[2011年 2月 25日]
ミリアはいつものように居間の大窓の傍に座り、お茶を飲んでいた。 雨脚はさほど酷くはないものの、空を覆う薄雲は僅かな月明かりも零すことなくゆったりと漂い、細かな霧雨をあまねく地表に振り撒いている。 全身にまとわりつくような水の微粒子は空気中の湿度を増し、屋根のあるポーチにいても肌をほのかに濡らすから、ミリアは大窓を閉め、暖炉に赤々と燃える火をおこして居間を適度に乾いた快適な温度に保っていた。 暖炉の前には水を汲んだボウルと何枚もの洗いたての布がきちんと畳んで積み上げてある。 布は炎の発する熱を受けて乾燥し、暖まっていた。 その横に、やはり丁寧に畳んだ魔術騎士団の隊服がひと揃え置かれている。 半分ほどひいたカーテンの隙間から、ミリアは庭を眺めた。 宵の闇が訪れた庭先は真っ暗で、何一つ動くものの気配はない。 ぼんやりと暗闇に眼を向けながら、彼女は昨日の早朝の出来事を思い出していた。 淡い光の中に飛び散る羽。 羽にまみれたほっそりとした、だがしなやかな腕。 繊細そうな指先。 真っ白い肌と髪の、小柄な少年がこちらへ顔を向ける。 彼の紅玉のような赤い瞳を思い浮かべた途端、自然と頬が熱を帯び、心音がトクトクと駆け足になる。 自らを変化族だと明かす人間に会った事は何度かあるが、彼らは皆ミリアの前にいる時は普通の人間の姿でしかなかったし、これといって人と違う点を示すような特徴は見られなかった。 彼らが一体何に変化するのか、どのようにして姿を変えるのかも知らず、もちろん変化の過程をつぶさに見るなどという経験もしたことがない。 昨日までは。 ジオ・メディシスという名のその人に、父に呼ばれてあらためて顔を合わせたのは、慌しく邸内へ駆け戻り、耳に響く胸の動悸がようやく落ち着きをとりもどした後だった。 さすがは娘の性質をよく知っているだけあって、まるで計っていたのかと思わせる正確な間の取り方に思わずミリアは苦笑したが、淹れたての茶を載せた盆を手に居間へ入って行くと、林の中で羽にまみれてうずくまっていた男は父と同じ魔術騎士団の隊服を身に着けており、その姿を見て再び彼女の胸の鼓動は緩やかに速度を上げた。 名を名乗り、礼儀正しく上官の娘であるミリアに淑女に対する挨拶を済ませると、彼は伏目がちに彼女から視線を外し、やや顔を俯けた。 「ミリア。先ほども言ったが…彼は変化族だ。だが、魔術騎士団の中でも我が17部隊に所属している変化族は表向き3人しかいないことになっている。彼は4 人目で、ごく1部の人間以外には変化族であることは伏せられている。もちろん、17部隊の同班に所属している騎士達もこの事は知らん」 火をおこした暖炉の前に全員が腰を落ち着け、温かいお茶の入ったカップを手にしてから彼女の父、ランディオ・テス・フィンは娘にそう切り出した。 「それは、ジオが特殊な環境下で極秘裏に様々な探索を行う専門家として動くことが多いからだ。隊の中でも変化族だと知られている者には状況によってそれが不可能な場合がある。彼らの能力は探索活動において非常に効力を発揮するが、相手が彼らを変化族だと知っている場合には警戒され、対策をとられることもあるからだ。またお前も知っての通り、変化族は種族として昨今帝都の領土内ではその数を減らしてきている。今後その能力に対する付加価値が上がってきた時、帝国軍が彼らの所属を無理やり騎士団から軍へ移してしまわないとも限らない。しかしもともと我々魔術騎士団は、あくまでもスカラビア公国と学都バルセナタンが発祥であり、それに属するものだ。有能であればあるほど、その特殊能力の存在はあまり多くに知られていない方がいい。わかるな?」 父の言に、ミリアは素直にコクリと頷いた。 スカラビア公国を属領とした帝国の軍隊と、本来は魔術師ギルドに繋がっている魔術騎士団とでは、そもそも主として従う対象にズレがある。 帝国軍の抱く魔術騎士団への印象は概ね良好ではあるものの、彼らは基本的に魔術を駆使する騎士団を胡散臭いと思っているし、騎士団は騎士団で伝統ある公国とその象徴である学都のギルドに属する事に誇りを持ち、数と武力の質量に頼る洗練度に欠けた粗野な帝国軍に対し斜に構える傾向が強い。 両者の間に、様々な思惑や事情が絡み合う複雑で微妙な力関係が存在している事は、ミリアもよく知っていた。 「今回、ジオは非常に重要で、かつ危険な任務を負っている。いつもならもう少し気を抜いていても大丈夫なんだが…今は団のほとんどの幹部や部隊長らがこちらに足止めされていて、この騎士団用の宿舎に滞在している。人目が多い分、十分な配慮が必要だ。彼にはこの邸の中でしか変化を行わないようにしてもらわねばならないし、なおかつ外へ出る際には人の姿をしていてもらっては困る。彼の事を見知っている者も少なからずいるからな。なぜ彼がここにいるのか疑問に思われるかもしれない。そこで、お前にも協力してもらいたい」 「え?私に?」 驚く娘に、ランディオ・テス・フィンは大きく首を縦に振った。 「そうだ、お前にだ。ここ帝都の騎士団幹部の邸や宿舎には、通常我々が不在ゆえ邸の管理を任されている管理人がいる。彼らは時に邸の管理業務のためにあちこちを歩き回っているし、基本誰の邸、宿舎であろうとも入ることができる。鍵を持っているからな。