Chapter.3-7

「リリス、こっちの器に玉子を割っておいてくれないか?」

「はい、いくつですか?」

手渡された木の椀を片手に抱え、玉子のこんもり積まれたカゴへと視線を走らせながらリリスが訊く。

「そうだな…5つくらいでいいかな。あと、フロブの葉を細かく刻んでその中に入れてかき混ぜてくれ。フロブはロズに言えば裏庭から摘んできてくれるはずだ」

「わかりました」

厨房で肉を薄くそぎ切りしている親父さんに溌剌とした笑顔で答えると、リリスはカウンターの隅の跳ね板を上げて厨房を出た。
すぐに中身のあいた麦酒のゴブレットを積み上げた盆を手にしたロザリンが洗い場へ戻ってくるのを見つけ、駆け寄って盆の上のゴブレットを洗い桶の中へ浸けるのを手伝う。
ロザリンが微笑んで「ありがとう」と言うと、リリスは嬉しそうにはにかんだ笑みを返した。

「親父さんが、フロブの葉を刻んでほしいって。ロズに言ったら裏庭で摘んできてくれるからって」

リリスがそう言うと、ロザリンは「わかったわ」と頷いて盆をカウンターの上に置き、踵を返す。
と、同時に一瞬ロザリンの足元がふらつき、リリスは慌てて彼女を支えた。

「あ…ありがとう。ごめんね」

苦笑する彼女をよくよく見れば、どことなく顔色が悪いように見える。
リリスは心配そうに眉を顰めた。

「大丈夫?何だか……具合がよくないみたい…」

「ううん、大丈夫よ。ちょっと…一瞬立ち眩みがしただけだから…」

ロザリンは彼女を安心させようと笑い顔を見せてそう言ったが、無理をしていそうな事はリリスにもわかる。
ランタンの灯りがあまり届かない洗い場の陰に入っているとはいえ、ロザリンの顔色は血の気がなく蒼白く見えたからだ。

「フロブの葉ね。今採ってくるからちょっと待ってて」

「私も一緒に行く」

リリスは洗い桶の中へ洗剤を少し振り入れて、裏庭へ出る木戸を開けたロザリンの後を追った。

リリスがロザリンの元へ身を寄せてから、これで3日になる。
コウからは何の連絡もなく、ただじっと待つだけの時間は途方に暮れるほど長かった。
彼に会いたい、顔を見て声を聞きたいと思う気持ちは抑えようとしても募る一方で、1人になればなるほど思考の外へ追いやるのが困難になった。
初めてここへ連れて来られた日の夜は、様々な感情や想いが目まぐるしく彼女の内で渦を巻き、ほとんど眠ることができなかった。
しかし、彼女は元来が明るくまっすぐで、好奇心旺盛で活発な性質の少女であったから、翌日の午後には自分の気持ちを切り替えるためにも何かと立ち働いていた方がよいと判断し、ロザリンに店の手伝いをしたいと申し出た。
もともと父とずっと2人暮しで、家事は全てひとりでこなしていたりリスの事、宿の仕事にも居酒屋食堂の仕事にも十分な助力になれる。
ロザリンも店主である彼女の父も、喜んでその申し出を受け入れた。
こじんまりした安宿居酒屋とはいえ、人手は十分に足りているとはいいがたい状況であったから、彼らにしてもそれはありがたい事だったのだ。
ロザリンにあれこれと教わりながら、リリスは彼女が使っている部屋を含めて10室ある宿部屋の掃除や食堂の食事の準備、食材の買い出しや下ごしらえの手伝いなどをてきぱきとこなした。
ロザリンも、親父さんも、2人いる通いの雇い人(1人は主に夜に給仕係として働く少年で、ランという名だった)も、皆リリスを暖かく見守り、何くれとなく話しかけてくれたので、2日目になると彼女はすっかり仕事にも彼らにも慣れ、ここが好きになりはじめていた。
特にロザリンはまるで彼女の姉ででもあるかのようにリリスを可愛がり、世話を焼いてくれるものだから、ひとりぼっちで父親の不器用な愛情しか知らずに育った少女はそれがくすぐったくもありながら嬉しくて仕方なかった。
心の奥底には、コウへの想いから彼の恋人であるロザリンに対する気持ちの複雑な葛藤はありはしたけれど、それとはまた別のところで彼女を慕う気持ちも大きく膨らんでいった。
日中、リリスはロザリンの後をついてまわり、夜には厨房に入って親父さんの調理を手伝った。

