Chapter.3-5

「で?お前は俺のいいつけを守らずに、フラメール邸で一体何をして来たんだ?」

ようやくベッドの上で上体を起こして座り、まともに会話ができるようになったセシアスに、まず最初にオスカーが訊ねたのはそれだった。
さすがに少年の意識が戻った直後は安堵が先にたち、とにかく弱りきった身体を元の状態に戻すことが先決だと、ジリアンと共にあれこれ食べ物や飲み物を与えたり、医術師や癒術師を呼びに走ったりして、まるきり雛の世話をする親鳥のようだと彼女に笑われたが、二日ほどでセシアスの体調がほぼ元のように回復してくると彼は早々に保護者役を放棄し、その役割を全面的にジリアンの手に委ねてしまった。
セシアスにしてみれば、オスカーのその気まぐれとしか思えない局地的な保護者意識にはほとほと呆れるばかりではあったものの、かといってジリアンの代わりにこの赤毛の傭兵が粥を口に運んでくれたり、肩を支えて水を飲ませてくれたりする姿などとうてい想像できないし、もちろんそんな世話を焼かれたくもない。
また、上司であるジリアンにいつまでも看護士のような真似をさせるわけにはいかない上、何より彼が横になっているベッドは本来ジリアンのもので、早く明け渡さなければ彼女がゆっくり休むこともできないと思うと即刻その被保護者的立場を脱したかったから、オスカーのその姿勢は正しかったとは言えるだろう。
オスカーの雛放れと共に、少年はもう熱も下がったし大丈夫だと、すぐにも自室へ戻る事を主張した。
ところが、心配性のジリアンはもうあと一日くらいは自分の眼の届くところで養生するようにとセシアスの言い分を受け入れない。
仕方なく渋々ながら彼女の言葉に従い、翌日からは仕事にも復帰する事を密かに心に決めながら休んでいたところ、夕刻を過ぎる頃になってオスカーが訪ねて来たのだった。
ちょうど夕食の時間に合わせて訪ねて来るあたり、ちゃっかりしているとセシアスは溜息を漏らしたが、ジリアンは嫌な顔一つせず赤毛の傭兵を部屋へと招き入れた。

この日はジリアンが職員用控え室棟の食堂に頼んで、セシアスの好物の朱芋のスープを作ってもらっていた。
とろみのある橙色のスープには、薄切りのベーコンと細かく刻んだ野菜があれこれ入っており、どれも長時間煮込んでとろけるように柔らかくなっている。
深い木製の椀にたっぷり注いだスープと今日の昼に焼かれたパンを、オスカーは旨そうにぺろりと平らげた。

「……」

満足気な様子の彼に、泉のように湧き出てくる苦言を噛みしめていたパンと共に飲み込んで、セシアスは大きく息を吐き出した。
訊ねられたのは非常に重要な事であるにもかかわらず、何だか答える気力が出ない。
オスカーと共に少年の枕もとに椅子を寄せて食事をしていたジリアンが、手にしていた匙を下ろした。

「そうよ、セシアス。そもそも、どうして一人で館の中を歩き回ったりしていたの?」

約束を違えて無茶をした少年に、自然上司の表情も厳しくなる。

「すみませんでした…その…ちょっと気になったことがあって……」

ジリアンに問い質されてしまっては、セシアスも素直に口を開かないわけにいかない。
手の中の椀の残り少ない中身をかき混ぜながら、もごもごと少年は答えを濁した。

「気になったことって、何なの?」

「…実は…あの館に着いた時……」

セシアスは、ヘルメス邸に到着した際、玄関ホールで眼にした青白い影のようなものの事、それからその不思議な影に導かれるようにして彷徨いこんだ螺旋階段と地下の部屋の事、それより更に下層に口を開けていた地下階段の存在(その地下階段の暗闇を思いだした途端、セシアスの脳裏にはあの夢が一瞬蘇っていた)、忍び込んだ部屋で見聞きした事の一部始終をゆっくりと一つ一つ慎重に思い出し、二人に語った。
ジリアンは時に蒼ざめ、時に眉を顰めて、オスカーは終始面を厳しく引き締め、眼の奥に密かに剣呑な光を瞬かせながら、真剣に少年の話に聞き入った。
彼が全てを語り終え、すっかり冷めてしまったスープをベッド脇の小机の上にコトリと置くまで、室内を沈黙が支配した。

