Chapter.3-6

見上げた空の様子を見る限り、天候が好転する兆しはうかがえなかった。
天に広がる重苦しい雲はどこまでも果てしなく続いているように見えたし、その雲を乗せて運び去ってくれそうな風も吹いていない。
この雨は一体いつまで続くのだろう?
母亡き後、彼女が母に代わって召集を受けた際の父に付き添って帝都を訪れるようになってから、まだそれほど長い歳月が過ぎたわけではないけれど、それでもこんなに長雨が続いた事はかつてない。
しのつく雨は大気を冷やし、帝都全体が冷気に包み込まれているかのようだ。
ミリアは肩にかけたケープをぎゅっときつく肩に巻きつけて、身を震わせた。
休む前に暖炉の火は朝まで安全なまま消えないよう父が魔術をかけてくれていたから、彼女の使っている寝室は何の問題もなく温かかったのだが、どうにも喉が渇いて仕方なく、夜明け前になってミリアは水を求めて部屋を出た。

帝国の軍隊に所属しながらも本隊をバルセナタンに置く魔術騎士団は、一部を除く幹部と部隊長以外は皆通常バルセナタンに常駐している。
帝都ラツィオとバルセナタンは一般的な徒歩の旅であれば“白の街道”を使って通常3日半、馬で2日程で辿り着ける距離だが、魔術騎士団は特殊な魔術を用いる事でその移動時間を半分ほどにすることができる。
ただし、その魔術は力の強い魔術士の手を借りなければならないためそう頻繁に利用できるものではなく、またその術を管理する魔術士ギルドの許可なくしては基本使用できない。
つまりは公務と認められる事情以外に私的に魔術を行使できない仕組みになっているわけだ。
その物理的な距離事情のためもあり、一度何かで帝都へ召集をかけられれば彼らは数日間、場合によっては半月近くからそれ以上、ラツィオに逗留することになる。
その際自身の家族を伴う者もあれば単身で訪れる者もあり、そこは事情により様々ではあるものの大抵は会合に伴って開かれるサロンへ出席させるため、妻子や兄弟、姉妹を共に連れて来る事が多い。
そのため宮廷内には魔術騎士団の専用宿舎施設があり、その中でも隊長階級には各々にこじんまりした居室が提供されている。
庭園や厩こそ共用だが、広い敷地には何棟もの箱型の建物がずらりと並び、それぞれに炊事場や湯殿、寝室、居間を備えた十分な広さの住居となっているのだ。
第17隊長であるミリアの父、ランディオ・テス・フィンに与えられているのは、二階まである可愛らしい白い建物だった。
一階の居間には天井まで届く大きな窓が庭へ直接出られるポーチに面しており、そこから見える庭の景色がこの家ではミリアの一番のお気に入りだ。
ポーチは同じく大きな窓に面した二階のバルコニーが屋根となって雨や強い日差しをさえぎってくれるので、そこに設えられた小さなテーブルセットでお茶を飲みながらくつろぐのが、彼女の帝都の家で過ごす際の楽しみだった。

ミリアは音をたてないように居間の扉を開けて中へ入り、大窓近くに置かれている長椅子の傍まで行くと、椅子に並んでいる小机の上から水差しを取り上げた。
中には半分ほど水が入っている。
同じく小机に伏せられていたゴブレットを取り、彼女は注いだ水を一気に飲み干した。
ふう、と息をついて長椅子に腰を下ろす。
室内は暖炉の火も消えていて少し肌寒かったが、耐えられないほどではない。
ミリアはまだ薄暗い窓の外へ眼を向けて、両足を長椅子の上に投げ出した。
あの出来事の後、父に守られてヘルメス邸を後にした彼女はあれ以来一歩も外へ出ていない。
もともと父からは帝都では一人での外出を禁じられていたし、あの時ヘルメス邸にいた人間にはすべからく緘口令が布かれていて、人によっては行動もある程度監視されているかもしれないと聞いているので、魔術騎士団隊長の娘としてはおいそれと軽はずみな行動は取れなかったのだが、できることなら彼女はジリアン・アナ司書長に会いに行きたかった。
あの時、彼女の元へまっすぐに向かって行った背の高い赤毛の男性が何事かをヘルメスに囁いた後、彼の様子が一変したのをミリアは覚えている。
そして彼らが部屋から出て行ったすぐ後に、あの衝撃がやってきたのだ。
今でも思い出すと、ぞっとする。
頭の芯を貫かんばかりの轟音だった。
父に抱き寄せられ、身体の下に庇われて床に伏せている間、頭上からは激しい揺れに軋んだ天井の装飾材やシャンデリアの部品が断続的に降り注ぎ、テーブルの上から滑り落ちた食器や酒の瓶があちこちで割れて破片を撒き散らしていた。
両手で塞いだ耳の間からはすさまじい音と共に怒声や悲鳴、泣き叫ぶ声が入り込んできて、彼女の頭の中でガンガンとこだました。
気付いた時、半ば彼女は気を失いかけていたのだろう。
父の手に抱きかかえられながら、彼女は痺れてうまく働かない意識を何とか叱責して立ち上がり、ヘルメス邸の外へ出たのだった。
その後は、しばらく馬車の中で一人待たされた。
魔術騎士団の隊長として、父はこの異常事態に騎士団としての対処にあたらなければならなかったからだ。
父が彼女の元へ戻った時には、彼女は既に疲れ果てて馬車の中で眠ってしまっていた。
あの時ヘルメス邸で何があったのか、父は何一つ彼女には話さない。
いや、話せないのかもしれないが。

