Chapter.3-4

宵闇に輝きはじめた月が、冴え冴えとした青白い光を落とす。
高く真っ直ぐにそびえる城壁に沿ってしばらく馬を駆けさせ、コウは学都の裏門がある西南側へ向かった。
都を包囲する城壁は、巨大な石を薄紙一枚すら入らないほどぴったりと隙間なく積み重ねて築かれており、石の表面は綺麗に磨き上げられ、滑らかな手触りの面には手指のかかるような突起は微塵もない。
加えてその高さは魔術騎士団で最も背が高いと言われる巨漢の大隊長の四倍ほどはあろうから、この城壁をただ乗り越える事のできるような人間はまずいない。
その上、物理的にだけでなく城壁には魔術的にも防御が施されている。
よほどの者でない限り、門を通らずして都へ出入りできるのは、おそらく翼あるもの以外なかろう。
“白の街道”へ続く正面の大門とは違い、都の西南側にある裏門は非常に小さな城門だ。
大門に比べ極端にこじんまりとした作りの裏門は、番人が常駐する狭い門塔に挟まれた落とし格子の門で、馬に乗ったままでも通り抜けられるが、間口の天井がやや低い。
規模も造作も立派な大門の門塔は専属でその任に当っている魔術騎士団の一個中隊が交代で守っているが、同じように裏門の門塔の守番には魔術騎士団の下級騎士が3名ずつ交代制で昼夜詰めていて、門は都の中心部、最も賑わう繁華街界隈からはかなり離れた大学街の外れに位置している。
この裏門の存在を知っている人間は基本的に学都バルセナタンに定住している者以外にはあまりなく、通常わざわざここを利用するのは学都の役関係者か、もしくは何らかの形で魔術騎士団に所属している人間くらいだ。
従ってコウ達第17部隊の人間が可能な限り秘密裏に学都へ出入りする際には、大門ではなくこちらを利用するのが定石だった。

コウは格子門の前まで来ると馬を下り、塔の中から出てきた守番の騎士に古代語で騎士団の誓約の言葉を告げた。
それを聞くと守番は軽く頷き、続いてコウは左の掌を上に向けて短い呪文を唱えた。
彼の掌の上に、青い光の筋が浮かび上がり、小さな紋様を形作る。
守番は塔の中へ戻ると、落とし格子を上へ上げた。
太い金属の鎖が巻き取られていくカラカラという音が辺りに響く。
格子が開くと、コウは愛馬の手綱を引いて門をくぐった。
この夜の守番は運良く彼の馴染みであったから、特に余計な詮索をされることも無駄話をされることもなく、コウは城壁が作りだす影に溶けこむようにして城門を離れた。
“朱の都”として名高い帝都に対し、このバルセナタンは林立する象牙色の塔で有名だ。
この都ではあらゆる学問についての研究塔が存在し、それを専門とする学者集団の集う機関も整備されている。
各学問にはそれぞれに専属ギルドが設立されており、それを学ぶための大学組織もそれぞれのギルドの協定によって細かく規約が定められている。
学都内には各研究塔に所属する学徒が勉学のために通う大学棟がいくつもあるが、その全ての運営は各ギルドの選出者から成る協会が行っていて、所属に関わらず学びたい学問に規制はなく、学徒には勉学について相当の自由度が与えられていた。
コウ自身、学徒であった頃にはあれこれ興味のある分野の講義をかいつまんで受講した経験がある。
象牙色の塔、丸いドーム屋根と淡い灰色壁材が特徴の大学棟が立ち並ぶ路地を縫うように進み、コウは勝手知ったる学都の裏通りをいくつも抜けて、学徒の下宿屋街を目指した。