「……“にわかには信じがたい話だ”と、宮廷の連中は言うんだろうな」

何ともいえない苦々しい笑みの形に唇を歪めて、オスカーがその沈黙を破った。

「だが、それが正真正銘事実だってことは、少なくとも俺は信じられる。それに、お前が見たっていうその魔術師は…多分、俺もちらりとだが目撃していると思う」

え?と訝しげにセシアスの眉が上がる。

「担当の報告を終えて会議室を追っ払われた後、お前が姿を消しちまったってカイヤに報告を受けてな…。ちょうど折り良くアナ殿が到着されたんで、彼女のことはミスチフに任せて取り急ぎお前を探しに出た。まぁ、そういう名目があれば、多少は俺もあの屋敷内をふらついても大してとがめだてされんだろうと思っていたんだ。そこで……」

オスカーは、自らがホールの階段上から見た専属魔術師と思われる人影のこと、それを追うような形でヘルメス邸の中庭に入り込んだ事、そしてそこで眼にしたものの事を二人に話した。
突然の変容を見せていた空模様、絡み合う巨木の上から触手のように這い降りてくる不気味な黒い霧。
その禍々しい霧の様子にふれると、ジリアンは思わず口元を両手で覆った。
彼女も、おそらくそれをあの時見たのだ。
彼女を乗せた馬車が、屋敷に到着したあの時に。

「…俺がホールで見たのは、タイミング的に言ってもセシアスが声を聞いたその誰だかわからない魔術師にほぼ間違いないだろう。だが恐ろしく重要なのは、その地下室にいた二人はあの会合が行われていた部屋にもいたはずだ、という点だ。時を同じくしてな」

ごくり、とセシアスの喉が鳴った。

「あいつらは…自分たちの事を“影”って呼んでた…」

「“影”……」

「俺は魔術については正直詳しくないんで何とも言えないが、つまり自分の分身のようなものを彼らは操れるということなんだろう」

「公的に禁じられている術ではないと思いますが、それを使えるほど技量のある魔術師は、そう多くないはずだと記憶しています…」

眉間に皺を寄せて考え込みながら、ジリアンが言う。

「ただ、ヘルメス・フラメールの“影”は自分の“影”はその魔術師のものとはちょっと違うって言っていた…。すごく自信たっぷりにね。僕には…よくわからなかったけど、“切り離されて”いるとか何とか……」

「ふん……どういう意味なんだ…?」

「それに、オスカーの言っていたあの噂話も…本当だったし、それについても確かその魔術師は“危険な事”だって言ってた……」

「……塩か……」

「あれは、確かに尋常じゃない量だよ。あんなに大量の塩…一体何に使うんだろう?」

「皆目見当もつかないな…。まさか、宮廷専属魔術師が死ぬほど大量の塩漬け肉を作ってる…なんてこたぁないだろうからな…」

「塩漬け肉…って…あのさぁ…」

冗談を口にしている場合か、と舌打ちしかけて唐突にセシアスはあっ、と小さく叫んだ。

「ん?どうした?」

「僕の…着ていた服は!?」

セシアスの慌てた様子に、ジリアンがすぐに席を立ち、部屋に戻ってすぐに脱がせてしまってあった白装束を持って戻って来た。
セシアスはそれを受け取ると、隠しポケットの中を探る。
あの騒動の渦中で、もしかしたら落としたりなくしたりしてはいないかと心配したが、指先にコツリとあたる感触にほっとして、セシアスはあの指輪を取り出した。

「それは……?」

眉を顰めたオスカーが、少年が指に掲げた指輪に眼を向けた。
ジリアンも、同じくそれに視線を注ぐ。

「実は、その塩の箱の中身を確かめた時に…見つけたんだ。塩の中にコレが埋まってた…」

そう言って、セシアスはオスカーの方へそれを差し出した。

「それを見つけて…そのすぐ後に、その…さっき話した青白い…人の影が現れて…“隠れろ”って言ったんだ…」

オスカーは少年の手から指輪を受け取ると指輪の面に灯りがよく当たるように掲げ、上下左右あらゆる角度に傾けて隅々まで検分した。
やや幅の広い簡素な銀色のリングだ。
大きさから判ずるところでは男物だろう。
表面には細かな模様が浮き彫りになっていて、裏面を覗き込むと、ごく小さな文字が一重ぐるりと円を描いて刻み込まれていた。
その文字は、オスカーには読む事ができない。
彼は隣に並んでその文字を覗き込んでいたジリアンに、「読めますか?」と訊いた。
ジリアンは眼を細めてじっと文字に見入ったが、やがて首を横に振った。