ミリアは溜息を吐き出した。
その拍子にふと、眼の端に何か動くものが映った。
ミリアは寝そべるような格好で座っていた長椅子から足を下ろし、上体を起こして窓の向こうを凝視する。
庭の様子は暗がりに沈んではっきりとは見えないが、うっすらと浮かぶ陰影で花壇や木々の茂みは視覚できる。
じっと注意を向けて見ていると、今度は何か白いものがすばやく低木の茂みの背後に下りるのが確かに眼に留まった。

“…鳥……?…でも、まだ暗いのに…”

訝し気に眉を顰め、彼女はそろそろと椅子から立ち上がると足音を忍ばせて大窓へ歩み寄った。
少し躊躇った後、慎重に窓を開けてポーチへと滑り出る。
外気は室内よりもずいぶん冷たく感じられた。
ミリアはそのまま静かに、先ほど白い何かが下りた茂みへと足を向けた。
柔らかな細い草が綺麗に生え揃う地面は、室内履きを履いているだけの彼女の足を優しく包み、足音を消してくれる。
茂みへ近づくと彼女は身体を低くし、そうっと恐る恐る細かい枝葉の隙間から茂みの奥を覗きこんだ。

茂みの奥には木々の成長に配慮して意図的に作られた狭い空間があった。
ぽっかりと楕円形に開いた木々の狭間。
そこに、1羽の白い梟がいた。
梟は地面に伏せるように、腹ばいにうずくまっている。
羽にケガでもしたのだろうか?
身体を小刻みに震わせて、身悶えしているかのようだ。
バサ、バサ、と翼を交互に地面に打ちつけているのを見て、ミリアは助けなければと思わず一歩を踏み出した。
その時、地面に打ちつけられた片翼の先から淡い光の霧がふわりと立ちこめ、次いで翼が引きちぎられたように白い羽が散った。
それと同時に、そこには羽まみれになった人の腕が現れた。
ミリアは眼を見開いてその場に凍りつき、本能的に悲鳴を上げそうになった口元を両手で覆った。
彼女の目の前で、腕の先には掌が、もう片方の翼からも光の霧と翼に覆われた手が現れ、徐々に梟だったものの身体が光の霧と翼をまとわりつかせた人間の身体へと変化していく。
最後にゆっくりと細かな光の粒子が輝きを失くして消えて行くと、そこには白い梟ではなく、白い髪と白い肌の小柄な少年がうずくまっていた。
やがて、梟から姿を変えた少年は、苦しげに何度か大きく息を吐いてノロノロと顔を上げた。
声も出せず、口元を抑えたまま立ちすくんでそれを凝視していたミリアと彼の眼が合った。
赤い瞳。
紅玉のように赤く輝いていた瞳が、彼女の眼を捉えた途端、すっと落ち着いた濃い赤紫に変化した。
羽にまみれた華奢にも見える肩が激しく上下している。
どうしたらいいかわからずゴクリと喉を鳴らした時、ミリアの背後で厳しく鋭い声がした。