下宿屋街はまだ宵の口であるためか、人通りも多く賑わっていた。
大通り沿いに何軒も店を構えた下宿屋兼食堂や、夜間のみ路地に出ている屋台から、香ばしい匂いが漂ってくる。
学徒であることを示す様々な色あいのローブをはおった若者達が、路上に置かれた簡素なベンチや木椅子にかけて食事をとったり、酒を酌み交わしながら談笑している姿があちこちで見られた。
その通りを抜けてしまえば、あとは途端に人気のない寂しい一画に入る。
手綱を手繰って短く持ち、愛馬の脇にぴたりと寄り添って、その陰に隠れるようにコウは賑やかな大通りを通り過ぎて行った。
ようよう、目線の先に途端に灯りの寂しくなる境界が見えてきたところで、思いがけずコウは屋台のベンチの隅に腰掛けていた男に声をかけられた。
小さく舌打ちしてそちらへ眼を向けると、声をかけて寄こしたのは同じ17部隊に所属しているジオ・メディシスという男だった。
ジオは白髪に濃い赤紫の瞳を持つコウとはほぼ同い歳の青年で、コウに比べて極端に背が低く、見た目は随分と年若い少年のように見える。
口数の少ない寡黙な青年で、人付き合いの良い方ではなく、普段から用がなければ自ら騎士団の宿舎から外へはめったに出ない。
彼が外出するのは任務を遂行するための場合がほとんどで、個人の事情でという方が稀だ。
宿舎ではコウの隣室を使用しているのだが、その宿舎内ですらコウがジオの姿を目にすることはあまりない。
その彼がこんな場所にいるということは、すなわち彼が何か役目を帯びてそこにいるということか。
コウは僅かに眉を顰め、ジオに問うような眼差しを向けた。
寡黙な青年は小さく頷くと席を立ち、コウからかなり距離をとって同じ方へと歩き出す。
しばらく黙々と並んで歩き、下宿屋街の通りを外れる辺りまできてようやくジオは前を向いたまま静かに口を開いた。

「……イライジャ師はいま自宅を留守にされている」

コウもまた、ジオの方へ顔を向けないまま短くそれに答える。

「……そうか。では、お前はなぜここに?」

「…師の言伝をあんたに伝えるためだ。実は、帝都で少々…やっかいな事がおきた。そのために、師は緊急で魔術騎士団の指揮部に詰めている。あんたが学都へ戻ると連絡を受け取ったので、あんたに一旦騎士団の宿舎へ戻って沙汰を待つように伝えてくれと」

「帝都で……?一体何がおきたんだ?」

「…俺にも詳しい事はわからない。だが我魔術騎士団の幹部及び帝国専属魔術師が集う会合の場で、何かがあったようだ。指揮部では連日魔術師ギルドの幹部も交えて頻繁に会合がもたれている。あんたが師の極秘任務で学都を出た事は既に隊内でも周知になっているから、宿舎に戻る事自体は問題ないはずだ。だがあんたが戻った後、もし不用意にあんたに接触してくる人間がいたら、注意していてくれとのことだ」

「……イライジャ師への報告は…?」

「あんたが宿舎に入った後で、師から沙汰があるはずだ。…俺はそう聞いている」

「…わかった。ではこのまま宿舎へ戻ろう。……お前は…?」

「……俺はこれから…帝都へ向かう」

コウは、ピクリと片眉を上げ、視線だけをジオへ向けた。

「……イライジャ師の命か?」

その問いに、ジオは僅かに首を縦に動かした。

「あんたと入れ替わりだ。俺の不在は当分は伏せられる事になるだろうから、周りは上手くごまかしておいてくれ」

普段からどこにいるのか、いないのかもわからない男なだけに、その不在を取り繕ってやらなければならない状況に迫られる事があるとも思えなかったが、コウは了解の意味で頷いてみせた。

「…では…」

そう言葉少なに頭を下げると、ジオは歩いていた路地の次の交差路で左手へ折れ、灯火のない暗い細い脇道へ姿を消した。
コウはしばらくそのまま歩き続け、やがて輪郭の見えてきた恩師の家の手前で道をそれると、ぐるりと迂回して別の小路に入った。

“…帝都で……一体何があったんだ……?”