ロザリンの様子が少しおかしいと気付いたのは今朝、宿泊客の朝食が全て終わり、テーブルの片づけをしている時だった。
汚れたテーブルの上を拭っていたロザリンが、急に動かしていた手を止めて口元を覆ったのだ。
両目をぎゅっと閉じて、彼女は少しの間そのままテーブルの上に片手をついてじっとしていた。
リリスと、もう1人の雇い人である年嵩の女性、レーダが「どうしたの?」「大丈夫かい!?」と声をかけると、ロザリンは大きく深呼吸をして顔をあげ、「うん、平気。ごめんなさい」と答えた。
その後、彼女は何事もなかったかのように仕事を再開し、午後にはりリスを伴って市場へ買出しにも出かけたのだが、はぐれて道に迷うのが心配だからとつながれたロザリンの手は、指先だけがひやりと冷たかった。

ロザリンを追って木戸をくぐると、数段階段を下りたすぐ目の前には木の柵に囲われて綺麗に整えられたハーブ園がある。
そこでは様々な薬草や香草、簡単に栽培できる野菜等が作られていて、宿泊客が体調を崩した時に調合したり料理に風味を加えたりするのに使われているのだ。
まだ夕闇に包まれはじめたばかりの裏庭には、ハーブの香りに引き寄せられて体の一部から光を発する小さな夜光虫が何匹か、ふわりふわりと飛んでいた。
リリスが階段を下りてくるのを見ると、にっこり笑ったロザリンがすでに摘み取ったフロブの葉を束ねてこちらへ差し出した。

「これだけあれば足りると思うわ。すぐに持って行って」

「うん」

頷いてそれを受け取ったリリスは厨房へ戻ろうと階段に足をかけるが、ロザリンが動こうとしない。

「ロズ、戻らないの?」

心配そうな声で訊くリリスに、ロザリンは「大丈夫、すぐ戻るから。他の香草もきっと足りなくなると思うからついでに少し採っていくわ」と答えた。
気がかりではあったものの、リリスは言われた通り急いで厨房へ戻った。
まずは親父さんに頼まれた事をさっさとやってしまわなければならない。
お客は注文した料理を待っているのだから。

リリスは厨房へ戻るとざっと数枚の葉を水洗いして手早く細かく刻み、玉子を割りいれた椀に加えてかき混ぜた。
準備が整った椀を親父さんに手渡すと、彼は待ってましたとばかりにそれを手鍋に温めて溶かしてあったチーズのソースの中へ流し込み、蓋をして蒸し焼きにする。
砂時計が一度落ちるタイミングで蓋を取り、それを鮮やかな手つきで裏返すと、親父さんはもう一度鍋に蓋をした。
チーズの僅かに焦げたにおいがふわりと漂う。
それだけで、お腹がぐうと鳴りそうなほど、美味しそうな匂いだった。
厚みのあるふっくらとした蒸し玉子焼きが出来上がり、大皿の上に豪快に盛り付けられて運ばれていくと、注文もいったん途切れてほっと息をつく間ができた。
店内に眼を向けると、盆を手にしたランが一休みといった体で店内を見渡しているところで、ロザリンの姿がない。
まだ裏庭にいるのだろうか?
心配になったリリスは、親父さんに一声かけてから厨房を出て裏庭へ向かった。

「ロズ、無理しちゃだめだよ。いつまで隠しとくつもりなんだい?」

木戸の取っ手を回し、開けようとしたところで開きかけた扉の隙間から潜めた話し声が耳に届いた。
思わずリリスの手が止まる。
声の主はどうやらレーダのようだ。
ロザリンと話をしているのだろうか?