「こんな時刻に、こんなところで何をしているんだ、ミリア」

ビクリと文字通り飛び上がるほど驚いて振り返ると、彼女のすぐ後ろに父、ランディオ・テス・フィンの姿があった。
彼は娘の肩を掴むと後ろに下がらせ、目の前にうずくまって顔を上げている少年をじろりと見下ろす。

「……お前とした事が…失態だな」

憮然とした声で言い放つ父を、ミリアは呆然と見上げた。
赤い瞳の少年は、眉根を寄せて顔をしかめたが、「…申し訳ありません…」と小さく答えた。

「ですが…変化の最中に気配に気付いても変身を止める事はできませんので…」

「だから尚更だ。これが私の娘だから良かったようなものの…もし誰か他の者だったら面倒なことになっていただろう。お前が変化族である事は17部隊内でも内密にされている。その理由もお前自身、よくわかっているはずだな?」

厳しく戒める言葉を投げるランディオの表情は、しかし口調の厳しさのわりに気遣わしげだ。

「申し訳ありません…」

再びそう答えると、両手を付いて身体を起こそうとする部下にそのまま動くなと手で制し、魔術騎士団第17部隊隊長は娘の方を振り返った。

「ミリア、ともかくさっさと部屋へ戻りなさい。お前がいる前では、彼は立ちあがれない」

「え?」

「彼は、私の部下だ。第17部隊のジオ・メディシス。変化族だ。変身する際には衣服を身に付けているわけにいかないからな」

父の言わんとするところを察し、見開いていた両目を更に大きくしたミリアは頬に朱をのぼらせた。

「早くしなさい。部屋へ戻ったら私が呼ぶまで出てこないように。私が呼んだら、まず彼に熱い茶を淹れてやってくれ。彼の変身を見てしまった以上、お前にも少々話しておかなければいけない事がある」

「は…はいっ…!!」

ミリアの思考は今だに混乱していたが、とにかく父に言われた通り彼女はくるりと彼らに背を向けてポーチから居間へと駆け込んだ。
走り去る娘の後姿を見送りながら、ランディオ・テス・フィンは深々と大きな溜息をひとつ吐き出した。


*** ***


魔術騎士団の宿舎に戻って、これで3日目の夜を迎えようとしている。
コウは内心強い焦りと苛立ちを覚えていたが、何とかそれを抑えつけ、表面上は平静を装っていた。
あの夜、ジオ・メディシスと別れて宿舎へと帰隊したコウはジオに言われたとおり外務についていた事になっていて、謹慎処分を受けていた事に関しては既にとうの昔に忘れ去られてしまっているようだった。
彼と共に同様に謹慎を言い渡されていた同僚達も彼が学都を発った数日後には処分を解かれていたらしく、それぞれ別の任務について出掛けていたり、これから外務に出るための準備を整えていたりするところだった。
明日学都を発つという同僚のカナエ・ダンという青年は、ここ10日ほどずっと魔術騎士団の内部はバタバタと慌しく、イライジャ師は魔術師ギルドと魔術学塔、それに騎士団の指揮部の間を行き来し、落ち着く暇もないらしい、と彼に話した。
だが、それにしてもあまりに時間がかかりすぎる。
コウがイライジャに報告すべき情報の全ては非常に重要なもののはずで、恩師はそれを待っているのではないのだろうか?
自室に篭ったままただじっと待つコウの苛立ちが頂点に達しようとしていた時、突然彼の部屋を訪れた者があった。

相手は第8部隊に所属しているフロー・サンという男で、コウも何度かは騎士団の集合訓練や宿舎内で見かけたことがある。
とはいえ、言葉を交わしたことはほとんど無い。
フローは人の良さそうな笑みを浮かべつつコウの自室へ入ると、自分がコウと同じように騎馬隊の人間といざこざをおこした為に謹慎処分となっている事、自室にとじこもっていても気が滅入る一方である事、そこで自分同様謹慎を受けたコウが外務に出ていた先から戻ってきた事を聞きつけ、気晴らしにやってきたのだといった事等を、ぺらぺらとまくし立てた。
コウの脳裏に、ジオの言葉が蘇る。

“不用意にあんたに接触してくる人間がいたら、注意していてくれとの事だ……”

