリリと食むと、膜には長く大きな亀裂が走り、剣をかざした騎士達の手が震えた。
頭上で魔物を捕らえる膜を織り成しているのは、魔術騎士達の精神力だ。
それが傷つけられれば、それは騎士達に直接跳ね返る。

「くそ!!援隊を呼べ!!」

中隊長が歯軋りしながらそう叫ぶと、外円に位置していた1人が呪文を紡ぐ口は休めずに懐から丸い玉を取り出して掌に乗せ、上空へと投げ上げた。
途端、玉は空で弾けて白い鳥の姿に変わり、矢のように飛び去っていく。
魔術騎士団の本部に向けて。
騎士団本部があるのは大正門を背にして右手、学都の市街地の東半分を抜けた都市の北東側だ。
城壁沿いと、市街の大通りとを二手に分かれて下ってくれれば、万一の際には魔物を前後に挟み込める。
万一の事態になどするつもりはさらさらないが、魔馬の暴れようは騎士達の予想をはるかに超えて激しかった。
魔術騎士団一個中隊ほぼ全員の魔術が作り出す防壁膜を、黒馬は半ば食い破りかけていた。
伝令の鳥が飛び去ると、それまで馬の背で手綱を操っていただけの黒騎士が、何度も塞がりかけては裂ける膜の亀裂にまるでそれが見えているかのように正確に剣を突き立てた。
ピシリ、と鈍い音がして、円陣の魔術騎士の数人の口から呻きが漏れる。
首のない黒騎士は、突き立てた剣を亀裂に沿って一息に振り下ろした。
そのひと振りで、巨大なガラス球が弾けたように光の膜は鋭い破裂音を響かせながら粉々に砕け散った。
膜を紡ぎ出していた騎士達の剣が、あるいは剣を握りしめた騎士ごと衝撃で吹き飛ばされた。
強い力を注ぎ込んでいればいるほど、跳ね返ってくる反動も大きい。
隊長の堂々たる体躯は勢い良く空に飛ばされ、広場の石畳にしたたか背中を打ちつけられた。
その一瞬の間を黒騎士は逃さない。
自由を得た魔馬は開放を喜ぶかのごとくブルルと鼻を鳴らして首を震わせ、石畳の上に一旦足を下ろすと、もう一度今度は何一つ行く手を阻むもののない学都の大通りへ向けて悠々と跳躍した。
身体を横転させ、すかさず体勢を立て直した隊長が急ぎ立ち上がるのと、彼の頭上を魔馬の蹄が過ぎ行くのがほぼ同時だった。
そして次の瞬間、隊長の身体は再び石畳の上にどうと倒れた。
自らの身体が前のめりに倒れていくその背中を、彼の目は追っていた。
痛みも苦しみも衝撃も、何一つ感じることのないままに、魔術騎士団正門守備部隊隊長は、己がその守護任務から永遠に解き放たれたことを知った。


*** ***


「先生!!」

コウが緊張を孕んだ声で呼ぶと、一旦青ざめたイライジャの面はにわかに精彩を取り戻し、その眼に底知れぬ賢者の光が宿った。
老魔術師はかけていた椅子から立ち上がると懐内から小さな皮袋を取り出し、コウに手渡した。

「ヘイヤート、君は即刻ロザリンとその娘さんのところへ行くのじゃ。そして、その子の持っている石をこの袋の中に入れなさい。彼女が石を手放したがらなければそれでもいい。とにかく、まずは石をここへ入れて、その上で彼女にそこから決して出すなと言うのじゃ。もし彼女が預けると言うなら、君が預かってわしの所へ。ともかく、彼女をわしの元へ連れて来なさい」

「はい、わかりました!!」

渡された皮袋をシャツの内ポケットへ押し込んで、コウは急いで身支度を整えた。
なめし皮のチュニックを被り、魔術騎士団の隊服に腕を通すと皮ベルトを締め、皮手袋と愛用の剣をひっつかんでマントをはおる。
あっという間に戦闘準備が完了すると、勢いよくドアを開けたコウをイライジャが呼び止めた。