手綱を握り締める手に無意識に力が入る。
脳裏をよぎるのは、あの黒騎士の禍々しい姿だった。
あのような魔物が、もしや辺境だけでなく帝国の各所に姿を現してでもいるのだろうか?
ジオを帝都へ向かわせるという事は、事態は恩師がコウを送り出した時より深刻でかつ複雑なものになっているという事だろう。
彼は魔術騎士団の特殊任務を負う第17部隊の中でも、特に諜報活動に重用されている。
外見が歳相応に見えない事や、身体的な特性から身軽で動きも俊敏なジオは、それに非常に向いた人材だった上、本人もそれを自覚していて、自ら好んでその類の密命を受けていた。
イライジャが一体どのような使命をジオに課したのかはわからないが、宿舎に戻った後場合によっては再び彼にも新たな任務が課せられるかもしれない。
まるで何かを警告するかのように、予感めいた痛みがチリチリとコウの耳の後ろを刺した。


*** ***


ガヤガヤと、“賑やか”というより、リリスにとっては“騒がしい”とすら思えるほど多くの人の話し声が、低い天井に跳ね返り、重なり合って響いている。
旅の途中で立ち寄った宿場町の食堂とは比べ物にならないほど、この店の中は人でいっぱいだ。
奥行きこそあるものの、決してたっぷり余裕があるほどではない空間に、大勢の人間がひしめいている。
彼らの半分以上は騎馬隊の隊員や魔術騎士団の騎士で、その他の客も半分以上は男ばかりだ。
女性客はいないわけではないけれど、やはりある程度年齢のいっている、男あしらいにも慣れた類の者がほとんどで、年若い娘の姿は見られない。
安宿を兼ねた居酒屋で、しかも“器量よしできっぷもいい”と評判の看板娘が出迎えてくれ、とどめに料理の味もいいとなれば男客が集まらないはずがない。
三月ほど前に起きた喧嘩騒動の一件も、この界隈では逆に良い宣伝になったくらいだ。
あの騒動の当事者は(コウを除いて)さすがに再び足を運ぶ事もなかったが、尾ひれのついた噂を耳にしてわざわざ騒ぎの原因になった看板娘をひと目見にやってくる客も少なくない。
そういった客はやはりロザリンに給仕をしてもらいたがったから、店にあふれるほど人が入っている時には、彼女はそれこそ目が回るほど忙しく飛び回らなければならなかった。
くるくると目まぐるしく表情を変えながら、笑顔で客の注文に応じる彼女の姿を、リリスは店内カウンターの内側から追いかけるようにじっと見ていた。

コウを見送った後、彼とは反対の方向へに城壁に沿って歩き、ロザリンと共に大門から学都へ入ったリリスは、まずその大門の大きさと立派さに目を見張った。
初めて見る巨大な学問都市の城門は、かつては公国を治める王の居城を守っていたものだけに、門塔には数多くの戦闘の傷跡や有事の際の名残が残されていて、古えの歴史と風格・威厳を感じさせる重厚な空気を漂わせていた。
門塔の壁材に使われている灰茶色の巨石の表面には、一つ一つに小さな古代語の文字が刻み付けられており、それが大門全体を守る魔術法陣にもなっているのだと、頭上高くに見える石門の下をくぐる時ロザリンがそれを指して教えてくれた。
門をくぐった後も、リリスの目に映るものは何もかもが驚きと感嘆の連続だった。
それまで歩いてきた“白の街道”の倍以上もある広い大通りには両側に多種多様な品を扱う商店が立ち並び、様々な格好をした人間が大勢行き交っていた。
馬や馬車、その他リリスの見たことも無いような乗り物に乗っていたり、不思議なものを手にしている人もたくさん見かけ、その度に彼女はロザリンの腕を引いてあれはなに?だの、どうやって使うの?だの、思い立つことを次々に訊ねては、一つ一つを丁寧に教えてくれる彼女の答えにいちいち大きく頷いたり唸ったりしていた。
ロザリンは、きっとコウも旅の間彼女に同じように質問攻めにされていたに違いないと一人苦笑していたが、そんな少女の面倒を嫌がりもせずみていたのだろう恋人の優しさを思うと自然心が温まり、嬉しくもなった。
リリスはとても素直で、心根の綺麗ないい娘だ。
少女と接するうちに、コウに託されたという理由からだけでなく、彼女を守り、力になってやらなければという使命感や保護意識がロザリンの中で次第に大きくなっていった。