コウは彼の投げかけてくる話題や質問に怪しまれない程度に受け答えをしつつ、密かにフローを観察した。
これといって特徴のないごく平凡な容姿の男で、騎士というよりは魔術師といった方が相応しい印象だ。
のんびりとした穏やかな空気を醸し出しているが、それが意図的に演じられているものでないとは断定できない。
しかし、あれやこれやと会話を交わしていてもフローが口に出すのは日常的な隊内の愚痴であったり、彼が謹慎をくらう羽目になった喧嘩沙汰の武勇伝であったりと実にどうでもよいような事ばかりで、コウも次第に話に付き合う事に疲れを覚え始めてきた。
コウのそうした様子を見てとると、フローはすまんすまん、と笑いながら暇を告げた。

「長居して悪かったな。だが、もう3日も前に戻ったってのに部屋に閉じこもってるって聞いたからさ、きっと退屈してるんじゃないかと思って」

「いや、別に退屈というわけではないが……」

「けど、窮屈だろう?なんで閉じこもってるんだ?」

「……まだ報告を済ませていないからな」

コウはそう答えながら、じっとフローの眼を見た。
フローの表情はにこやかなままで、そこに何かを読み取ることはできない。
へぇ、と肩を竦めて彼は眉を上げた。

「そんなに待たされてるのか。そりゃ大変だ」

フローはいかにも気の毒そうな声音でそう言うと、「邪魔したな」と手を上げて部屋を出て行った。

一体、彼は何をしに来たのだろう?
コウの瞳に影が落ちる。
フローが彼と交わした会話は、まるきり当たり障りのない、言ってみればコウの部屋をわざわざ訪ねて来てまでするようなものではなかった。
彼らが普段から親密な間柄であるのなら、それも久しぶりに帰隊した友人の顔を見がてら外務の労をねぎらいにやってきた、と考えておかしくはないのだが、彼らの仲はせいぜいが顔見知り程度のものだ。
なぜ彼がコウの元を訪れ、どうでもいいような話をあれこれして帰って行ったのか、その理由がジオの残した言葉の答えなのかもしれない。
彼が出て行った後、コウは自室の隅々までを探るため意識を部屋の空気に透過させた。
その時、頭の中でしばらくぶりに知覚する恩師の声が響いた。

“コウ、長々と待たせて悪かったの”

“先生”

コウは声には出さず、意識のみで恩師に答えた。

“あれこれと…少々厄介な事が起きておってな…”

“一体、何があったんです?”

“少し待っておってくれるか。すぐにそちらへ行くからの”

“え!?ここへですか!?”

“そうじゃ、どうやら獲物も網にかかったようじゃからの。君にこちらまで来てもらうより、わしがそちらへ行く方が都合がいい。すぐじゃから待っておりなさい”

そうコウに伝えると、イライジャの声はすっと彼の頭の中から消え去った。
その一呼吸後、コウの部屋の扉が再び叩かれた。
コウは弾かれたように取っ手を回して扉を開けたが、左右にのびる石壁・石床の廊下には誰の姿もない。
ふわりと鼻先を薬草の香が掠め、コウは静かに扉を閉めてかんぬきをかけた。
彼がくるりと振り返ると、狭い部屋の窓辺に置かれた長椅子の上に、懐かしい老恩師が腰を下ろすところだった。

「先生」

コウの面が思わず緩む。
イライジャは悪戯っ子のような表情でシッと人差し指を口元に当てて見せると、小さく唇を動かして何事かを呟いた。
かすかな、薄氷を踏むようなキシリという音がして、イライジャはゆるゆると目元を綻ばせる。

「よし、もうよいよ。今わしの仕掛けにひっかった罠種をだまして内側に結界を張ったからの。声を出しても外へは漏れん」

「先生、僕の部屋に仕掛けを張っていたんですか!?」

驚いているのか呆れているのか、そのどちらとも思えるような声音でコウが言う。

「うむ、すまなんだのぅ。君を送り出した後と、君から帰還の連絡を受けた後と…二度ほど無断侵入しておるが、勘弁しておくれ」

イライジャは喉の奥を震わせて笑い、長椅子の背もたれに身体を預けて両目を閉じた。
眉間に深い皺が刻まれ、右手の指がこめかみに当てられる。
三月前の別れ際の恩師に比べると、その表情には明らかに濃い疲労の色が見て取れた。
コウが黙って見守るうちに、イライジャのこめかみに当てられていた指がひらひらと空中を泳ぎ、骨ばった細い指がひらりと動くたびに、空間から薄い青白い光の糸のようなものを絡め取っていく。
ややあって指の動きが止まると、恩師はゆっくりと閉じていた眼を開けた。