「…隠すって何を?心配しなくても大丈夫よ、レーダ。そんなに無理してるわけじゃないわ。ちょっと今朝はあまり調子がよくなくて…今日は早めに休めば良くなるわよ」

気遣わしげなレーダに対し、ロザリンは常とまったく変わらない様子で明るく答えている。
だが、だてに歳を重ねているわけでも長くこの店に勤めているわけでもないレーダは、そう簡単には引き下がらない。

「何を気に病んで黙ってるんだか知らないけどね、今そんな無理をしちゃあダメにしちまうよ!」

「レーダ…」

「ロズ、あたしに隠そうったって、そうはいかない。あたしだって昔は母親だったんだから。おなかの子の父親が誰だかは見当がつくけど…」

「黙ってて!!」

みなまで言わせず、ロザリンはいつになくぴしゃりと年嵩のレーダに言い放った。
取っ手にかけたリリスの手が、小さく震えた。
“おなかの子”という言葉が、ぐるぐると頭の中を廻っている。

「……私は…大丈夫だから…。レーダが心配してるようなことは何もないわ。だから……何にも言わないで黙ってて」

「ロズ!!」

「お願いだから……絶対に…特にリリスの耳に入るようなところでそんな事、絶対に言わないで…!!」

扉の向こうで大きな溜息が吐き出された。
ロズの願いをレーダが聞き入れたのかどうかは、りリスにはわからずじまいだった。
彼女が答えを口にするより先に、開きかけた木戸を静かに戻したリリスは逃げるようにその場を立ち去っていた。

その後どうやって厨房へ戻り仕事を続けていたのか、彼女には全く記憶がない。
ただ、ぼんやりと親父さんに頼まれた野菜の皮むきをしていて指先を少し切ってしまい、ちょうど手すきだったランに手当をしてもらったところで親父さんに「少し部屋で休め」と勧められた。
まだ日は暮れたばかりで店内の客はそれほど多くはなかったし、それでなくともリリスは前日の午後からずっと忙しなく働いていたから、さすがにそろそろ疲れも限界にきているはずだ、と親父さんは彼女の怪我の原因をそう捉えたのだ。
裏庭から戻って給仕や会計に忙しく動いていたロザリンもリリスの怪我を心配し、部屋まで付き添おうとしたのだが、リリスは忙しいのにそんな必要はないと断り、1人で部屋へ戻った。
自分に与えられている部屋へ戻ると、リリスは内側から戸に鍵をかけ、ベッドの上に倒れこむように突っ伏した。
胸の奥で無理やり抑えこんでいた感情が猛獣のように暴れだし、押し込めようとする手を食い破って溢れ出た。
枕に顔を埋め、リリスは声を殺して泣いた。
胸元をぎゅっと強く掴んでその心の痛みに耐えた。
“おなかの子”という言葉が、耳の奥で何度もこだまする。
レーダの言った事が本当なら、ロザリンのおなかの中には新しい生命が宿っている。

“父親が誰だかは見当がつく”

“リリスの耳に入るようなところでは…”

“絶対に言わないで…”

2人の間で交わされた言葉が次々に脳裏によみがえる。
おなかの子の父親がレーダにも見当のつく、そしてリリスに知らせたくない相手だと言うのなら、それはコウ以外にありえない。
そのことそのものもリリスにとっては打撃であったが、リリスに知らせたくないとロザリンが思っているという事実がさらに少女を打ちのめした。
なぜロザリンはおなかに子供がいると、それが事実なら隠しているのか、そして彼女に知られたくないと思っているのか、考えてもリリスにはその理由はわからない。
だが、ひとつだけリリスにもわかることがある。
ロザリンは、リリスのコウに対する気持ちを知っている。
知っているからこそ、このことをリリスの耳に入れたくないと思っているのだ。
もし彼女がもう少しだけ大人で、もう少しだけそれまでの人生の中で他人と触れ合う機会を多くもてていたなら、それがロザリンの優しさであり、彼女を慮っての厚意なのだと察することもできただろう。
けれどもそれに気付くにはリリスはあまりに他人と心を通わすことに不慣れすぎた。
生まれて初めて抱いた恋心をもてあまし、抑えこむしかできない少女は、思慕を覚えた姉のような女性への愛憎相反する感情のせめぎあいに翻弄された。
彼女を好きだと慕う気持ち、自分もあんなふうになりたいと思う憧れの気持ち、それを恋心が生み出す嫉妬と羨望が打ち消そうとする。