自宅に隣接する店に到着すると、すでに店内には多くの客が訪れていたが、ロザリンはまず少女を一番綺麗で居心地のいい部屋に案内し、旅装を解かせた。
すぐに熱い湯を使えるよう支度をし、食堂兼居酒屋の店舗を手伝ってくれている給仕人にあれこれと少女の好みそうな食事の準備を頼んでおいてから、眠くなったらすぐに横になれるようベッドもふかふかに整えてくれた。
元来活発な性質の彼女は、そのように立ち働くことでかえって生き生きとするものらしく、にこにこと向けられた当人が思わず赤面してしまうような屈託のない綺麗な笑顔で何から何までリリスの世話を焼いてくれた。
店と部屋を何度も往復し、ロザリンはリリスの背中を流して全身に良い香りの香油をすりこんだり、髪を洗って櫛をあて、女の子らしい可愛らしい髪型に整えてくれたり、どこからか自分の少女時代に着ていた服を探し出してきてはあれこれ鏡の前で合わせてみたりして彼女を見違えるように魅力的な女の子に仕立て上げてから、すっかり食事の準備が整った店のカウンターへと連れてきたのだ。
カウンターの隅にちょこんと座った少女を目にすると、ほろ酔い加減の店内の常連客からは興味津々の歓声があがったが、「この子は私の大事なお客様ですから!お酌もお話しのお相手も、絶対にさせませんからね!」とロザリンが両手を腰にあてて断言すると、口々にわかったわかったと笑いながら頷いた。
もちろん、その代わりに彼女があれこれ相手をさせられることにはなるのだが、そこは手馴れたもので、ロザリンは給仕や会計等、仕事をしながらそれも難なくこなしてしまっていた。
彼女は、例えるなら心地よく暖かな陽だまりのような人だ。
リリスは彼女の眩しいような笑顔を見つめながら、そう思っていた。

「どうだね?食事は口にあっとるかね?」

クリームのようにきめ細かな泡が零れるほど並々と麦酒を注いだゴブレットを給仕の少年に手渡しながら、カウンターの内側で忙しく調理に当たっているロザリンの父親が心配そうに少女に声をかけた。
背の高いがっしりとした木のスツールに座り、両足をぶらぶらさせていたリリスは、はっと我に返って声の主の方へ顔を向け、大きく何度も頷いた。
あまりにぼうっとロザリンの姿を目で追っていたので、どうやら料理を口へ運ぶ手が止まってしまっていたらしい。

「はい!!とってもおいしいです!!」

そう言って、リリスは目の前に並んだ料理に意識を集中させた。
まだ湯気のたっているスープは大きめに切った野菜がゴロゴロ入っていて、長時間煮込まれているのだろう、スープの味がしっかりと染みている。
香ばしい焦げ目をつけて焼いてある肉には、やや酸味のある果実を元にしたソースがたっぷりかかっていて肉のうまみを引き立てていいたし、木の実がふんだんに練りこまれた焼きたてのパンはふわふわで柔らかく、いくらでも食べられそうだった。
料理を口に運ぶ度、とても幸せそうに頬を緩ませるリリスを見てほっと安心したのか、ロザリンの父は客の注文を受けて作ったばかりの、油で揚げた木の実に塩をふった物をまた少し分けてよこしてくれた。