もちろん、邸や宿舎の部屋に人が滞在していれば勝手に出入りするようなことはないが、不測の事態が起きないとも限らない。だから、お前には彼が他の者の目に触れることがないよう常に気を配り、彼に不自由がないよう世話をしてやってほしいのだ」 「お世話…って…?」 ミリアは両眼を瞬き、戸惑いがちに訊ねた。 「宿舎の敷地内でジオの存在を気取られないように、彼が外出する際にはお前が変化した姿の彼を外へ出してやり、戻って来た時には邸内へ入れてやってくれ。私もここにいる時はそうするよう努めるが、あれこれと打合せやら会合やらに呼ばれているからな。バルセナタンへ戻れるようになるまでは何かと慌しさが続くだろう。お前が協力してくれれば、私も助かる」 父にそうまで言われては、協力しないわけにはいかないだろう。 ミリアは微笑んで「わかりました」と頷いたのだった。 バサバサ、と羽音が聞こえた。 同時に、ミリアの耳にだけ聞こえる鈴の音がチリチリと小さく響く。 一度探索に出たらいつ戻るかわからないジオの帰着にちゃんと気付くことができるよう、父が娘に施したその魔術のおかげで、ミリアは庭に白い梟が戻ってきた事を知った。 長椅子から立ち上がり、頭から雫よけのショールを被ったミリアは急いで大窓を開け、ポーチへ出た。 雨は煙るように空気に溶け込み、ポーチに立っただけでもじわりと肌を湿らせる。 空気の冷たさにふるりと肩を震わせて、暗闇に眼をこらす。 邸から少し離れた林の枝に、ぼんやりと白い影が見えた。 ミリアはポーチから濡れた庭の草の上に足を下ろし、林の方へ近づいた。 降り続く霧雨に濡れた葉は、既に雨水よけの役割は果たせず、葉先にたまった水滴の雫をパタパタと枝にとまった鳥の上に落としている。 水気を含んだ翼の片方が、少し乱れているのに気付き、ミリアは枝の下へと駆け寄った。 黙ってそちらへ手を伸ばす。 白い梟は心得たようにバサリと羽を広げて彼女の腕に舞い降りた。 しっとりとした滑らかな肌に傷をつけることのないよう、細心の注意を払って猛禽の鳥は静かに足を下ろす。 やはり、左の翼が毛羽立ち何本もの羽が折れかかってあちこちへ向いていた。 「怪我を…?」 眉を潜めてミリアが呟くと、腕にとまった梟は気にするなと言わんばかりにくるりと首をめぐらせた。 林の向こうから、笑い声が聞こえて来た。 数人の騎士が談笑しながらこちらの方へ歩いてくる。 この庭は宿舎施設全てに共通のものなので、ランディオ・テス・フィンに割り当てられている邸よりも更に奥に位置する建物に滞在している騎士達が時折庭先を通り抜けて行くことがある。 父がミリアにジオの世話をしろと言ったのは、運悪くそういった折に身動きの取れないジオに彼らが遭遇してしまったりしないよう気を配れということなのだ。 話し声はあっという間に近づいて来た。 急いで走り出すかどうするか、ミリアは一瞬迷ったが、諦めて歩速を緩めた。 逃げるようにポーチに駆け込む姿を見られて怪しまれるよりは、相手が誰だかは定かでないものの、訝しまれないよう振舞っておいた方がいい。 現在この宿舎区域に滞在している魔術騎士団の人間で、彼女がランディオ・テス・フィンの娘であることを知らない者はほとんどいないであろうから、きちんと顔を見せて普段通りに振る舞い、部屋へ入れば怪訝に思われることもないだろう。 腕に止まった梟は大人しく彼女の行動を見守っている。 予想通り、彼女が林を抜けるか抜けないかのうちに、近づいていた人声は彼女のすぐ背後に現れた。 「おや、こんな時間に散歩ですか?」 声をかけられて振り返る。 3人の魔術騎士が、少しばかり酒でも入っているのか、ほんのり顔を赤く染めて上機嫌だ。 彼らのうち、2人は見知った顔であったが、比較的年若そうな1人は記憶にない。 隊服からすると、彼らは第8部隊と第13部隊の騎士のようだった。 ミリアは微笑んで礼儀正しく「こんばんは」と挨拶すると、「少しくらい外に出ないと、息が詰まってしまいますから」と答えた。 緘口令がしかれてからというもの、騎士団員の家族に許されているのは宿舎周りの外出のみなので、いくら時間も天候もそれに適しているとは言えなくとも、この答えはあながち嘘ではない。 騎士達も、さもそうだろうと言わんばかりに「でしょうなぁ」と頷いた。 「お嬢さんだけでなく、どこの隊長のご子息・ご息女も、閉じ込められたままの毎日にうんざりしていますからな。いやはや、我が妻など顔を合わせれば早くバルセナタンに戻りたいとそればかり…」 「私の娘もです」 言いながら、2人の騎士は互いに笑い合う。 「本当に。私も早く帰りたいと思っていますわ。父にはとてもそんな事は言えませんけれど…。それでは、お休みなさいませ」 ミリアは愛想良く微笑んでそう言うと、丁寧に頭を下げて邸のポーチへ足を向けた。 「…その梟は、あなたのですか?」 ふと、年若い騎士が声をかけた。 ミリアの心臓はドキリと跳ねたが、彼女はそれをまったく顔には出さず、声をかけた騎士の方を振り向いた。 相手は特に何かを意図してそれを訊ねたわけでないらしかった。 ミリアは彼の顔を記憶に留める為、少しの間騎士をじっと見つめ、それから「はい、そうです。私、動物が好きなので」と笑顔で答えた。 騎士達はそのままにこやかに談笑しながら去って行き、ミリアはほっと息をつく間ももどかしくポーチを上がって室内へ入った。 