「……ここへ来たのは第8部隊のフロー・サンか……ふむ……。罠種を仕掛けたのは彼じゃな。ずいぶんと精巧な種じゃが…はて、彼にそれほどの術力があったとは記憶しておらなんだがのぅ…?」

「…先生は、最初から僕のところへ誰かが来るとお考えだったんですね?」

「うむ、おそらくそうじゃろうと思っておった。すでに君を送り出す前から、どうもおかしな動きを感じることが増えておったんじゃが…この一月ほどの間にそれが少々顕著になってきてな…」

「…おかしな動き…というのは…?」

「どうやらの、わしが魔術師ギルドの長でおっては困る…という者が幾人かおるようなんじゃよ…。まぁ、わしとしては、本音を申せばそろそろこの立場もお役ご免で隠居するにやぶさかではないんじゃが…まだ今はそうもいかん事情もあるでのぅ…」

飄々とした態度を崩さずに恩師が口にした言葉は、しかしコウの眦を吊り上げさせるに十分だった。

「何ですって!?今の学都に術力・知識においても、人柄においても、先生に勝る人物なんていませんよ!?魔術塔の連中はそれを重々承知のはずでしょう!?」

「いや、魔術塔の者達も決して一枚岩ではないからの。ただ、幸いにして現在魔術塔の有力な術師達はほとんどが皆わしの教え子じゃし、そもバルセナタンの学術塔の連中は自らの知識や技術の向上には欲深じゃが、権力には無頓着な者の方が多い。それはこの学都がこれまでさほどの変事にみまわれる事もなく純粋に学問の発展に精進できた大きな要因のひとつじゃな。権力に惹かれる者は皆、学都には留まらん。彼らの望むような力は、帝都でなければなかなか手には入らんのでな。とはいえ、わしの頂いておるお役目も、確かにそういう者にとっては魅力ある権力のひとつじゃろう」

「ですが、そのお役目を担うためにはそれ相応の能力がなければ…」

「確かにそうじゃな。ここが技と技術、そして学を究める都であるからには、君の言うように相応の能力も必要じゃな。しかし一番重要なのは、術・知・人とのバランスなのじゃよ。どれかひとつが突出して優れておるだけではダメなのじゃ。わしよりも術力の高い魔術師は大勢おるし、知識・人柄も同様じゃが、まずちょうどほどほどに均衡のとれておる人物となると、なかなかおらん…。わしは昔から全てにおいて適当に済ませてしまうような人間じゃったから、たまたまちょうどよくお役に任じられることになったのじゃが、わしのように何事においてもほどほどに済ませておくことは、学問を探求したい者達にとっては容易にはいかんのじゃろう」

「……またそんな…。学都で今先生以上の術力のある魔術師など…僕には思いつきませんよ?」

「コウ、物事は常に変化していくものじゃ。いい事も悪い事も…どんな事も、いずれは時と共に変容してゆく。そうして世界は回っておるんじゃから……」

どこか遠くを見るような眼差しを窓の方へ向けて、イライジャは小さく笑った。
コウは恩師の目じりに刻まれた長い年月の軌跡を見つめ、それでも世界には変わらずに留まり続けるものもある、と心に思う。
たとえば彼が恩師を慕い、尊敬する気持ちはきっと生涯変わる事はないだろう。

「…そうじゃな、全てが…というわけでは決してないかもしれんがの…」

コウの思いを見透かしたかのように、イライジャは微笑んでそう付け加えた。

「さて、それで…じゃ。わしの事を少々邪魔に思うておる者がおる事は、まぁそれほど大きな問題ではない。それよりも、君から戻ると連絡を受ける直前に、帝都でおきた大事の方がよほど重要での。もしやすると結果的には双方はどこかで結びついておるのかもしれんが、それもまだ詳しくはわかっておらんのじゃ」