「コレも、うまいよ。うちの人気の品だ」

「わぁ…!おいしそう…!!」

小皿に入ったそれを受け取るとリリスは早速ひとつを口へ放り込んだが、さすがに今揚げたばかりのそれは一口にするには熱すぎた。
声も出せずに目を白黒させた少女に、給仕係の少年が大笑いしつつ水を差し出してくれる。
何とかそれで口内のやけどを免れたリリスは、けほけほ咳きこんでトントンと胸を叩いた。
そこでふと眼を向けたカウンターの隅に、こちら向きに一枚の小さな絵が飾られている事に気付いた。
店の方ではなくカウンターの中に向けて飾られているということは、客に見せるためではなく厨房の内にいる人間が見るために飾ってあるのだろう。
しかも大切にされていることを示すように額にはチリひとつ積もっておらず、額が立てかけられている一角には小ぶりな花瓶に活けられた花も共に飾られていた。
リリスは手に持っていた水をカウンターに置くと、スツールの上で身体の向きを変え、その絵にじっと眼を注いだ。
そこには三人の女性の姿が描かれていた。
真ん中に椅子に腰掛けた優しげな面差しのふくよかな女性が、その両側に彼女を挟みこむようにして二人のほっそりとした女性が描かれている。
二人の若い女性は、髪型や着ているものが少しだけ違っている以外は、顔だちも背格好も何もかもが瓜二つだ。
再び料理を運ぶ手を止めて絵に見入っているリリスに気付き、ロザリンの父が眼を細めた。

「ああ、それは死んだ女房と娘たちだよ。左側がロズだ」

確かに、真ん中の女性の左側に立っているのはロザリンに違いない。
生き生きとした瞳、溌剌とした明るい笑みを浮かべ僅かに小首を傾げた彼女の姿がそっくりそのまま絵の中にある。
ではその対に立っているのは…

「右側は、ロズの双子の姉で、ジリアンというんだ。今は帝都で宮廷図書資料館の司書長として働いとる…。めったにここへは帰っては来んが、ロズとは仲が良くてなぁ…。よく手紙をやりとりしとるよ」

リリスの表情から彼女の考えていることがすぐにわかったのだろう、彼はもう一人のロザリンに瓜二つの女性を指してそう説明してくれた。
ロザリンと同じ顔だち、同じ髪、同じ眼の色のその人は、ロザリンよりもいくぶん穏やかで大人びた雰囲気を漂わせているが、やはり明るい笑顔が人の目を惹きつける。
もしも彼女達が二人が揃って店に立っていたら、今の倍以上は客足を見込めたことだろう。
更によくよく絵の中の二人を見つめているうちに、彼女たちの胸元を飾るペンダントに眼が留まる。
絵の中に描かれている二人はそれぞれ別の服を身につけていて、それが二人の持つ各々の雰囲気をよく表していたのだが、顔かたちや髪、眼の色以外に絵の中で唯一共通しているのがそれだった。
それを、リリスは見た事がある。

「このペンダント…」

リリスが呟くように口にしたのを、二人の娘の父親はしっかり耳に捕らえていた。
ひょいと手を伸ばして額を掴み、眉を寄せて絵を見ると、「ああ」と口元を綻ばせて頷いた。

「それは、この子等が生まれたときに偉い魔術師の先生にいただいたもんだ。この子等の名付け親になってくれたお人でな、お守り…というか、“護符”なんだそうだ。何でも名付けの時に占ってくださった結果が、どうも不吉だったっていうんで…名前と一緒に、二人にくださったんだよ。それ以来、ずっとあの子達はそれを肌身離さず持っているはずだ」