“こんなに苦しいなら…”

こんなに苦しいのなら、いっそコウともロザリンとも出会わなければよかった。
リリスはそう思った。
あんな事がおきなければ。
黒騎士が、彼女の家を襲ったりしなければ。
そうすれば、彼女がコウに助けられて出会う事も、彼と共に家を出なければならなくなる事も、ロザリンの手元に預けられる事もなかったはずだ。
これまでと何ら変わることのない、退屈だが平穏な日々を父と共に送っていたはずだ。
あんな事がおきなければ。
リリスは起き上がり、枕元に置かれた皮袋の中から、あの小瓶が入った小袋を取り出した。
中から瓶を出し、涙で霞んだ眼で果実酒に沈めた石を睨むように見つめる。
この石さえなければ。
いまや彼女の内に荒れ狂う負の感情は向かう矛先をすり替えられていた。
彼女のそれまでの穏やかな暮らしが狂わされたのは、その石を見つけた夜からに他ならない。
リリスは感情の波に押し流されるまま、小瓶を石床に叩きつけた。
パリンと硬質な音をたてて、あっけなく瓶は割れた。
辺りにガラスの破片が散らばり、果実酒が石床に染み込んで血のような色の痕を残す。
瓶が割れると同時にリリスの許容量を超えた鬱積も弾けたのだろう。
肩で息をしながら、ようやく少女は涙に濡れた両眼を手の甲で拭った。
拭っても拭っても涙は溢れて止まらなかった。
いったん爆発した感情は、ずっと彼女が押さえ込み、耐えてきた全ての想いを一気に外へ向かって押し出した。
恐怖、痛み、不安、悲しみ。
あの夜からずっと、それらは彼女の心の底に閉じ込められてきたのだ。
やがて倒れた水桶から全ての水が流れ出てしまうように少女の中の全ての澱が零れてしまうと、泣き疲れて麻痺したリリスの意識はするりと闇に落ちていった。
深い眠りの闇に捕われる直前、もう何も考えられず、考えたくないと思う頭の片隅で、床の上に散らばったガラス片が微かに瞬いたのを、リリスは見たような気がした。


*** ***


宮廷内にある帝国軍設備、軍宿舎の中でも、傭兵部隊の宿舎は最も宮殿から離れた片隅に位置している。
それは、正規軍と違い素性や出自が審らかでない者達を集めた団体である事や、課せられる任務の性質の違いからも自然な配置ではあるのだが、何かと正規軍から軽んじられたり無法者扱いを受ける事も珍しくない傭兵達にしてみれば、帝国の彼らに対する認識がそこにも現れているのだと悪印象を抱く者も少なくない。
帝国は常に外へ外へと領土を拡張するために進軍を進めており、兵士は次から次へと新地へ送り込まれている。
正規軍よりも圧倒的に遠征頻度の高い傭兵には、それなりに破格の給料も支払われているので誰も表立ってそれを口にする者はないけれども、割り切っているからといって不満を感じないというわけではないのだ。
それゆえ、正規軍、更にはそれを上回るエリートと目される魔術騎士団の団員が、下級騎士とはいえ使いで傭兵部隊の宿舎を直接訪れるというのは、傭兵達にしてみれば珍しい光景だと言えた。
騎士が宿舎の入口で訪いの理由を告げると、宿舎の管理官はすぐに従者に命じてオスカー・ウィンを呼びに行かせた。
ちょうど少し前に戻ったばかりの中隊長は、自室で持ち帰った数冊の本をパラパラとめくりかけていたところだった。