「いえ…私には……。ただ、これはきっと…とても古い…失われた古代文字ですね…。以前に修復過程で見た事のある資料文献の中に、いくつか同じ文字があったのを憶えています…。…意味はわかりませんが」

オスカーは、そうですか、とやや残念そうに答えたが、その文字から眼を放せないでいるようだった。

「この文字…何かの呪文か…?」

睨むように指輪を見据え、オスカーが呟く。

「…そうかもしれませんね。だとすると、フラメール師のものでしょうか…?」

ジリアンが不安気に口にすると、オスカーは小さく首を振った。

「どうでしょうね…。私はそうは思いませんが…。あのお方の持ち物にしては、これは少々貧相…というか地味すぎる気がします」

「僕も、そう思う。フラメールのものなら、もっと派手な装飾がされてるだろうし、土台も金だと思いますよ、きっと」

セシアスもそれに同意した。

「もしかしたら、その指輪は……あの光る影の人の物…なんじゃないかな…」

迷い迷いセシアスがそう続けると、オスカーはふむ、と頷いた。

「そうかもしれん…。が、なぜそう思う?」

確たる理由を問われて、一瞬セシアスは言葉に詰まった。
感覚的に感じられたものを説明するのは難しい。

「…何ていうか……そんな気がして…。あの影の人は、僕をあそこへ導きたがっていたような気がするんだ。実際、僕はあの影を追いかけて地下室まで辿り着いたんだし…それにあの魔術師が来ることを察知して…僕に隠れ場所を教えてくれたのもあの影だった…」

「…それだけの理由では、これがその影の人物のものだとは断言しかねるな。だが、可能性はあるだろう」

オスカーはそう言うと、指輪をセシアスの掌の上にポトリと落とした。

「とりあえず、それはお前が預かっとけ。何かの手掛りになるかもしれん。無くすなよ?」

「…わかった…」

セシアスはぎゅっと掌の中に指輪を握りこんだ。

「さて、問題は…これからどうするべきか……なんだが…」

大きな溜息と共に、オスカーは自らの顎の下を擦った。
セシアスもジリアンも、黙って次のオスカーの言葉を待つ。

「……当面は、何もしない。動かない方がいいだろう」

あっさりと、オスカーはそう断言した。
セシアスが一瞬顔をしかめて口を開きかけたが、彼はそれを手を上げて制し、厳しい表情で少年を見据えた。

「当面は、と言ったろう。まぁ、聞け。とにかく今は、下手に動くべきじゃないと俺は思う。お前がヘルメスの屋敷で見聞きしてきたことは大方わかったし、俺の見たもの、それからあのとんでもない怪異現象も含めて、ヤツの屋敷に何かがあることは確かだ。しかし、それでも我々の持っている情報は断片的すぎるし、少なすぎる。それに、ヘルメスの方も俺達の動向には注意を払っているはずだ。多分な。何しろ、俺はあの男に中庭で起きている現象を知らせた人間だ。なぜ庭で起こっていたことを俺が知っていたのかという事は、ヤツにとって軽視できる事じゃない。こうして俺が毎日のようにアナ殿の部屋を訪問している事も、お前が高熱を出して臥せっている事も、何もかも気になって仕方ないはずだ」

セシアスは、最後に眼を合わせた時の魔術師の瞳を思い出した。
濃緑の中の底知れぬ闇の色。

「……アイツは…僕がなぜ自分の屋敷にいるんだろうと思ってたかな…?それとも…」

あるいは、セシアスがあの地下の部屋にいたことに気付いていただろうか?