「その件…ジオから聞きましたが…一体帝都で何がおきたというんです?」

「うむ……」

イライジャは一旦言葉を切ると、深く長い溜息を吐き出した。

「ひとまずは推測や憶測を省いた事実だけを話そう。先日…君が戻るとの連絡をわしが受ける少し前の事じゃが…帝都で魔術騎士団及び帝国専属魔術師の総勢を取り揃えた会合が開かれたのじゃ。会合の場所は、ヘルメス・フラメール師の邸宅での、魔術騎士団は隊長・副隊長及び各部隊長、一部部隊班長といった、幹部総勢に召集がかかった。そこで話し合われたのは、例のわしが君に極秘に調査を頼んでおった首なし騎士の問題と、もうひとつ近頃各地でおきておる教会荒らしにについて…だったそうなのじゃが…その会合の最中…正確には、会合そのものは一旦終結し、皆がフラメール師の館のサロンに集うておった時の事だったらしい。館に変事がおこったのじゃ」

「変事……?」

「君はヘルメス・フラメール師の館を見たことは…ないじゃろうな?じゃが、噂に聞いたことはあるじゃろう。彼の屋敷の中庭には三本の巨木が茂っておる」

コウが帝都を訪れたことは数えるほどしかないし、もちろん帝国専属魔術師であるヘルメス・フラメール師の邸宅など眼にしたこともない。
だが確かにその豪奢な館の噂話は飽きるほど耳に届いており、件のユーツリーの話は中でも特に有名であったから、コウも良く知ってはいた。
彼は言葉には出さず頷いて、恩師の話の続きを待った。

「その木に、黒い稲妻が落ちたそうじゃ…。これは、帝都の宮廷のあちこちでそう見えたという比喩なのじゃが、その黒い稲妻のようなものは、竜巻のようにも見えたという…。生憎、邸内に集うておった人間はほぼ全員室内におったので、一体館に何がおきたのかは皆目わからぬらしい。少なくとも、集められておった魔術騎士団の幹部達は誰一人その黒いものを目撃してはおらなんだ。ただ、すさまじい音と揺れをやりすごし、例によって会合と共に開かれておったサロンに出席させた家族を保護することで精一杯だったようじゃ」

「館の主はどうしていたんですか?」

「第10部隊隊長からの報告によると、フラメール師は屋敷が激しい揺れに襲われる直前、部屋を飛び出して行ったそうじゃ。何らかの異変に気づいて対処に向かったのかもしれんが、詳細は確認できておらん。その場に居合わせた者達は全員、そのまま帝都に足止めをされておるし、緘口令を布かれておるようじゃから、こちらへの報告も今のところ簡易的なものにしかできんらしい。皇帝陛下に対して報告された公式の申し開きによると、以前にあの屋敷の住人であった故魔術師が何やら帝都へ報復をもくろんで災厄の種をあの木の下に撒いておったのを、フラメール師が察知して事前にあの屋敷を手に入れ、魔力を抑えておったのじゃと言うておるようじゃな」

「…それが…抑えがきかなくなって暴走した…とでも?」

ふん、と鼻を鳴らしてコウは眉間に皺を寄せた。

「まぁ、そんなところじゃの。故魔術師の名誉のためにも、彼は良かれと思うて自分一人でそれを何とかしようと思うておったと…そう陛下には申し述べたそうじゃよ」

「……まぁ、それを言葉どおりに信じていいとは僕は思いませんが」

肩を竦めて言い放つコウに、イライジャは声をあげて笑った。

「君と同じく、その説明では納得できん者は多くおるじゃろう。じゃが逆に、彼に心酔しておる者は皆それを信じ、何と献身的な行いかとますます彼を崇拝することになるじゃろうな。そして、その方が疑ってかかる者の数よりも圧倒的に多勢であることは事実じゃ。とはいえ、我々魔術師ギルドの賢者達の立場からすれば、当然ながらそのような眉唾の話を信じるわけにはいかんでのぅ。まず、あの屋敷の前の持ち主についてじゃが、確かにその者はこの学都の魔術塔で学術を修めた力ある魔術師じゃった。年齢から言うてもわしの教え子ではなかったがの。しかし、かの者が帝都に対して報復をもくろんでおったなどとは…思えんのじゃよ。そんな人間ではなかった…というのではなくな。あれは、確かに野心的で放埓な男じゃったことは確かじゃが。確かであったからこそ、何かを残していったのならばたかが帝都への報復程度のことで済ませるはずはない…」

「……じゃあ、今回のそれは…」

「まだほんの一端に過ぎぬのかもしれんし、そうでなくてもあそこには何かが確実にあるじゃろう。故魔術師の死についても、実のところはっきりしておらん点がいくつかあるしの…」