「わしの眼をひとつ持っていきなさい」

そう言ってイライジャはコウの額に指を当て、やや長めの呪文を唱えた。
瞬間コウの額に熱が走り、その後何事もなかったかのようにそれが消え去ると、そこに薄っすらと蒼い文様が浮き上がった。
それは魔術師ギルドに関わりを持つ者なら誰もが知る、フーティリエ・イライジャの紋章だ。

「君が戻るまで、その印を通してわしは共にある。助力が必要な時には力を貸せる。さ、行きなさい!!」

「はい!!」

ぐっと唇を引き結び、コウは自室を飛び出した。
全速力で廊下を駆け抜けるコウの左手は、胸に下げたロザリンの護符をきつく握りしめていた。
宿舎の外へ飛び出すと、広い演習広場を横切って厩へ向かう。
広場の半ばに達したあたりで、頭上を白い鳥が騎士団本部棟へ向かって飛び去っていくのをコウは目撃した。
あれは、大正門の守備部隊の伝令だ。

「まさか……」

大正門の守護を担う守備部隊は、決して魔術騎士団選りすぐりの精鋭というわけではない。
けれども、おいそれと容易に打ち破れるような警護でもない。
彼らの防御を退け、バルセナタンの市街へ侵入しようと思ったら、それ相応の力が必要だ。
武力、あるいは魔力が。
嫌な予感がコウの胸中をよぎり、同時にキンと耳の奥に、遠くで響く破裂音が突き刺さった。
コウは厩へ向かって走る速度を上げた。

“間に合ってくれ…!!”

考えたくない嫌な予感が現実のものにならないよう、どうか。
コウの額の蒼い紋様が、その思いに応えるかのようにふわりと光った。


*** ***


午前中に全て取り替えておいた客室のベッドシーツを大きな洗濯桶の中に押し込み、ロザリンは深々と溜息を吐き出した。
食堂兼居酒屋となっている表通り沿いの棟と違い、吹き抜けの狭いホールを隔てた奥棟の倉庫部屋はしんとしている。
店の方はそろそろ時間的に立てこんでくる頃合だが、数組いる宿泊客のために先に湯の用意をしておこうと、彼女はレーダとランに店を任せて洗濯室へと足を運んでいた。

アナ家が経営する安宿には各客室に水を供給する水道機関はあるが、湯を供給するための別水道は備えていない。
宿は代々アナ家が引き継いでいる家業だけれども、そのつど必要に応じて壊れたり不具合の出た箇所を修繕する程度の改築しかしておらず、大方の設備は旧式の古いままだ。
最新の宿設備を整えるためにはそれなりに高額な費用がかかる。
また、どちらかといえば食堂兼居酒屋の方が主であって宿客の数はさほどでない事もあり、入浴については宿泊客の要望に合わせてその度に湯を部屋まで運んでいるのだ。
一度に大量の湯を沸かし、しばらくの間保持しておくための設備は整えてあるので、何度も湯を沸かす手間はかからないものの、手桶に汲んだ湯を客室まで運ぶのは女手では結構な重労働だ。
今日は少しばかり体調が不安だし、給仕の仕事を全面的に彼女が引き受け、湯を運ぶのはランに頼んだ方がいいかもしれない。
ロザリンは洗剤を並べた棚に手を伸ばすと、粉洗剤と布の手触りを柔らかくしてくれる柔軟剤を取り、洗濯桶の中にふり入れた。
次に、各客室の排水溝に流される風呂の排水を浄化し溜めてある水槽から、洗濯桶へ洗物を漬け置きにするために水を落とし入れる。
桶に流れ落ちるザァッという水音に被さるように、一度低い地鳴りにも思える雷鳴が轟いた気がして、彼女は手を止め、窓の外へと視線を向けた。
そこには既に宵の闇が広がっていたが、月明かりに照らされた裏庭の木が浮び上るように見えているということは、天候が急変したというわけでもなさそうだ。
空が晴れ渡っていても雷が鳴る事はある。