この日は午前中に騎馬隊の訓練と次の遠征の準備に関する会合に出席し、午後になって隊務の合間に彼は宮廷図書資料館へ赴いた。
昨晩ジリアンが提案したように、彼らはまず図書資料館にある膨大な量の書物・資料の中から何か手がかりになるものがないか探る事からはじめる事にし、まだジリアンからベッドを出る許可をもらえないセシアスを1人残して資料館の中をあちらこちらへ行き来した。
とはいえ、オスカーには眩暈がしそうなほどどこを見ても本だらけの書棚の迷路を1人で歩くなど到底無理な話で、もっぱらジリアンの選び出す書物を受け取り、何冊も積みあがったそれを書見台に運んだり、その中から選り分けた何冊かを彼女の部屋のベッドにいるセシアスのところへ運んでやったり(少年は、ベッドから出る事が叶わないなら、床に入ったままでもできる事を手伝いたいと言ってきかなかった)していただけで、それほど調べ物の役にたっていたとは言いがたい。
それはオスカー自身も自認するところであったけれども、人には向き不向きというものがある。
そんなわけだったから、ジリアンが選別した資料の中でもオスカーが目を通して何かを探し出せそうな類のものといえば、歴代の皇帝専属魔術師の経歴とその在籍期間中の出来事などをまとめた名鑑や、帝国の塩交易に関する資料くらいのもので、またあの日列席していた魔術師に実際に会った事(見た事)があるオスカーには他のどの資料より目を通す事で役に立てる可能性の高いものだった。
中隊長という階級柄、一般の騎馬隊士よりもすこしばかり広い部屋には小さな暖炉があり、その前には何人かが座って談話できる応接用の長椅子と低いテーブルが置かれている。
そのテーブルの上に、オスカーは資料を積み上げていた。

「ウィン中隊長、魔術騎士団団長アルド・リュー・シオン殿の使いで…魔術騎士団の騎士殿がおみえになっております」

宿舎管理官の従者がそう伝達すると、オスカーはあからさまに眉を顰めた。

「?シオン団長の使いだぁ?一体何の用件だっていうんだ?」

「さぁ…私にはわかりかねますが、とにかく管理室までおいでください」

首を傾げてそれでも用件だけは伝えてしまうと、従者はくるりと背中を向けてオスカーの部屋を去って行く。
オスカーは、やれやれと溜息をひとつ吐き出し、手にしていた資料を置いて部屋を出た。

宿舎管理室に入ると、そこには魔術騎士団の団服に身を包んだまだ年若い、だが目つきの鋭い青年が彼を待っていた。

「…お待たせした。オスカー・ウィンだ」

青年は感情をあまり面には出さず、淡々とした態度でオスカーに頭を下げた。

「突然のお呼び出し、申し訳ございません。ですが、我が魔術騎士団長アルド・リュー・シオンがウィン殿にお会いしてお話したい事があるゆえ、私邸まで足を運んでいただきたいと」

「騎士団長が…?私に?」

「はい。私は、ウィン殿を団長の私邸までご案内せよと命を受けております」

それを聞いて、オスカーは苦笑まじりに肩を竦めた。

「やれやれ。それは、どうあってもこのまま貴殿について騎士団長をお訪ねせねばならんということじゃないか」

「申し訳ございません」

そう答えると、魔術騎士団の青年はニヤリと不敵に微笑んだ。

数刻の後、青年に案内され、オスカーは魔術騎士団団長アルド・リュー・シオンの私邸を訪れた。
本体を学都バルセナタンに置く魔術騎士団の中でも、団長であるアルド・リュー・シオンは大幹部として帝国本部に駐留しているため、暫定的不定期に帝都に逗留する各小部隊の隊長達とは異なり、立派な私邸を宮廷内に構えている。
魔術騎士団団長の私邸は、ほどほど宮殿に近い日当たりのよい小丘の上にあった。
午後もすでに遅い時刻とはいえ、シオン邸には本来ならば暖かな日差しが降り注いでいる時間帯のはずだったが、先日来続く悪天候は今日も太陽を分厚い雲の向こうに覆い隠していた。
空からは雨こそ落ちてはいなかったが、垂れ込める雲は鈍い灰色で、どんよりと重苦しい。
シオン邸へ向かう道すがら、ふと見上げた林の木の枝に、白い梟がバサバサと羽音をたてて舞い降りるのが見えた。
オスカーの目がつかの間梟のそれと合い、白い鳥はホゥと小さく一声鳴いた。