「いや、お前が地下室に潜り込んだって事については…気付かれてないんじゃないか?」

少年の懸念を察したように、オスカーが言う。

「でなきゃ、その魔術師一人だけが捕まりゃしないだろう?」

「あの時はね…そうだったかもしれないけど、今はもしかしたらそれを疑ってるかもしれない。そうだとしたら…」

「まぁ、それならそれで、相手の出方もわかんねぇうちに、あんまりこっちからチョロチョロするのは得策じゃないと思わねぇか?だから、少し様子を見たほうがいいと俺は思ってるんだ」

「…そうですね……」

それまで黙って二人のやりとりを聞いていたジリアンが、控えめに口を挟んだ。

「ウィン様のおっしゃる通りかもしれません。まずは、様子を見ながら…私達は私達の得た情報をもう少し詳しく調べて…吟味してみた方がいいでしょう。セシアスの見つけたその指輪も…塩の事も……それに、フラメール様がその誰なのかわからない魔術師に言った事も…」

セシアスとオスカーの顔を、交互に見やり、ジリアンはにっこりと微笑んだ。

「私達、物事を詳しく調べるには素晴らしく恵まれた環境の中に、常にいるんですもの」


*** ***


ゆらゆらと、闇の中で炎が揺れる。
青白い熱の無い炎。
それは深く濃厚な暗黒の空間にぽつりと一点のみ浮かぶ明かりだが、決して周囲を照らし出すためのものでもなければ見る者に安らぎを与えるものでもない。
炎は中空に浮かんだまま音もなく燃え続けている。
良く見れば、火の中心には何か鉛のような黒い塊があり、炎の揺らめきとは別に規則的に動いているのがわかる。
その動きはとても緩慢で、まるで眠っているヒトの胸が穏やかに上下しているかのようだ。
気が狂いそうなほどの静寂の中で、炎は揺れ続ける。

無音の闇の世界に、突然人の姿が現れた。
その人は空に浮かんだ炎よりも更に高いところから、ふわりと長いガウンの裾を翻して下りて来た。
闇色に沈んだガウンの色は影としか映らない。
だが炎の淡い明かりに照らされて、ガウンに縫いとめられた銀の糸が時折キラキラと光った。
彼は唇に薄く冷酷な微笑みをのせ、片手を上げて何事かを口内で唱えた。
掌の上にほの白い光が現れ、それがガウンを纏うその人の足元を照らす。
彼が立っているのは古く苔むして変色した石床の上で、床の半ばは欠け崩れて土が顔を出し、更にはその下に無数の古木の根が巨大な蜘蛛の巣のごとく這い広がって崩れた石を押し上げ、床一面にひどい凹凸を作り出していた。
古木の根はその一本一本が丸々として太く、何本もの根が重なり合う姿はまるきり巨大な蛇が絡まり合ってのたうつ様を思わせる。
彼は絡み合った根の上へ屈みこみ、何かを確かめてでもいるかのように指先でそれに触れた。
何度か別々の場所で同様の行為を繰り返した後、彼は中空に浮かぶ炎の元へ近づいた。
唇が描く笑みは、深くなっていた。
彼はガウンの懐へ手を入れて何かを取り出すと、再度今度は先程よりずっと長い言葉を密やかな声にのせて紡ぎ始めた。
一定のリズムと抑揚に乗った呪いの言の葉は、冷たく重い濃厚な闇の空気の中を泳ぐように滑り、辺りに満ちていく。
彼の手の中にある何かが、身震いしたかに見えた。
するとそれは次第にほの白く、やがて青白く輝き出し、ついにはそこに浮かぶ一点の炎と同じ青白い火の塊となって燃え上がった。
休みなく言の葉を紡ぎ出しながら、彼は炎に包まれたそれをふわりと掌から投げ上げた。
青白い火の塊は、あたかもそれ自身が意思ある生き物のごとく闇の中を舞い漂い、元からその場所へおさまることが決まってでもいたかのように、最初の一点と対を成す位置で動きを止めた。
もう一度、彼は懐から別のものを取り出し、同じ作業を繰り返した。
二つのあらたな炎を加え、今は三つの炎が暗黒の海に浮かんでいる。
もうあと一つがその中に加われば、炎は四つの点を結んだ正四角形となり、対を結んだ十字ともなる。
しかし、彼が更に懐へ手をしのばせることはなかった。
音もなく風もない闇に焔を瞬かせるそれらをしばし眺めた後、彼は現れた時と同様にゆるゆると空へ舞い上がった。
足元に見える炎へ最後の一瞥を投げて、彼の姿はそのまま中空でふつりと消える。
後には元の凍えるほどに冷たい暗黒と、三つの青白い炎が残るだけだった。