洗剤を棚のもとの位置に戻しながらロザリンは首を傾げ、それからもう一度溜息を吐いた。
溜息と共に脳裏に浮かぶのは、自室に戻るため階段を上がって行った時のリリスのぎこちない笑顔だ。
心の内の何かを必死に隠そうとしている、不自然な笑顔。
少女の様子がおかしいと気付いた時、ロザリンはすぐにリリスが彼女とレーダの交わした会話を聞いてしまったに違いないと悟った。
確たる裏づけはないとはいえ、少女の態度や顔色はつい先ほど一緒に裏庭に出た時の彼女からは明らかに一変していた。
もちろん、それをリリス自身に確かめるわけにはいかない。
おそらく酷く傷ついているであろう少女に、彼女は一体どう接してやればいいだろう?
育った環境が環境だけに、リリスはまだ安全な巣から無理やり追われた雛鳥でしかなく、通常あの年頃の少女が体験するような感情の波を何ひとつ味わってきていないのだ。
己の心の葛藤をどう自分の中で収めればいいのかわからず、翻弄されている事だろう。
しばらくの間、ロザリンは棚の前に立ち尽くしたままじっと思い悩んでいたが、やがて再び耳に届いた音にハッとして顔を上げた。
先ほどは雷かと思ったが、それは馬の嘶きだった。
普段耳にするものとは異様にかけ離れているけれども、それは確かにいきり立つ馬が発する声だ。
我知らずぎゅっと掴んだ自分の腕に、気付けば鳥肌がたっていた。
ロザリンはぶるぶると頭を振って両頬をぴしゃりと掌ではたくと、足早に洗濯室を後にした。


*** ***


慌しく簡単な荷造りを終えるとすぐに、リリスは自室のドアを開けて階段へと走った。
リリスのためにロザリンが用意してくれたのは3階の最も奥の日当たりの良い部屋で、1階に5部屋しかない宿の廊下は短い。
ほとんど一息で階段の上に立った時、下から駆け上がるように登ってきたロザリンと出くわした。
リリスのいかにも急ごしらえな出立のいでたちをひと目見て、にわかにロザリンの面が曇る。

「…どこへ行くつもりなの?」

戸惑いを含んだ声でロザリンが訊く。
リリスは胸に抱えた皮袋を両腕で抱きしめ、俯いて後ずさった。
いくぶん青ざめて見える顔に、泣き腫らしたように赤い眼。
ロザリンが手をのばして触れようとすると、リリスはビクリと身体を震わせてその手を避けた。

「リリス……」

「…ごめん…なさい…」

リリスは俯いたまま、掠れる声を絞り出すようにしてそう言った。

「ごめんなさい……でも、行かなくちゃ、私…」

「行くって、どこへ!?」

「わかんないけど……わかんないけど、ダメなの!!私がここにいちゃダメなの!!」

弾かれたように顔を上げ、リリスはロザリンの脇をすり抜けて階段を駆け下りた。

「待ちなさい!リリス、待って!!」

数段少女が階段を下りたところでロザリンは彼女の腕を捕らえ、踊場で無理やりに引き寄せた。
細い両肩をしっかりと掌で包み込み、リリスの赤く腫れぼったい眼を覗きこむ。
少女は嗚咽を堪えるかのように小さく喉をひくつかせていた。

「落ち着いて…お願いだから……。一体どうしたの!?こんな日が暮れた後に右も左もわからない街の中へ出て行くなんて、無茶を言わないで!約束したでしょう?ここで彼が来るのを待つって」