彼女が室内へ入るとすぐに、梟は彼女の腕を離れ、暖炉の前までひと飛びして床に舞い降りた。 大窓をきっちり閉めるとカーテンを引き、窓際の椅子に腰掛けてジオが完全に変化を終えるまで待つ。 暖炉前に準備されているものを、ジオが使っている気配がする。 背を向けているので様子は物音でしかわからないが、布を水に浸して絞る音がした後、小さくうめき声が聞こえてミリアはハッとした。 彼女が慌てて暖炉の方を振り向くと、そこには隊服を左上半身だけはだけて腕に布を当てているジオの姿があった。 やはり怪我をしていたのだ。 それも、浅い傷ではなさそうに見える。 水に湿った布に、かすかに血が滲み出していた。 「大変!!手当てをしないと…!」 慌てて駆け寄ろうとするミリアを、ジオは制した。 「…大したことはありません」 そう言うと、ジオは傷口を抑えていた手を布ごと外した。 布の下に隠されていた傷は見た目にも大きな裂傷で、深くはなさそうだが裂け目が長い。 布が外れると、傷口からはまたじわりと新たな血が滲み出した。 「ひどい傷じゃないですか!!」 ミリアが叫ぶと、ジオはふっと小さく笑い、「すぐに塞ぎますから」と答えて布を水の中に落とした。 右手を傷口の上へかざし、口中で短く何かの呪文を唱える。 たちまちジオの掌が淡い黄金色に輝きだす。 光が傷口を照らし、滲んでいた血がすっと引いていくのがわかる。 だが、いったん引いていくかに見えた血は、ふたたびじわりと傷口を染めはじめた。 ジオが眉を顰めチッと舌うちした時、扉が開いてランディオ・テス・フィンが入ってきた。 「戻ったぞ、ミリア。…ジオも帰っていたか。……傷を受けたのか?」 ジオが自らの腕に癒術を施しているのを見て、ランディオの表情が僅かに曇る。 「お帰りなさい、父様。急いで手当てをと思ったんだけれど…」 気遣わしげにジオの傷と自らの顔を見比べる娘にランディオは頷いて見せ、ジオの方へと歩み寄った。 「…術が効いていないようだな……」 ジオは尚も傷口に光を当て続けていたが、忌々しげに唇を歪めて頷いた。 「……私が使えるような、簡単な術では効かないようです……」 「……見せてみろ」 ランディオはジオの傷口を検分すると、2本の指をその上に翳し、歌うように長い呪文を唱えた。 指先から細い糸のような黄金色の光が零れ落ち、傷口を縫いつけるように覆っていく。 上官の操る癒術の呪文は、どうやら効果を発揮しているようだ。 ジオのもともと無表情な面に、それでもほっと安堵したような色がうかがえる。 「この傷はどこで?」 ランディオが静かに訊ねた。 「宮廷専属魔術師殿の邸付近で……」 「……ヘルメス・フラメール殿か…」 「本日、早速動きがありましたので追尾していました…」 「動き?」 「はい。魔術師殿は本日の午後…傭兵部隊のオスカー・ウィン隊長を、魔術騎士団長の名を使って呼び出されておりました」 「……何?」 ランディオの眉がピクリと上がった。 「団長の名を使ってだと?」 「はい。騎士団宿舎内を探索しておりましたところ、騎士団長殿の邸宅を魔術師殿が訪問されまして…。その後、…傭兵部隊の宿舎へ向かう騎士がおりましたので…後を追ってみたのですが…。騎士がウィン隊長と連れだって騎士団長の邸宅へ入りました。おそらく…魔術師殿はウィン隊長と何らかの理由で接触を持ちたかったのではと思われます。残念ながら邸宅にはかなり厳重に防御魔術が施されておりましたので…それ以上探ることは不可能でしたが……」 「……だろうな。それは気にするな。それで?」 「しばらくして、オスカー隊長がお帰りになられ、更にしばらく後、魔術師殿が騎士団長の邸を出られたので追尾しました。魔術師殿の邸に近づいたところで…どうやら邸周辺には特殊な結界域が作られているらしく、それに触れてしまったようです」 「……気づかれはしなかったか?」 「おそらく…。単に通りかかった鳥が引っかかってしまうことは珍しくないようで、私が弾き飛ばされてもさほど気に留めていた様子はありませんでした」 「そうか…。だが、あの男は侮れんからな……以後は十分注意して動くようにしろ」 「はい」 ジオが返答すると同時に、ランディオは傷口に翳していた手を離し、「これで大丈夫だろう」と溜息を吐いた。 見れば傷跡はすっかり塞がり、裂傷は薄い筋となって名残を残しているだけになっている。 ミリアはほうっと安堵の息を漏らし、「よかった…」と呟いた。 「ありがとうございました」 ジオは低頭して礼を述べ、ランディオは娘のあからさまにほっとした表情に苦笑した。 「お前も、それほど怪我をした者の傷を見慣れていないわけではなかろうに」 「そ…それはそうですけど……」 ミリアはもごもごと口ごもりながら俯いた。 「……それにしても…今日は団長は先ほどまで我々と共に会談に出席されていた…。にもかかわらず、団長の名前でオスカー・ウィン隊長を呼び出すというのは……」 苦々しい表情でランディオは暖炉の前の長椅子にドカリと腰掛けた。 促されてジオも向かいの椅子に座る。 「……もしかしたら、それは奥様が……協力してさしあげたんじゃないかしら?」 躊躇いがちに、ミリアが口を挟んだ。 ランディオは娘の方へ顔を向け、「なぜそう思う?」と訊ねた。 