“白い梟か……まだ明るい時間なのに…”

ふと一瞬そんな事を思ったが、シオン邸に到着する頃にはオスカーは道行く途中で見かけた梟の事などすっかり忘れ去っていた。

迎えの騎士に伴われ、邸内へと招き入れられたオスカーを待っていたのは、主であるアルド・リュー・シオンではなく、その妻のアルマであった。
彼女はにこやかな笑顔で悪びれもなく、夫であるアルド・リュー・シオンは出掛けて不在であり、自分が夫の名を使って彼を呼びつけたのだと告げた。
もともと本人も女好きで女性からも好かれる性質である為、不意打ちのように待ち伏せされたり、今回のように騙して呼び寄せられたりというのはオスカーにとって決して珍しい事ではない。
相手が夫持ちであろうが子持ちであろうが望まれればそれほど選り好みはしなかったし、遺恨を残さず後腐れなく事をすませる手管も心得ていたので、遊び好きな女性には非常に都合よく好まれたのだ。
しかもその女扱いの上手さから、浮名は流しても悪い噂を立てられた事はほとんどなかった。
だがどうやら今回はそのような艶めかしい理由で呼ばれたわけではなかったらしい。
応接室に通されたオスカーは、既にそこにいたその人の姿を見て目を見張り、次いで“なるほどな…”とひとりごちた。

「お呼びたてしてしまって、申し訳ありませんでしたね。ウィン中隊長」

部屋の中央、長椅子にゆったりと腰掛けていたヘルメス・フラメールが優雅な所作で立ち上がり、にこりと笑った。

「リュー・シオン夫人、ありがとうございました」

「どういたしまして。私は席をはずしますから…お話がおすみになったら、お呼びくださいね」

ヘルメスが礼を述べるとアルマは心得たように微笑み、そう言って部屋を出て行った。
アルマが応接室の扉を閉めると、ヘルメスは聞き取れないほど微かな声で短い言葉を呟いた。
おそらく結界を張ったのだろう。

「まさか、あなたに呼び出されたのだとは思いもよりませんでしたよ、フラメール殿」

実のところ、遠からず何らかの形でヘルメスからの接触があるに違いないと予測してはいたのだが、まさかこのような手法を取られるとは思っていなかった。
実際、オスカーはもっとストレートに宮殿の魔術師の執務室か、それこそ魔術騎士団の会議室にでも呼ばれるのではないかと考えていたのだ。
魔術騎士団長の細君が夫の名を騙って仲介人になるなど、想像の他だった。
けれどもそれは裏を返せばヘルメスにとって正攻法で彼への接触を図るのは、あまり都合がよろしくないという事を意味する。
ヘルメスは面に浮かべた穏やかな笑みを崩さず、オスカーを自分の掛けていた長椅子の正面の椅子へ座るようにとしぐさで促した。
オスカーは内心では警戒を怠らぬよう気負いつつ、魔術師に促されるまま緩やかに湾曲した椅子の背に身体を預けた。
宿舎に魔術騎士団団長の名を使って迎えをよこした以上、そうそうおかしなことはできまいと思いはするものの、相手は腹の内の読めないくわせものの魔術師だ。
魔術師ギルドの協定では、他人を意のままに操ったり、意思を乗っ取ったりするような魔術を使用することは禁じられており、公的にもその種の魔術の継承伝達はごく一部の限られた魔術師の間でしか行われないはずで、オスカーもそれは承知してはいたが、ヘルメスが果たしてその協定に従順であるかどうかはわからない。
もしもヘルメスが何らかの魔術でオスカーを操ろうとしたなら、彼にはそれに抗う術はないのだ。