リリスの肩を撫でさすり、ロザリンは諭すように言う。

「あなたの居場所はここよ。ここにいれば、必ず彼は訪ねて来てくれるし、あなたの力になってくれる。何も心配することなんてないわ」

「…違う……!違うの…!!私がここにいたら、ダメなのよ!!」

リリスは叫んだ。

「私がいたら、大変な事になる……。この店も、お客さんもみんな…!」

「…?どういうこと…?」

「私がいけないの……。みんな私のせいなの…!!」

そう言いながら、リリスは堪えきれずに涙を零した。

「私が悪いの…!!」

その後は言葉にならず、リリスは必死に漏れ出る嗚咽を飲み下してロザリンの手から逃れようと身を捩った。

「私がここにいたら、あいつが来る。行かなきゃ…!!」

「リリス!!」

少女の肩が掌の下から滑り出ようとする。
ロザリンはそれを許さず、リリスの身体をぐいと引いて抱き締めた。

「落ち着きなさい!!一体何が来るっていうの!?」

彼女の細い腕の中で更に小さく縮こまるリリスの身体は、小刻みに震えていた。
ロザリンの腕に思わず力がこもる。
空気を震わせるようにひときわ高く、あの嘶きが轟いた。
リリスは絶望的な表情で顔を上げ、彼女を見た。
その両の瞳は、涙とそして他の何かとで苦しげに歪んでいた。

「あの魔物が……来る!!」


*** ***


店内はそこそこに混みあっていた。
比較的今夜は出足が遅いのか、普段の同じ時間に比べればまだ客の数は少ない方だが、テーブル席の半分以上は埋まっていたし、カウンターにも1人、2人座って話し込んでいる男達がいる。
彼らは格好から魔術騎士団の騎士だろうと思われた。
魔術騎士団は所属の隊によって支給されている制服が違っている。
彼ら以外にも魔術騎士団の騎士は店の奥のテーブル席に何組かおり、それぞれ数人ずつで身に着けているものが違う。
同じ隊に所属しているらしき者達は大抵席を共にしていて、その中に隊服の違う者同士が歓談している場面もちらほらと見受けられた。
ロザリンの父は店内の様子を厨房からざっと一瞥し、ふと聞こえた音に眉を潜めた。
先ほども何やら雷のような音がしていたが、厨房の中では様々な音が入り乱れているし、店は通り沿いに面してはいても小窓があるのは入口の戸の左右くらいで、石造りの穴倉にも似た店内はもともとあまり外の音は聞こえない。
まだ酒量もそれほどでない客ばかりの店内で、大きな物音がたつような騒ぎがあるとも思えず、彼は肉を叩いて柔らかくする作業の手を休めて耳を澄ませた。
その途端、長く尾を引く嘶きが、すぐ間近で聞こえた。
長年の勘が正しく告げているならば、店先からもうそれほど離れていない路上に、その声の主はいる。
その勘が正しかったのかどうか、彼には後になっても正否を確かめることはできなかった。
正しかったのだとすれば、それはあまりにも早過ぎたし、誤っていたとすれば、その声は少し遠すぎた。
ただいずれにせよ、それが自分の店に向かって来ているのだとは彼は露ほども思っていなかったのだ。

店の扉が何の前触れもなく真っ二つに割れて吹き飛ばされた時、その轟音と共にどっと流れ込んできた表の喧騒が、尋常ならざる気配を巻き上がる埃と共に店内へ運んだ。
彼は大きく見開いた眼で突然訪れた災厄が、ゆっくりと戸口に立つのを見守っていた。
店内の客達も皆一斉にそちらへ顔を向けていた。
突然の事に、一体何が起きたのかもわからなかった客達は誰もが驚きに眼を見張り、凍りついたように動きを止めた。
そこに現れたものの姿は禍々しく異様で、この安居酒屋だけでなく、学都バルセナタンのどこであろうとも似つかわしくないものだった。
表で地獄の死者の笑い声のように、馬が嘶いた。