「護符……」

彼がそこまで話してくれた辺りで、新たな注文が給仕の少年から大声で告げられた。
ロザリンの父は威勢のいい返事を返すと手にしていた絵を元の場所へ戻し、調理台の方へ戻って行く。
リリスは花の隣に戻された絵に再び視線を向けた。
ロザリンとジリアン、二人の胸元を飾る同じ護符のペンダント。
それと全く同じものを、リリスはコウが身に付けていたのを知っていた。
彼が何事か物思いに沈んでいたり、考え事をしているような時には、いつも必ずそれを手にする姿を彼女は何度も見ている。
あれはきっと、ロザリンのものなのだ。
コウがこの都を旅立つ時に、ロザリンが彼の旅の無事を祈って持たせたのに違いない。
それを思うと、リリスの胸は途端に重くなり、自分でもどうにも上手く振り払えないもやもやとした感情が湧きあがってきて、彼女は見つめていた絵から無理矢理に眼を逸らした。
一体自分はどうしてしまったんだろう?
リリスは一人心の中で自問した。
この旅に出てから、彼女は目まぐるしい早さで外界の様々なものを見聞きし、それが生み出す知識や感情を身内に吸収していた。
それは総体的に見れば喜ばしい事で、彼女にとっては長らく望んでもいた事であったけれども、同時にそれが自分の中で今まではほとんど認識した事のない暗い負の感情をも共に引きずり出すことになるとは、思ってもみなかった。
彼女自身は、自分が今抱いている想いや感情が一体何なのか、はっきりとはわかっていない。
しかし、それがあまり歓迎できる類のものではない事くらいは理解できる。
要するに、ありていに言ってしまえばリリスはコウに対して生まれて初めての淡い恋心を抱いてしまっており、彼に大切な恋人が存在している事、それが彼女の眼から見ても非常に魅力的で好感の持てるロザリンであるという事に、嫉妬心や羨望が募ってしまっているという至極簡単な状況なわけだが、どれひとつとしてそれまでの彼女には縁のなかった事態だけに、リリスは自分の感情の波に戸惑うばかりだ。
胸の内をジリジリと焦がすような息苦しい想いを、リリスはただ押さえつけるように心の隅に押しやって、見ないフリをするしかなかった。


*** ***


周囲は闇に包まれていた。
自分が眼を開いているのか閉じているのかもわからないけれど、どちらであろうとも闇の中には何一つ眼に見えるものはない。
無音の静寂と冷たい闇だけが、彼を取り巻く全てだった。
彼自身は自分の身体が火のように熱を持ち、血が煮えるほどに熱くなっているのを感じているのに、自分を包み込む闇が凍えるほどの冷気を放っている事を知っていた。
息苦しく、熱のために乾ききった喉が水を求めてヒリヒリと痛むのを、長い間彼は我慢していた。

時折、声が聞こえる気がした。
柔らかな明け方の光のような優しい声は、熱に苦しむ彼を違うぬくもりで癒した。
力強い西風のように吹きつける心地よい声は、その荒々しさで彼の身体から熱を払った。
それでも彼の身を焼く熱は、熾火のように身内の奥にくすぶり、何度でも再燃をくりかえす。
もう限界だ。
耐えられない。
そう思った時、ふと彼を包む闇が変化を見せた気がした。

小さな光の点が、闇の彼方に見える。
見えるという事は、自分は眼を開けているのだろうか?
ともかく、見えたと思ったその光点を彼は凝視した。
光は闇の中でほんのりと薄紅色に輝き、瞬いている。
やがて見ているうちにその光は徐々に薄紅色から紅色へ、そしてどんどんその色を濃くしていき、最後には血のような緋色になった。
それにつれて、一点の光だったその緋は細く縦に亀裂のようにのびていき、闇の中に緋色に光る裂け目が浮かび上がった。
燃えるように熱い身体の背筋に、ぞっと凍てつく寒気が走った。

“見たらダメだ”

本能的に、彼は自分自身にそう叫んでいた。
だがそれとは逆に、頭の片隅にそれを“見ろ”と命じる声も響いている。
その二つはどちらもが自分自身の発する意思であり、警告でもあった。
共に己のものである相反する命のどちらに従うべきなのか、彼にはわからない。
ただ、今その光を“見て”しまったら、もう後戻りはできないと彼は何故か知っていた。
それが僅かに彼の意識を先に叫んだ本能に従わせた。

“消えろ!!”