「…そんなに警戒なさらずとも大丈夫ですよ、ウィン殿」

クスリ、と口元を歪めたヘルメスがそう言った。

「あなたが内々に通達された緘口令にちゃんと従われている事は承知していますし、あなたがなぜあの時我が邸の中庭の状況をご存知だったのかについては…今更問い正すほどの意味も無い。些細な事です」

そう言って、ヘルメスは座り直した長椅子の背に静かに身をもたせかけた。
濃緑の瞳が愉快気に細められる。
魔術師はあの時の自分の行動を大方わかっているのではなかろうか?
オスカーの背筋に一瞬ひやりとしたものが走る。
ならば、彼だけでなくセシアスの事も…?

「それとは少々別件で…あなたにお伺いしたい事があるのです」

魅惑的な微笑を浮かべたまま、ヘルメスは続けた。

「あの夜、あなたが宮廷図書資料館の司書長、ジリアン・アナ嬢をエスコートする事になっていたのは、どういういきさつだったのですか?私は昼間、彼女に貸出許可を取った資料図書を全て邸まで届けてくれるようにとお願いしていました。その後、宴席へそのまま出席くださるようにとも…。それは、あの会合の場でも申し上げましたが、件の調査に彼女の手を借りたいと思っていたからです。私が個人的にお願いするだけではおそらく彼女は首を縦にはふってくれないでしょう。ですから、あの場で…正式に魔術騎士団の肝いりで調査協力の依頼を彼女にしようと思っていたのです。しかし……」

「…いきさつも何も……たまたまあの日、所用あって図書資料館を訪ねた折にアナ殿とお顔をあわせましてね…。ちょうどフラメール殿がお帰りになった後だったようなのですが、私があの夜あなたの邸での会議に出席するとお話したところ、ご本人からそう頼まれたのですよ。彼女はあなたの邸に伺うのは初めてだった上、宴席などという晴れがましい場所に身を置くことを大変心配していましたからね…。ちょうど同じ場所に居合わせる顔見知りの私が一緒であれば、少しは気が楽になるから…と」

「……それだけではないでしょう?まぁ確かに…彼女にもあなたが一緒なら…という気持ちはあったかもしれないですが…」

ヘルメスは少し可笑しそうに苦笑を漏らした。

「…それだけではないはず…。あなたは……あの少年に頼まれたのでしょう?おそらく、彼女を守ってほしい、とかそういった類の事を」

「……」

とっさに即答しかねたオスカーの沈黙は、肯定に等しい。
それをよくわかっていたオスカーは密かに心の中で舌うちした。
ヘルメスは満足気な表情で、彼の眼を真っ直ぐに見据えた。
深い森の暗闇のような眼と晴れ渡る青空色の眼が静かにぶつかり合う。

「彼女の助手として…常に彼女の側で仕事をしているあの司書の少年。名前は……セシアス…と言いましたか…。彼はどうも私のことを誤解しているようです。それで、ジリアン・アナ嬢ともあの少年とも親しいでしょうあなたに…少々その誤解を解くための手助けをしていただきたいのですよ。私はもう少し…彼の事を知りたい」

オスカーの膝の上に置かれた手に僅かに力が篭る。
予想通りヘルメスの口から発せられたセシアスの名が、オスカーの眉間に影を落とした。
あの時自分の邸内で何を探索しようとし、何を見つけたのか?あるいは、見つけられなかったのか?
それとも……

「あの少年を…あなたは一体どこで拾ってきたのですか?」

「…は?」

やや意表をついた問いに、一瞬オスカーは言葉に詰まった。

「あの少年…戦災孤児としてこの帝都の施設に保護され…後に図書資料館の司書になったそうですが……あの子を帝都へ連れて来たのは、あなただそうですね?」

「……ええ、そうです…」

「…遠征凱旋の途中で…と耳にしましたが、それは正しいですか?」

「…はい。その通りです」

「その遠征はいつの……いえ、どこを攻め落とした時のです?その時、巻き添えになって滅びた近隣の町や村はありましたか?」

オスカーには彼の質問の意図がよくわからなかった。
魔術師は少年に関する一体何を知りたがっている?
あの夜、なぜセシアスが自分の邸にいたのか、その理由ではないのか?