*** ***


厩に駆け込み、コウは愛馬の姿を探した。
何百人といる魔術騎士団の騎士たちと同じだけ、厩には馬がいる。
彼らの世話をする係の者は常に馬達を順繰りに馬場へ出し、運動させては身体にブラシをあてて馬達の調子を整えている。
もし彼の愛馬が今馬場に出ていればここにはいないし、ここにいれば馬具を取り付けなければならない。
コウは唇に指をあて、ピーと数度口笛を吹いた。
遠くでそれに答える嘶きが聞こえる。
馬場の方だ。
コウは厩の中を駆け抜けて、馬場へ向かった。
馬場には30頭ほどの馬が放たれ、係りの者に手綱を引かれたり思い思いに自由意志に従って走ったり歩いたりしていた。
コウが馬場に近づいていくと、先に主の姿を確認していた彼の馬は嬉しそうに一声鳴き、勢いよく走り寄って来た。
どうやら彼の愛馬も、あの嘶きを聞いて事態を察していたようだ。

「コウ、何かあったのか?先ほどから…学都の空気の様子がおかしい…。あの声…」

愛馬の首を撫で、その背に飛び乗ったコウに、馬場の係の1人が不安気に訊ねた。

「厄介な事になっているかもしれん。どこの部隊になるかはわからんが、おそらくすぐに出動指令が出るだろう。馬達の準備をしておいたほうがいい」

手綱を手繰って馬首をめぐらせると、コウは彼にそういい置いて愛馬の腹を一蹴した。
たちまち馬は勢いづいて走り出す。

「頼む……」

祈るように口にした呟きに、任せておけと言わんばかりに馬は駆ける速度を上げた。


魔術騎士団の本部及び宿舎があるバルセナタン北東区に対して、ロザリン達のいるアナ家の安宿居酒屋があるのは中央広場からのびる大通りを挟んだ対岸の区域だ。
大通りの枝通りとなる主幹通りに通じる路地沿いに面した店は学都の南西の区域に位置しており、中央広場からはさほど遠くない。
いずれにせよ、そこへ駆けつけるための最短経路は大通りに通じる枝通りを下り(魔術騎士団の本部は高台に位置している)、中央広場を通り抜けるという道筋だ。
その最短経路を駆け、中央広場まで辿り着いたコウはその惨状に声を失くし、手綱を引いて愛馬の足を緩めた。
広場の路上には一般市民のものも含め、何人もの遺骸が転がっていた。
中には意識の朦朧とした状態ではあるものの、まだ息のある者もあったが、いくつかの遺骸は噴水の泉の中に上体を沈めていたり、うつ伏せに浮かんでいたりした。
泉の水は赤く染まり、噴水が撒き散らす水も薄い紅の雫に変わっている。
そして、明らかにこと切れている死者の遺骸の多くには、首から上がなかった。
横たわる魔術騎士の遺骸の間を縫うように進み、コウは愕然とした。
門衛を担う守備部隊一個中隊が、これほどの短時間で壊滅させられるとは。
大正門を真正面に見るように、がっしりとした立派な体躯の身体が前のめりに倒れていた。
首のない身体は真っ直ぐに門の方を向き、投げ出された剣が時計の針のように門塔を指していた。
身に着けた着衣から、それが守備隊長の無残に変わり果てた姿である事がコウにはすぐにわかった。

“何ということじゃ……”

頭の片隅で、イライジャの嘆く声が聞こえる。
ギリギリと奥歯を噛み締めて、コウは再び愛馬を走らせた。


*** ***


どうん、という大きな音が階下で響いた。
石造りの堅固な宿屋は、僅かな揺れを踊場に立つ2人に伝えただけだったのだが、その瞬間ロザリンの手の中のリリスの身体が激しく震えた。
あの夜の恐怖が蘇る。
姉のような人の柔らかな胸を押しやり、リリスはロザリンから身体を離した。
ダメだ、ここにいる人達を巻き込んではいけない。

「ロズ、私にかまわないで上に行って!どこかの部屋に隠れてて!!」

「何を言ってるの!?」

「あいつは、私を追ってるの。私を追いかけてくるの!!だから、私がここにいたら皆が…皆が殺される!」

正確にはリリス自身をではなく、彼女が持つ石をあれは追っているのだ。
だが、その石が彼女の家にあったもの、それも隠されていたものである以上、無責任にそれを放り出してしまうわけにもいかなかった。
なぜあの魔物は石を追っているのか、また石自身が魔物を呼んでいる(らしい)のか、その理由もわからぬままに投げ出すわけには。