ミリアはあのヘルメス邸での夜を思い出していた。 ジリアンに近づいて行くヘルメスを、光に吸い寄せられる蛾のように追って行くアルマ・リュー・シオンの姿を、彼女は少し離れたところから見ていた。 「……あの方は、フラメール様に心酔してらっしゃるから。フラメール様に頼まれたら、何でも言うことを聞いてしまうんじゃないかと思うの……」 眉根を寄せながら言う娘をじっと見つめ、ランディオ・テス・フィンは顎を撫でた。 ジオもまた、顔を傾けて上官の娘を見ている。 「………なるほどな」 そう言って一旦口を噤むとランディオ・テス・フィンは少しの間暖炉の炎を見つめ、次いでジオの方へと視線を戻した。 「明日から、お前は主に団長の奥方の動きに注意を払ってくれ。次にオスカー隊長との接触をフラメール師が図るようならば、少しこちらも動いてみよう」 上官の指示に、ジオは「わかりました」と否応もなく頷いた。 *** *** 小さな頃から、自分はいずれ消えてしまうのだろうと思っていた。 特に“死”というものを意識してのことではなく、ただ漠然と彼女は自分にはそれほど多くの時間は与えられていないのではないかと感じていた。 理由は自分でもわからない。 ただ何から何までそっくりな瓜ふたつの姉といるうちに、自然と自分達は本当はひとつであったはずのものが、何かの間違いでふたつに分かれてしまったのではないかと感じるようになった。 だからいつかその時がきたら、不必要になった一方は消えなければならないのではないかと思っていたのだ。 その漠然とした薄雲のような不安がはっきりと自覚できる滲みになったのは、母を亡くし、傷心の父を励ますように姉妹で店の手伝いをはじめてからだった。 その頃には姉妹には思春期を経てそれぞれの個性が築きあげられつつあり、幼い時のように全てがどちらと判別つきがたいほど同じというわけではなくなっていた。 姉が書物を読んだり勉強したりする事を好み、学都の多くの学問棟へ通って良い成績をおさめていたのに対し、彼女は難しい本や学問に熱中するよりは裏庭の植物の世話をしたり、誰かとおしゃべりをしたり、人と触れ合えるような仕事をしている方が好きだった。 そしてごく当たり前のように2人の道は別れ、姉は勉学に彼女は家業の手伝いに日々を費やすようになった。 ある時、学問棟に通う姉の忘れ物を届けに、彼女は古代文字研究の学問棟を訪れた事があった。 その際、彼女が首から下げていた護符に、たまたますれ違いざまに目を惹かれたまだ若い学者がいた。 子供のころから、理由もわからず肌身離さず着けているよう言われていたそれは、彼女達が生まれた時、店の常連客であったとある偉大な魔術師から授けられたのだと聞かされていた。 学者はその護符に刻まれている古代文字の文言を読み解き、彼女にその意味を教えた。 「汝守護の真たるを知るものなり」 自分が厳かに読み上げた言葉に首を傾げた彼女に、その年若い学者は笑い、「つまり、これを身に着けていればどんな災厄からも身を守ってくれるってことさ。しかもこの護符には魔術師の封印がある…これはとても強い力を持った封印だ。きっと、この護符は死ですらも遠ざけてくれるだろうよ」と言った。 その時、彼女はああ、と妙に納得したのだ。 やはり、そうなのだ、と。 きっと彼女は母のように、父と姉を残して先に逝ってしまう運命なのに違いない、と。 以来、彼女はあとどのくらい残されているのかわからない時間を精一杯生きようと決めた。 もしも彼女の危惧が全く無用のもので、この先穏やかな人並みに長い人生が待っていたのだとしても、その前向きな生き方は無駄にはならないだろう。 彼女はそう思った。 けれどそんな風に見ないフリをしていても、彼女の中で消えないままの薄雲のような滲みは、時折ひょいと彼女の前に顔を出してはその存在を主張した。 店の客や家族、レーダやラン、当時まだ他に数人いた給仕の少年達と笑い合い、飛び回って働いている時には忘れていても、1人になると頭の片隅でもやもやとした説明のつかない不安が小さく渦を巻く事があった。 そんな時、彼女は家の裏庭や向かいの店の屋根など、いつの頃からか気付けば彼女の眼に見える所に現れるようになった白い梟に、独り言を呟くように話しかけては重くなった心のつかえを吐き出した。 姉が帝都に職を得、家を離れてから、それは一時的に頻度を増したが、姉と入れ替わるように店を訪れはじめたコウに密やかな想いを抱くようになってからはそれも次第に落ち着き、彼と結ばれた後はただ幸せな夢が不安な滲みを消し去ってくれるような気すらしていた。 だがおそらくは無意識下のどこかで、彼女は自身の運命を知っていたのだ。 自分が共に生れ落ちた片割れよりも、ずっと早くにこの世を去らねばならないという事を。 黒い甲冑がぼうっと青白く光った。 「早く!行きなさい、リリス!!」 ロザリンが叫ぶ。 リリスは首を横に振り、「イヤ!!」と叫び返した。 戸口から数歩であっという間に2人の眼前に迫った騎士は、恐怖心を煽るかのごとく殊更ゆっくりと手にした剣を上げ、彼女らの鼻先すれすれにひと振り空を薙いだ。 2人は身を屈めてそれを避け、リリスは更に後ろへと後ずさった。 リリスの踵が床の穴を踏み、悲鳴と共に転倒しそうになった身体を支えて彼女は石床の上に伏せるように両手をついた。 