「…あの時は……」

オスカーは戸惑いながらも、自分がボロ布のようになった砂と垢まみれの少年を拾い上げた時の事を思い浮かべた。
痩せ細ってガリガリのひ弱そうな子供のくせに、眼だけはやたらと理知的で生き抜こうとする貪欲な意思を秘めた強い光を宿していた。
挑むように彼を睨みつけたあの時のセシアスは、彼らの全てを打ち砕いて通り過ぎて行った帝国と帝国軍を激しく憎悪していた。
月も星も見えない暗黒の夜空のような紺碧の瞳には、見えない炎が揺らめいていた。

「…確か、ガリア小国を落とした際に…途中通り抜けたルバ渓谷にあった小さな町をひとつ犠牲にしたのですが…その後ガリア小国を陥落させて戻る道すがらでしたね。町は焼き払われて消失してしまったので、住人は皆逃れて流浪の身となっていましたが、元々住人はそう多くはなかったので、散り散りになって彷徨ううちに怪我や飢えで死んだものがほとんどだろうと思いますよ。あの子が助かったのはたまたま…でしょう。凱旋帰路の途中で戦場を改めていた私の馬が踏みつけそうになった瓦礫の残骸の陰に、隠れていたのです」

その時の光景を脳裏によみがえらせながらオスカーが話すのを、ヘルメスは顎に手を当てて少しばかり考え込むような表情でじっと聞いていた。
視線はどこか遠くの幻を追っているかのように宙を彷徨っている。
オスカーにはなぜ魔術師がそのような話に興味を惹かれるのか皆目わからない。
訝しげに眉を寄せながら彼はヘルメスの様子を見守った。

「…ガリア小国……。ルバ渓谷ですか……」

すんなりと伸びた綺麗な指先をこめかみにあてて、ヘルメスは呟いた。

「その焼き払った町の名前は……わかりますか?」

「……いえ、そこまでは…」

「そうですか…。わかりました。それで、あの少年は帝国に連れてこられてからすぐ、戦災孤児の施設に入ったのですね?」

「そうです。私が身元引受人になりました」

それを聞くと、ヘルメスはひょいと片眉を上げて視線をオスカーへと向けた。

「…あなたはなぜ彼の身元引受人になったのです?それはつまり、彼がこの帝国で成人と認められる年齢に達するまで、あなたが親変わりの責任を果たす、という事ですよ?」

「……他に…誰もいなかったからですよ。それだけの事です」

なぜ?と、その理由を訊ねられても、オスカーにはそうとしか答えられない。
他に誰もいなかったから。
身寄りも、誰1人少年を知る者もない世界で、少年にそのような役柄を引き受けてくれる相手など居ようはずがない。
だから、彼しかいなかったのだ。
少年を拾い上げた、オスカーしか。

ヘルメスは、何の裏表もないただ本心を述べたにすぎないオスカーの返答に、つかの間沈黙していた。
魔術師が彼の言葉から何を感じ、何を考えているのかは想像すらつかなかったが、ヘルメスに呼び寄せられた理由がこのような事を訊ねられるためだったのかと思うと、最初に警戒心を強めていただけに少々拍子抜けのような感がある。
いやいや、それでもまだ油断はできない、とオスカーが緩みかかった緊張と神経をもう一度張り詰めようとした時、ヘルメスは楽し気な笑みを浮かべてゆっくりと立ち上がった。

「どうもありがとう、ウィン殿。ご足労いただいた甲斐がありました」

そう言って、ヘルメス・フラメールは自らドアの方へ歩み寄り、扉を開けて廊下に控えていた従者に声をかけた。

「話は全て終わったと、リュー・シオン夫人に伝えてきてくれるかな?」

[2011年 1月 4日]

inserted by FC2 system