「そんなこと、させられない…!!」

リリスは一瞬の隙をついてロザリンの腕を逃れ、踵を返して階段を駆け下りた。

「!!待って!!」

ロザリンもすぐにその後を追う。
階段を下まで下り切ると、狭い吹き抜けのホールには扉一枚隔てただけの店内から激しく争う物音や悲鳴、喚声、怒号が漏れ響いていた。
剣と剣が打ち合う音や、陶器が割れる音、物が壊れる音、様々な音が入り乱れ、扉の向こうの混乱を伝えてくる。
扉を見つめ、思わず足を止めたリリスの腕を、追いついたロザリンが捕らえた。
その途端、勢いよく扉が開き、恐怖に顔を引きつらせたレーダとランが、武器を持たない客達と共になだれ込んで来た。
ロザリンの父は厨房の中から動いていない。
大きく開いた扉の向こうで、何人もの騎士達が剣を抜いて立ち回っているのが見えた。
魔術を使っているのだと思しき呪文を唱える声や眩い光も店内のそこかしこで交錯している。

「ロズ!!」

ロザリンの姿を見とめると、レーダは安堵と恐れから見開いた眼に涙を滲ませて彼女に駆け寄った。
リリスと2人を大きな身体で包み込むように抱きしめ、「ああ、恐ろしい!!早く逃げなけりゃ!!」とレーダは叫んだ。

「レーダ!まずお客さんを安全なところに…!」

ロザリンがそう言うと、それに被せるようにリリスが「上へ!」と言った。

「あれは、私を追ってくるはずだから…私から離れて隠れていればきっと大丈夫よ!」

ロザリンはレーダにその通りにしろと目で合図し、レーダはランと共に彼らが下りてきた階段を客を誘導しつつ上がって行った。
リリスは意を決したように店へと通じる扉をくぐろうと、そちらへ足を向けた。
ロザリンの手がその動きを封じる。

「待ちなさい!!」

「裏木戸から外へ出るわ!!」

リリスは店の裏方の木戸から裏庭へ出、黒騎士がそれを追って外へ出てくればいいと思っていた。
そうすれば少なくともアナ家の人々や、お客の命は守れるかもしれない。
しかし店の方へチラリと目を走らせたロザリンは青ざめた顔でリリスの手首を掴み、「無理よ!もうこっちへ来るわ!!」と叫ぶなり階段の脇を抜けて廊下の奥へと走った。
リリスが振り返ると、店内には霧のように血煙が漂い、石床に幾人もの騎士が倒れているのが見えた。
そして、首のない黒騎士の背中が。
その背がゆっくりとこちらを振り返る。
短い廊下の角を曲がる時、魔騎士の身体がぼうっと青白く光るのを、リリスは息の詰まる思いで見ていた。


2人の視界から危険が遠ざかったのは、ほんの一瞬のことだった。
すぐにリリスにとっては記憶に新しいあの重々しい音を響かせながら騎士は扉をくぐり、ホールを抜けて追って来た。
まっすぐに彼女達を追って。
だがそれに2人の傷を負った魔術騎士がギリギリで追いすがった。
彼らは店の常連客で、少女の手を引いて逃げるロザリンの姿を目にしていた。
狭い吹き抜けのホールで小競り合いが続く。
リリスの手を引いて曲がった廊下のつきあたりにある洗濯室へ、ロザリンは駆け込んだ。
小さな扉に鍵をかけ、リリスの手も借りて水を張った上にシーツが浸されている大きな洗い桶を扉の前まで引きずっていき、戸の重しにした。
けれどもそんなものは何の役にもたたないことをリリスは知っている。
洗濯室は沸かして保温してあるお湯の熱気で暖かく、湿っていた。
ロザリンは溜め水をするための水槽の脇の床に屈みこみ、床石にに埋め込まれている鉄の輪を掴んで引っ張った。
床の一部が引き上げられ、そこにぽっかりと人1人が通れそうなほどの穴が開く。
ロザリンはリリスを手招いて、その穴を覗かせた。
暗く湿った穴の中はひんやりとしている。
真っ暗で何も見えない穴の下では、しかし微かに水の流れる音がしていた。