「はっきりしていない点…ですか…」

「うむ、あの魔術師は…死んだという届け出だけはギルドに出されておるものの、死因その他詳しい経緯は一切わかっておらんのじゃよ。ともかく、この世から去ったという事実一点以外はな…」

コウは片手で顎下あたりをゆるゆると撫でて唸った。

「ともかく、魔術師ギルドとしては報告をそのまま額面通りに受け止めるわけにはいかん。とはいえ帝国専属魔術師が公的にそう言うておる以上、こちらとしては面と向かって対峙するわけにもいかんからの…そんなわけで、ここ数日あれこれと調査のための手配をしておったわけじゃよ。その我々の動きを知りたがっておる者が、どうやらおるらしいのじゃ」

「…それでジオを使いに出したのですか…」

「適任じゃからの」

ニコニコと笑い顔の老恩師は頷くと、コウに向かって手招きをした。

「それよりも、君の方の報告を聞かねばならんじゃろう。ずいぶん待たせてしまったし、件の帝都での会合の議題にも関することじゃからな」

「はい。そうとなれば急を要す事態かもしれません。それに、ご指示を仰ぎたい事も…」

コウはイライジャに近寄ると、長椅子の足元に膝をついて頭を垂れた。
老魔術師は背もたれに預けていた上体をゆっくりと起し、コウの垂れている頭を両手で支えると、自らの額で彼の頭に触れた。
イライジャの冷たい額が触れた途端、コウの脳裏には三月の間の旅路の記憶がすさまじい速度でよみがえり、像を結んだ。
閉じた瞼の裏に映し出される映像が、濁流のごとく流れ去っていく。
イライジャは直接コウの記憶の映像に同調し、コウが見聞きし、体験してきた全てのことを自らの体験同様頭の中に取り込んでいるのだ。
それが最も純粋に全ての情報を伝達する方法で、重要な任務報告であればあるほど、彼はこの方法で任務の結果内容を伝えている。
痛みを伴うわけでもなく慣れているとはいえ、毎回頭を振り回されているように感じる眩暈にも似た感覚に、思わず胸元に手をやると、コウの手にチュニックの下の護符の感触が伝わり、彼はぎゅっと服の上からそれを握った。
恩師の記憶の同調は、時間にすればほんの数秒で完了し、コウが感じた眩暈も瞬間的におさまった。
けれどもコウのこめかみに添えられたイライジャの手はなかなか離れようとせず、気づけば恩師のそれは微かに震えているようだった。

「…先生…?」

頭を垂れたまま訝しげに呼びかけたコウの声に、イライジャは我に返ったように起き上がり、手を離した。
顔を上げたコウの眼に、めったに見たことのない恩師の動揺した顔が映る。

「先生?」

コウがもう一度呼ぶと、イライジャは鼻にひっかけた丸い眼鏡の向こうで少しばかり見開いていた眼をしばたたき、大きく息を吐き出した。

「……何と……」

小さくそう呟き、やや呆然とした体であった恩師は、しかしすぐに面を厳しく引き締めてコウを見据えた。

「ヘイヤート、今君から報告を受けた全てに関して、恐ろしく多くのことがわかった…しかも、早急にあらゆることを考慮して対処を考えねばならん。じゃが、それを君に全て説明しておる時間は今はない。君が共に学都へ連れてきた娘さんは、今どこにおるのじゃ?」

穏やかではあるものの、切迫した恩師の様子に自然コウの身も引き締まる。

「…学都において僕が最も信頼できる人……ロザリンのところに…」

それを耳にした途端、イライジャの面がサッと曇り、血の気が引いたようにわずかに精彩を失った。
コウの心臓がドクリと波打つ。
チュニックの上から護符を握った手に、無意識のうちに力が入る。
それを見て、イライジャがうめき声にも似た声と共にコウに訊ねた。

「……そこにあるのは…ロザリンの護符じゃな?」

コウはただイライジャの眼をまっすぐに見据えたまま、頷くことしかできない。
その時、彼の耳にこの三月、いやというほど聞いた禍々しい嘶きが彼方から届いた。
それが幻聴でないという証拠は、今彼の目の前にあった。
彼が眼を離せないでいる恩師の耳にもその声が届いているという事実が、師の表情には疑いようもなくはっきりと浮かんでいたのである。

[2010年 11月 30日]

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