どうしたらそれを見ないですむのかわからずに、彼はありったけの力を振り絞って叫んだ。
その瞬間、遠くで笑い声がした。
そして、彼は眼を開けた。

最初に目に入ってきたのは、クリーム色の石に細かな彫刻の施された天井だった。
アーチ型に組まれた木枠に支えられ綺麗に並べてはられた薄い石版の天井は、窓から入る鈍い光でその彫刻の陰影を淡く映し出している。
何度も瞬きをしてから、ゆっくりと首をめぐらせてみる。
そののろのろとした動きで、額の上に乗せられていた手ぬぐいがパサリと落ちた。
薄いレースのカーテンが半分だけ開かれたアーチ型の窓。
窓枠には花の形を模ったランプが吊り下げられており、ほのかに薄荷の香りのする香油が炙られていた。
壁にはいくつかの上品なタペストリーが飾られ、視界に入れられる限りの範囲には本が山積になった棚がいくつか並んでいて、そのうちの一つに花が飾られていた。
とっさに、自分がどこにいて一体どうしてそんなことになっているのか理解できず、それでもそこが上司であるジリアンの寝室であることを瞬時に悟って、セシアスは思わず跳ね起きた。
起きた、と思った。
しかし、少年の身体はほんの少し上掛けの下で浮き上がっただけで、まるで身動きできないも同然に再び寝具の上に沈みこんだ。
自分の身体が自分のものではないかのように、重く、力が入らない。
気付けば彼は口を開け、大きく肩を震わせて呼吸を整えていた。

「ああ、セシアス!!」

懐かしいとすら思う声が、彼の名を呼んだ。
くらくらする頭で、それでも何とか顔を上げると、部屋の入口に水をはった浅いボウルと替えの手ぬぐいを手にしたジリアンの姿が見えた。
少年は驚いた顔の彼女に、力なく微笑んだ。
ジリアンは急いでベッドへ駆け寄ると、不用意に身体を起こしかけていた少年を支え、再びきちんとした姿勢で横たえて枕の下に落ちた手ぬぐいを拾った。
それと交換に、新たな冷たい水に濡らしたものでセシアスの顔周りを拭ってやる。
心底ほっとしたようにジリアンは長い溜息を吐いた。

「……よかった……!!やっと熱が下がってきたようだったから、峠は越えたかと思ってはいたけど……。本当に目を覚ましてくれるかと…心配したわ」

「…僕は…一体…?」

セシアスは眉を顰め、そう呟くのが精一杯だった。
長い間高熱に苦しめられ臥せっていたせいで、喉がカラカラに渇いていてまともに声が出ない。
ジリアンは苦笑しながら首を振って少年に喋らないよう促した。

「あなたも私も…オスカー様が無事に助けてくださって、ここまでちゃんと送り届けてくださったわ。ただ、その後あなたはひどい熱を出して……ずっと意識を失ったまま眠り続けていたの。もう10日目になるかしら…?どうしてこんなことになったのかはわからないけれど……。でもとにかく、意識が戻って良かった…。オスカー様も本当に心配なさってて…。ああ、でもまずは何か飲み物でも用意しましょうね。何しろ飲まず食わずでずっと眠っていたんですもの。お互い、訊きたい事も話したいことも色々とあると思うけど、ともかくは先に…あなたの身体を元に戻さなきゃ…」

そう言って、ジリアンはセシアスに大人しく横になったまま待っているようにと念を押し、部屋を出て行った。
残されたセシアスは長々と深い溜息を吐き、上司に言われた通り大人しく上を向いたまま天井を眺めた。
一体、自分はどうしてそんなに長い間眠り続けていたというのだろう?
しかも、高熱を出して?
彼が覚えているあの時の最後の記憶は、ヘルメスの館の上空に浮かんだ黒い霧の塊だった。
稲妻に照らし出され、それが一瞬見せた影の形。
あれは、まるで“竜”のように見えた。
その後の事は、つい先ほど目を覚ます直前まで一切記憶になかった。
あの、夢の中の不気味な緋い光の他は。
あの夢は、一体何だったのだろう?
目覚めると同時に彼が聞いた笑い声は、何だかどこかで聞いた事があるようにも思えた。
けれど、そうだとしたら一体どこで?

天井の石の彫刻をひとつひとつ目で追いながら、セシアスがぼんやり考えていると、部屋の向こうで聞きなれた騒がしい声がした。
よく通る、大きな声だ。
声の主がドカドカと派手な足音を響かせてこちらへやってくるのを察知して、セシアスはまたひとつ大きく溜息を吐いた。

[2010年 XX月 XX日]

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