「この下には、学都の地下に整備されてる地下水道が流れてるの。普段はここへ洗濯に使った水や、古くなった溜め水を流して捨てるんだけど……ここからなら、地下水道を辿って外へ出られるわ」

「ロズ……?」

ロザリンは1度だけリリスの肩を抱きしめ、すぐに彼女の顔を覗きこんだ。
普段は朗らかで明るく、生き生きと輝いている琥珀色の瞳が厳しい光を宿している。

「リリス、よく聞きなさい。あなたはここから逃げて、何とかして魔術騎士団の宿舎に向かいなさい。コウの名前を出して彼に会わせてもらうの。騎士団の宿舎は街の人なら誰でも知ってるから、聞けばきっと教えてくれるはずよ」

「ロ…」

「私の言う通りにしなさい!」

信じられないと言わんばかりに大きく眼も口も開いたリリスが反駁する暇を与えず、ピシリとロザリンは言い放った。
身動きすら封じられたようにリリスは言葉を失う。
扉の向こうに聞こえていた闘いの気配が消え、重たげな足音が響いた。
ロザリンはそれを耳聡く捕らえていた。
緊張で一瞬頬がこわばり、自信を落ち着かせようとしてか、彼女は小さく息を吐き出した。

「リリス、私はコウからあなたを預かった。それは彼が私を心から信頼してくれていた証だと思ってる。そして、それを誇りに思ってるわ」

ロザリンの眦がふと緩み、彼女は柔らかな光に照らされた陽だまりのように微笑んだ。

「心からの信頼は、どんな言葉よりも愛を伝えてくれるから。だから、私は彼の信頼に応えたい。どんなことがあっても、私はあなたを守る。そうでなければ、私は彼の信頼に値しないことになるわ」

「ロズ!!嫌!!」

ロザリンが何をしようとしているのかを悟り、リリスは彼女に縋りついた。

「やだ!!私だけ逃げるなんて!!!!」

リリスがそう叫んだ刹那、すさまじい音と共に、洗濯室の戸が文字通り破裂して飛び散った。
2人は思わず悲鳴をあげ、ロザリンはリリスを庇って少女を自らの胸の下へ抱きこんだ。
弾け飛んだ木片が部屋のあちこちに当たって音をたてる。
パラパラと木屑や埃が舞い落ちる中、咳き込んで背けていた顔を恐る恐る戸口へ向けると、そこには見紛う事なきあの姿があった。
リリスが自宅の父の書斎で対峙した魔物。
首の無い大きな黒い騎士。
彼女をまるでゴミ屑同然に叩きのめし、無慈悲に命を奪おうとした相手だ。
リリスの喉がごくりと鳴り、身体が自然に後ろへ下がろうとする。
ロザリンは少女の前に立ち、背中に庇ったリリスに「早く行きなさい!」と叱責した。
だが、リリスは動けない。
感情の全てはロザリンの命令を拒否していた。
彼女1人を残して自分だけが騎士の魔手から逃れるなんて、できるはずがない。
黒騎士は戸口にうっそりと立ち、値踏みでもしているかのように部屋の隅に固まっている2人の方へ身体を向けている。
首から上がない大きな体躯は、目鼻も口もなく、表情もないくせに、不思議と雄弁だった。
騎士の身体が小さく揺れると、その僅かな仕草で2人には騎士が彼女らを嘲笑っているのだと理解できた。
ガチャリ、と甲冑の重い金属音と共に、騎士は一歩を踏み出した。

[2011年 1月 21日]

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