*** ***


帝都が次第に近づいてくると空は途端に重く垂れ込める曇天に変わり、微細な霧雨が全身を徐々に湿らせ始めた。
水気を嫌う性質ではないが、こんな風に身を凍らせる冷たさは苦手だ。
帝都へは何度もイライジャ師の密使として足を運んでいるけれども、悪天候に見舞われたことはあまりない。
今回はたまたま運が悪かったのか、それとも事の不穏さが天に反映しているのか、どちらなのだろう?とジオは漠然と思った。
もう間近に見えてきた帝都を覆うどこか澱んだ空気を、ジオの本能的な感覚が敏感に感じ取っている。
彼方に陰影を描く丘の上の宮殿を見ていると、首筋にピリピリと何かが走るような気がする。
それと同じ感覚を、彼は昨夜も体験していた。

学都を離れる前、ジオは宿場町の安宿酒場へ足を向けた。
密使に携わる際、彼は必ず一度その店へ立ち寄る。
しかし立ち寄りはしても、決して店内へは足を踏み入れない。
彼は酒を飲むためでも食事を摂るためでもなく、ただ店の傍にしばらくの間逗留し、そしてそれから任務に赴く。
会いたいと思うわけではない。
話したいと思うわけでもない。
自分はそういう相手として認められることはないだろうとわかっているから。
彼はただ、見ているだけで良かったのだ。
彼女の笑顔と明るい声と、おそらくは他の誰も見たことがないだろう、彼女の意外にも弱々しく脆い一面を。
彼女は確かに芯が強く、常に前向きでへこたれない愛情豊かな娘だ。
気も強く、性質の悪い酔客やガラの悪い大男とでも怯むことなく渡りあうだけの気概のあるはねっかえりだ。
けれど、そうであってもやはり彼女は女だ。
日々の営みの中で、強がりの過ぎる彼女が誰にも知られないように一人隠れて涙を堪えている姿を、ジオは何度か目にしているし、数日前にも彼女の密かな不安の滲む独り言を偶然耳にしたばかりだ。
時折彼女は彼がそこにいることに気付き、何気なく微笑みかけてくれたり言葉をかけてきたりしたが、大抵の場合ジオは逃げるようにその場を後にした。
彼女に自分の素性や正体を知られてはまずいし、今以上に自分の心が彼女から離れがたくなっては困るからだ。
今では彼女には想い合う仲の恋人がおり、その恋人は彼の同僚だった。
彼の目から見ても相手は申し分のない男で、彼の手にならば安心して彼女を任せることもできる。
自分の気持ちは彼女に伝わる事もなければ伝える気も毛頭ないのだから、ジオが望むのはただ彼女の幸せだけだった。

夜の暗さと大勢の客の影に上手く身を隠し、ジオは彼女の姿を窓越しに探した。
だが店内に彼女の姿はなく、店の外まわりの仕事をしている様子もない。
不審に思っていたところへ、繁華街を抜けてやってくる彼女ともう一人の少女の姿を見つけた。
少女の肩に手をまわし、迷い子を保護するように彼女は少女を導いて行く。
二人の姿を目にした時、ジオの首筋にピリリと電流のように何かが走った。
それが何を彼に伝えるものなのかは、わからない。
魔術騎士として長く魔術に携わっていても、自身の身体が本能に根ざすもので訴えてくる感覚は、理屈で説明のつくものではないのだ。
ジオは、彼女の手に守られた少女をじっと見つめた。
黒い艶やかな髪、大きな紫色の瞳、ほっそりとのびた手足。
背は彼女の胸より少し上あたりまである。
彼女は少女を連れて店の裏手に回り、暖かな笑みを浮かべて裏口の木戸から少女を店内へ投じ入れた。
その時偶然、視線を上げた彼女の眼がジオを捉えた。
あ、と彼女が唇を開きかけ、彼は即座にそこから離れた。

あの時、自分が感じたものは何だったのか。

“ロズ……”

一度も自分では呼んだ事のない名を、彼は心の中で呟いた。
帝都に降る雨は、近づけば近づくほどジオの想いの芯までを凍らせようとしているかのようだった。

[2010年 11月 13日]

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