「リリス!!」 黒騎士が、薙いだ剣を流れるような動きで振りかざす。 狙いはリリスに定まっていた。 とっさに伸ばされたロザリンの手は、間に合わない。 既に店内で何人もの人間を屠ってきた剣は赤黒く血塗れており、未だ満ち足りないとでも言うように鈍く光を反射している。 リリスは両手で頭を覆い、ぎゅっと眼を閉じた。 が、不思議な事に、今にも落とされると思っていた剣の切っ先は彼女の頭上でピタリと止まった。 ロザリンの見開かれた両の眼に、ぶるぶると震える剣先が映る。 剣は青白い光に包まれていたが、同時に淡い紫色の光が稲妻のように閃光を煌かせて剣の面を走っていた。 光の筋が走る度、剣先が何かにひっぱられているかのように大きく上下左右に揺れている。 ロザリンはすかさず手近にあった木桶を掴み、黒騎士へと投げつけた。 桶は見事に騎士の腕に当たり、跳ね返って床に転がる。 騎士がリリスへ向けていた身体をロザリンの方へと反転させた。 彼女は騎士から眼を離さず、じりじりと一歩ずつ魔物を少女から遠ざけようと足を運んだ。 騎士はロザリンの動きを追いながら、それでもリリスに手が届く位置を離れない。 「リリス!!早く!!」 ロザリンの叱責は、半ば哀願に近かった。 ほんの僅かな隙をも、今は見逃すべきではない。 でなければ、彼女らは共に死ぬことになるだろう。 騎士はゆらりと忌々しげに、ロザリンの方へ足を踏み出した。 いかにも“煩いやつだ”と言わんばかりに、騎士は2色の光が火花を散らす剣の切先を彼女の鼻先へ向けた。 ロザリンはゴクリと細い喉を上下させ、だが気丈に首のない騎士を睨みつける。 振り下ろされる剣を、彼女はできる限り時間をかけて回避しなければならない。 騎士の手が迷い無く上へと上がる。 「やめて!!」 叫ぶなり、リリスは素早く身体を起こし、今にもロザリンに刃を落とそうとしている騎士の背に全身の力をこめてぶつかった。 彼女の小さな身体が当たったくらいでは、騎士には毛ほどの衝撃も与えることはできないかもしれない。 けれど、考えるよりも先に、リリスの身体は動いていた。 「危ない!!」 ロザリンの悲鳴があがる。 リリスの動きは全て気配で騎士に察せられていたのだろう。 魔物は素早く身を翻すと、頭上に翳していた剣を少女の首もとめがけて振り下ろした。 ロザリンが必死に手を伸ばしている姿が見える。 その手が空をつかみ、騎士の黒い腕と身体が彼女の姿を視界から覆い隠したと思った瞬間、甲高い金属音と激しい衝撃を伴って、リリスの身体は後方へと弾き飛ばされた。 同時に黒騎士と、騎士に触れる寸前だったロザリンもそれぞれ吹き飛ばされた。 ロザリンは洗濯済みのシーツが綺麗に畳んで積み上げられた棚に嫌というほど背中を打ちつけ、ずるずると床ににくずおれた。 中でも最も大きくその衝撃を受けた漆黒の魔物は、部屋の天井近くの壁に身体をめりこませ、崩れた壁土と一緒に音をたてて石床へ落下した。 首のない騎士も含め、彼らの誰もが一体何が起こったのか全くわかっていなかった。 痛む背中に浅く息を吐きながら、ロザリンが涙の滲んだ眼を細く開くと、床に転がった黒騎士の身体が苦しげにのたうっているのが見えた。 騎士の身体は青白い光と紫色の閃光に包まれており、握ったままの剣の面にはさきほどよりも更に激しく煌く稲妻が走っている。 何がどうなっているのか、よくはわからないがとにかく今しか好機はない。 ロザリンは痛みをこらえて立ち上がり、床に倒れこんでいたリリスに駆け寄って抱き起こした。 少女はやはり石床に全身を打ちつけられていたが、怪我はしていないようだ。 「リリス、大丈夫!?」 小さく呻きながらも少女は頷いて立ち上がった。 ガチャ、と重い鋼の音を響かせて、床を這っていた騎士ものろのろと身体を起こしかけている。 魔物からは眼には見えない憤怒の気配が立ち昇り、ピリピリと空気を伝わってロザリンの肌を粟立たせた。 時間が無い。 ロザリンはリリスの手を引き、床に開いた穴の方へと押しやった。 「早く!行きなさい」 「イヤよ!!ロズも一緒でなけりゃ、イヤ!!」 リリスは頑なに、ロザリンの指示を受け入れようとしない。 「……わかったわ。一緒に行く。だから、お願い急いで!!」 「…絶対よ!!」 リリスはぎゅっとロザリンの腕に縋り付き、懸命に彼女の眼を覗き込む。 ロザリンは少女を安心させるように微笑んだ。 その笑みに、リリスはほっと安堵する。 だがそれも束の間だった。 ロザリンは彼女の額に唇を押し当てて「幸運を」と囁くと、次の瞬間自分の腕に絡みついたリリスの手を無理やりもぎ離し、足元の穴へと少女の身体を突き放した。 突然、身体を支えるもの全てを無くし、リリスの細い身体は一瞬で石床の穴に吸い込まれるように落下した。 何ひとつ心の準備などできてはおらず、ただ下へ下へと落ちていく感覚の恐ろしさと、願いも空しくロザリンが彼女を騙し、自分だけを逃がしたのだと知った悲しみと怒りに、リリスは言葉にならない絶叫をあげた。 やがてその声が大きな水音にのまれて掻き消される頃には、ロザリンは急いで床の穴に元通り蓋をしてしまっていた。 石板をひきあげるための輪を下へ向けてしまったから、黒騎士がリリスの後を追おうとしても、すぐにはそこを開けることはできないだろう。 地下水道の流れはそれほど速くはないが、それでもリリスは十分魔物の手から遠くへ離れられる。 「……ごめんね…」 ぽつりとロザリンがそう呟いた時、彼女の目の前には青白く燃える光に包まれた黒騎士の姿があった。 先ほどまで魔物の全身を苛んでいるかに見えた不思議な閃光はなりを顰め、獲物を逃したことへの熾烈な怒りが、ぞっとするほど残忍な憎悪の念となってロザリンへ向けられているのがわかる。 その刃を逃れることは、もう不可能だろう。 後悔はない。 ロザリンは穴を塞いだ石板の上に屈みこみ、黒騎士を見上げていた。 騎士の左手が、滑稽に思えるほどゆっくりと彼女に向かって伸ばされる。 ロザリンの両手は無意識のうちに下腹部へ下り、掌が下腹の上で重なった。 “ごめん……” 自らの方へ伸びてくる禍々しく大きな闇色の掌をじっと見つめ、ロザリンは心の中で言葉を紡いだ。 “……ごめんね。でも、ずっと一緒にいるから…” がしりと、彼女の額を魔の手が掴んだ。 鋭い痛みが突き刺さり、ロザリンは唇を噛んで固く両眼を閉じた。 魔物の容赦ない手はそのまま彼女の頭を首の骨が折れるかと思うほど後ろへ反らせ、滑らかな肌の細い喉をあらわにさせる。 重ねられた掌に、ぐっと力が入った。 眼を閉じていても、その気配は張り詰めた神経の下で全て手に取るように瞼に浮かぶ。 魔騎士は剣を振り翳している。 彼女の脳裏に、コウの優しい笑顔がよみがえる。 “許してね…” 次に訪れるその瞬間が、想像していたよりも辛くないものである事を、ロザリンは祈った。 *** *** 霧雨に湿気た重苦しい静寂の中に、突然悲鳴が響き渡った。 いや、悲鳴というより絶叫と言うべきか。 上司のベッドでうとうとと眠っていたセシアスは跳ね起き、とうに閉館時間をすぎた資料館の裏口から常駐の扉番に館内へ入れてもらい、ジリアンの居室へ向かいかけていたオスカーは、数段飛ばしに階段を駆け上がった。 「ジリアン様!?」 寝室を飛び出して、すぐさま居間としても使われている執務室へ向かう。 暖炉の側に置かれた長椅子の上で、転寝をしていたのだろうジリアンが蒼白な顔で両眼を見開き、両掌で口と喉元を覆っていた。 前屈みに傾いた身体が、見た目にもわかるほどガクガクと震えており、掌に覆われている唇からは、途切れ途切れに小さな嗚咽が零れ出ている。 セシアスは彼女に駆け寄り、血の気の失せた顔を覗き込むように床に跪いた。 「ジリアン様!!」 はっきりと大きな声で名前を呼び眼を合せようとするが、ジリアンの眼はセシアスを素通りしたどこか遠くを見ているようだ。 身体の震えは止まらず、苦しげな呼吸の下で漏れ出る泣き声も止まない。 何度か彼女の肩に手をかけようと腕を上げかけたが、少年には彼女に触れることはためらわれた。 背後で、ドンドンと荒々しく扉を叩く音がした。 「セシアス!!どうした!?」 セシアスは一瞬湧き上がってくるホッとしたような、それでいて苛立つような複雑な感情に眉を顰めつつ、立ち上がって扉の鍵を外しに向かう。 戸を開けると、緊迫した面持ちのオスカーがずかずかと戸口をくぐって中へ入って来た。 「何があったんだ!?」 「わからない。でも、ジリアン様が……」 セシアスの視線を追って、オスカーがそちらへ顔を向ける。 暖炉端の長椅子では、先ほどからまったく変わらぬ様子のジリアンが震え続けていた。 「一体、どうしたっていうんだ?」 オスカーは唖然とした面持ちでジリアンの前に膝を付き、セシアスと同じように彼女の顔を覗き込んだ。 「アナ殿。どうしたんです?アナ殿!!」 返答も反応もないと知ると、彼はジリアンの両肩に手を置き、軽く揺さぶった。 「しっかりなさい!!アナ殿!!」 「……あ…」 徐々に、どこか遠くへ向けられていたジリアンの眼の焦点が戻ってくる。 辛抱強く彼女の眼を覗きこみ、それを確認したオスカーは密かに胸を撫で下ろした。 「………大丈夫ですか?」 ジリアンの開かれたままだった眼が数度瞬いた。 セシアスが大きく安堵の息を吐く。 「……は…い…」 掠れた声でジリアンは小さく答え、のろのろと口と喉を覆っていた手を下ろした。 喉には、薄っすらと朱色の筋が浮き出ている。 身体の震えはまだ続いていた。 ふと見ると、彼女の胸元に下がっている護符が、ぼんやりと銀色に光っている。 オスカーは片手を彼女の肩から離し、淡い光を放つそれを手に取った。 ジリアンも、そして傍らに立ち尽くすセシアスも、全員が陽炎のような光をまとった護符に眼を向ける。 これまでに、護符が光を放つことなど1度もなかった。 「……妹が……」 ぽつり、とジリアンが言葉を零した。 ゆっくりと瞬きを繰り返す彼女の琥珀色の濡れた瞳が、オスカーのそれをまっすぐに捕らえる。 そこにある悲痛な色に、思わず彼は言葉を失くした。 「……妹が…死にました…」 ジリアンは両目を閉じて天を仰いだ。 零れそうになる涙をそうして耐えているのだろうか? オスカーは黙って彼女の頭を静かに引き寄せ、自らの肩の上にそっと寄りかからせた。 「…泣きなさい。……ちゃんと、泣いた方がいい」 いつになく優しい傭兵の声音が滲みていく。 暖かな人肌のぬくもりを感じさせる広く逞しい肩に頭を預け、ジリアンは静かに涙を流した。 *** *** 突然、胸に焼けるような熱を感じ、コウは呻き声をあげた。 胸元で、ロザリンの護符が淡く銀色に光っている。 もう彼女がいるはずの居酒屋は目と鼻の先だ。 中央広場から続く道中には人の姿は全くなく、通りには幾筋もの血痕が糸のように紋様を描いていた。 普段ならば、食堂や居酒屋、通りに並んだ食べ物の屋台に集まる人でまだまだ賑わっているはずの時刻であるのに、屋台は煮炊きの煙を立ち昇らせたまま放置され、通り沿いの店の戸は慌しくも固く閉ざされて物音1つしない。 闇の狩人が通る際、気づく暇もなかったり、気づいても逃げ遅れたりした人々は、魔騎士の気まぐれな凶行に命を落としていた。 路上には幾体もの首のない遺骸が転がり、辺りに血の匂いを振りまいている。 旅の間何度となく目にしてきた光景を思い出し、コウの血は悪い予感に猛烈な勢いで全身を駆け巡っていた。 護符の光を目にすると、それはより一層激しくコウを駆り立てた。 同時に、思考のどこかで絶望的な嘆きの想いが吐息のように吐き出され、彼の思念に溶け込んだ。 「先生……!!!!」 思わずコウが叫ぶ。 否定して欲しかった。 イライジャが、コウにはわからない、そして知りたくない何かを知ったのかもしれないという疑念を。 恩師はその望みに応えてはくれなかった。 いや、応えたくとも叶わなかったのだろう。 コウもまた、その応えを聞く暇を与えられてはいなかった。 すぐ目前に迫ったアナ家の店の前に、忘れもしないあの巨大な黒い馬の姿を見つけたからだ。 コウは片手で手綱を操りながら身に帯びた剣を抜き、長い唄のような呪文を朗々と唱えた。 にわかにコウの利き腕を細かな光の粒子が包みこみ、それが渦を巻くようにして剣先へと上っていく。 一方の魔馬は、既に向かってくるコウの姿を視認し、口唇をめくり上げて歯を打ち鳴らしていた。 悠然と太い首を振り上げ、前足で路地の石畳を掻く。 ガツ、と固い蹄が路石を削った。 魔馬が身体の向きを変え、こちらへ駆け出す。 その背に取り付けられた黒い鞍の後ろに、馬の両脇腹を挟み込むようにしていくつもの丸いものが連なって垂れ下がっているのが見えた。 それが何なのかを瞬時に悟ったコウは怒りに燃える目でひたと魔馬を見据え、手綱を放して鐙をぐっと踏みしめると腰を浮かせて立ち上がった。 瞬く間に彼らの間は縮まる。 2頭の馬が正面からぶつかり合うかと思われた寸前、コウの愛馬はそれを避け、魔馬の右脇をすり抜けた。 コウの馬よりはるかに巨体を誇る魔馬は、それほど俊敏な動きに長けているわけではない。 魔馬よりも数倍は身軽なコウの愛馬は、主の意図した通りに動き、コウは馬が並んだ一瞬のうちに身を躍らせて魔馬の背に飛び移った。 黒い馬のタテガミを鷲掴み、広い背の上の鞍を両膝で挟む。 背の上に乗られた魔馬は怒りの咆哮を上げ、太い首をぶるぶると振った。 タテガミを握る手を放すまいとしながら、コウは光を纏った剣を馬の首筋へ振り下ろした。 刃が肉を切り、太い魔馬の首に傷をつける。 だが、剣が僅かに皮膚を裂いたところで魔馬は前足を上げて立ち上がり、邪魔者を振り落とそうと狂ったように首を振って飛び跳ねた。 地響きをたてて路上に蹄が打ち下ろされる度、コウの全身に衝撃が走る。 何度目かの衝撃で、とうとうコウは魔馬の背から投げ落とされた。 路上に投げ出されたコウの身体めがけて、巨大な蹄が襲いかかる。 彼は横転を繰り返してそれを避け、隙をみて素早く跳ね起きると、魔馬の背後に回りこんだ。 鞍の後ろにずらりと連なって垂れ下がっているのは、全て切り落とされた人々の首だった。 ほのかに薄青い光を帯びて、連なった首はそれぞれに苦悶の表情を浮かべている。 「……魔物め…!!」 コウが舌打ちと共に吐き捨てるように呟いた時、頭の片隅で恩師の声がした。 “後ろじゃ!” ハッとして、彼は身を翻した。 その瞬間、コウが立っていた場所に、投げつけられたと思しき血に塗れた剣が突き立った。 魔馬が一声嘶き、蹄を鳴らして向きを変える。 首を廻らせて先ほどまで背を向けていた右手を見ると、アナ家の居酒屋の入口にあの首の無い騎士が立っていた。 だらりと下げた片手に自らの剣を持ち、共にいくつもの首をぶら下げている。 騎士は無造作にそれらをコウの左手にいた魔馬に向かって放り投げた。 それは思わず見惚れるほどに見事な放物線を描いて魔馬の鞍の上に落ち、ずるずると何かに手繰り寄せられてでもいるかのように、連なる首達の列に加わった。 “……首と共に魂も狩り取っておるのじゃな……” 恩師の痛ましげな声がそう呟く。 コウは光を纏った剣を構え、騎士の方へ身体を向けた。 その時、たったひとつだけ手元に残していたものを、騎士は見せつけるように掌にのせてこちらへ掲げた。 それはコウの最も見たくなかったもの。 コウがその手で守りたかったもの。 それが視界に入った刹那、コウの心の一部が凍りつき理性は吹き飛んだ。 爆発した感情が、コウの思考を純粋に倒すべき相手への攻撃のみへと向かわせた。 頂点を越えた怒りは不要な感情の一切を彼方へ追いやって無に近くさせ、彼の持つ全ての感覚は鋭敏に研ぎ澄まされた。 騎士はまるでコウの発する殺気が見えてでもいるかのように、己の身体からも激しい憎悪の思念を立ち昇らせた。 彼らは互いに相手を完全にこの世から葬り去ることしか考えていなかった。 コウは無表情な面に殺意のみを浮かべ、両手で握りしめた剣を構えて低い声で囁くように呪文を唱えはじめた。 見る見るうちに、先ほどとは比べようもない強烈な熱を帯びた光が剣を包み込んでいく。 それは自らの魂を削り、力に変える呪文だった。 “ヘイヤート!!” イライジャの危惧する声はコウの耳にも届いていたが、彼はそれを無視した。 魂を削る呪文は、文字通り本人の命をも縮めかねない危険な技だ。 一撃で仕留められれば良いが、何度も使えば戦闘が長引けば長引くほど技を使う本人の消耗は激しくなる。 体力・気力、そして魔力も。 コウは声もなく放たれた矢のように魔騎士へと切りかかった。 最初のひと振りは紙一重のところでかわされた。 流れるように返した刃もすんでのところで空を薙ぐにとどまった。 3度めに魔騎士はコウの剣を真っ向から剣で受け、それを弾いた。 ぶつかり合う剣の発する重苦しい鋼の音が、キンと耳の奥まで付き刺さる。 コウは見えない風に押しやられでもしたかのように、石畳の上で足を滑らせた。 コウがチッと舌を鳴らすと同時に、見た目からは想像もつかないほど素早い動きで魔騎士の振り下ろした剣が眼前に迫る。 彼はやはりそれを燃えるように輝く剣で受け流し、身体をひねって騎士の鋼の甲冑に守られた左手に切りつけた。 だがそれを察している魔騎士はその剣先をかわし、半歩後ろへ下がる。 コウは歯がみした。 騎士の左手がしっかりと抱えているもの。 それだけは、決して渡すわけにはいかない。 コウが再度あの呪文を口にのせようとすると、今度はイライジャの思念がそれを遮るように別の呪文を重ねた。 「!?っ…先生!?」 “それ以上、その術を使ってはいかん。わしの力を使いなさい。間もなく17部隊と8部隊が到着する” イライジャの言葉どおり恩師に付けられた額の紋章からコウの全身に力が注ぎこまれ、路地の彼方から馬が石畳を駆ける蹄の音が響いてきた。 魔騎士も一瞬動きを止め、主の闘いを静観していた魔馬が軽く一声嘶いた。 コウは身内にみなぎる魔力の全てを手にした剣に集中させた。 チリチリと己に見合わぬ負荷をかけられた剣が鳴く。 魔騎士も次の一打で片を付けようとしているのだろう、燃え上がる炎のように光を纏った剣を真っ直ぐにコウへ向けた。 両者が共に地を蹴って、互いの距離を一息に縮めたのはほぼ同時であった。 しかし、身の軽さと騎士を凌駕する怒りで五感の全てを研ぎ澄まされたコウの動きは、ほんの僅か騎士より先んじていた。 魔騎士の繰り出した刃はコウの左胸部を貫こうとしていたが、銀色に光る胸の護符が騎士の剣先を弾いて逸らし、騎士の剣はコウの左頬を切り裂き、耳を掠めて空を突いた。 一方、コウの狙いは以前と同じく騎士の身体を守る鋼の甲冑の腹部の継ぎ目だった。 まともに鋼に打ちかかったところで、強靭なそれを刺し貫くことは不可能だ。 コウは自分の身体に騎士の刃を受けてでも、騎士の懐に飛び込むつもりだった。 思いの通り、魔騎士の腕の内に身をくぐらせたコウの剣は、渾身の力を込めて的確にその場所に深々と突き立った。 剣は柄を残して騎士の腹部に吸い込まれ、背側に切先をのぞかせて貫通した。 魔馬が嘶いて前足を打ち下ろした。 コウが剣から手を離して飛び退り、即座に呪文を唱える。 騎士の腹部に突き立った剣から、瞬時に炎が上がった。 剣を繰り出した格好のまま、騎士の身体が瞬く間に朱色の火に包まれる。 騎士はぎこちない動きで踏み込んでいた片足と剣を引き、まっすぐに身体を起こした。 その姿は、まるで宵の闇を照らす巨大な松明のようだ。 腹部に剣を貫通させ炎に包まれていても、騎士には一向に弱まっている様子はない。 コウの耳に、どこかから愉快気に笑う声が届いた気がした。 それは首のない魔物のものか? 「…一体、どうすれば倒せるんだ……!!」 苛立たしげにコウが小さく叫んだ。 “…あれは本体ではない……仮の器じゃ。だが、あのまま燃えれば、今は消える…” イライジャの言うとおり、コウの呪文で燃え上がった騎士の身体は苦しげにも弱まっているようにも見えはしなかったが、次第に炎に焼かれて甲冑は溶けかけ、黒い煙のようなものが立ち昇りはじめていた。 騎士は剣を握りしめた手を胡乱そうに何度か振り、蹄で石畳を掻いている魔馬に向かって左手に掴んでいた最後のひとつを放り投げた。 コウはハッとして魔馬目指して駆け出した。 けれども、魔馬は嘲笑うかのように歯をむき出して嘶き、他の多くと同じくそれをごく当たり前のように自然に鞍の後ろに受け止めて跳躍した。 コウの頭上を遥かに高く飛び超えて、魔馬は主の元へ降り立つ。 腹部に剣を突きたて炎に包まれた姿で、騎士は軽々と魔馬の背に飛び乗り、手綱を操って馬を走らせた。 コウは自分の愛馬を呼ぼうとしたが、その時路地の向こうから大挙して押し寄せる騎士団の第8部隊の馬群が見えた。 魔馬は怯む事無く悠然と走る速度を速め、騎士団の馬群の目の前で力強く後足を引き絞って大きく高く上空へ跳ねた。 夜の闇空を一瞬、ひときわ輝く朱色の松明がカッと眩く照らす。 思わずコウは腕を上げて光を遮り、眼を細めて上空をふり仰いだ。 しかしその時には魔馬と騎士の姿は、仄かに漂う黒い霧を残像のように残すだけで、既に跡形もなくかき消えていた。 ガラン、と虚ろな音を響かせて、黒く煤けたコウの剣が石畳の路上に落ちて転がった。
[2011年 2月 25日]