Chapter.3-3

帝都の空は重苦しい灰色の雲に覆われていた。
上空一面に広がった雲はこの時季の帝都には珍しい長雨を降らせ、これでもう七日近く、か細く弱い霧雨が煙るように都市を包み込んでいる。
石畳も、帝都の名物である朱色の屋根も、全てが濡れて鈍く光り、陽の差さぬ薄暗い路上を陰気くさく彩っていた。
天の顔色を映すように、帝都の空気もどことなくうち沈み澱んでいる。
ジリアンは、閉めきった窓のガラスに張り付いた微細な水滴が滲ませる、煙った空に眼をやった。
自室の書見台には通常と変わらず大量の書物や書類が積み上げられているのに、どうしても作業に集中することができない。
ヘルメス邸での出来事以来、彼女の頭からはあの時の禍々しい黒雲と轟音が離れなかった。
思い出すだけで、無意識に身体が小さく震える。

あれから、どうやってあの場を逃れることができたのか。
気づいた時、ジリアンはオスカーの腕にしっかりと抱えられ、馬の背に乗っていた。
ミスチフの馬にはセシアスが彼に抱えられて乗せられており、カイヤはかろうじてセシアスの乗ってきた馬の手綱を引きながら自らの馬を駆っていた。
まだ若いとはいえ、さすがはオスカーの部下だけのことはあり、衝撃から立ち直るのは上官達と同じ程度には早かったらしい。
ミスチフの腕に抱えられたセシアスはぐったりと力が抜けていて、馬の駆けるリズムに合わせて項垂れた頭がぐらぐらと揺れ、一目でまだ意識を失ったままだとわかった。
腕の中で僅かに身じろぎしたことで意識が戻ったと知ると、オスカーは彼女を抱えていた腕の力をほんの少し緩めた。

「気がつかれましたか?」

彼女の身体が疾走する馬からずり落ちないよう、オスカーは細心の注意を払ってがっしりと抱え込んでいたので、彼らの身体はずいぶんと密着していた。
耳のすぐ後ろで囁かれる声に心臓が跳ね、緊張で身体が強張る。
内心少しばかりうろたえているのを誤魔化すように、ジリアンはあまり顔を動かさずに短く問うた。

「すみません…動転してしまって……一体何が…?」

「わかりません」

彼女を支え、真っ直ぐに前方へ顔を向けたままオスカーは答えた。

「私にも……あれが一体何だったのかは……。ですが、ともかくあなたと…セシアスをあの場から離さないと、と思ったので」

「だい…じょうぶなんでしょうか?ウィン様はあの場に留まらなくても…?」

心配そうに訊ねるジリアンに、オスカーは軽く皮肉めいた笑いを漏らした。

「あそこには帝国と学都スカラビア公国が誇る魔術騎士団のお歴々が揃っているんですよ?おまけに、帝国専属魔術師団まで全員。たかだか傭兵一人に何かを期待しちゃおらんでしょう。それにあんなわけのわからないもの、それこそ魔術師ででもなければ扱えない。我々の出る幕じゃありません」

そう言われて、ジリアンは素直に頷いた。
確かに、オスカーの言う通り、あの屋敷には魔術騎士団の上層部が集結していたのだし、帝国専属魔術師も全員揃い踏みしていたはずだ。
あのような常ならぬ怪異な事態の収拾は、まさに彼らの得意とするところだろう。
とはいえ、あの屋敷には彼女と変わらないごく普通の人々も多く滞在していたはずだ。
ミリア。
あの、物怖じしない澄んだ瞳の少女はどうしただろう?
もちろん、あの部屋には父親が一緒にいたのだから無事であるには違いないだろうが。

「それに、場所が場所です。あのヘルメス・フラメールの館ですよ?あのお方が、ただ黙って他人に事を委ねるわけがない。おそらくご自身でどうにか事態を落ち着けようとしているでしょう」

違いない。
あの虚栄心の強い魔術師が、自身の館で起こった得体の知れない事象を黙って捨て置くはずはない。
ジリアンはほうっと息を吐き出して、強張らせていた体から力を抜いた。

「あれが一体何だったのかはわかりませんが……」

自ら揺られる馬の振動に対しバランスをとりはじめたジリアンを支える腕を更に緩めて、オスカーは言った。

「いずれにせよ……帝都には遠からず…一波乱ありそうな気がします……。あれは…何というか……」

オスカーが口にせず飲み込んだ言葉は、ジリアンにも何となくわかるような気がした。

“よからぬものに違いない”

彼女自身も、胸の内でそう思っていた。
その後は互いに一言も口を開くことはなく、一行はまっしぐらに図書資料館を目指した。
ジリアンとセシアスを無事に図書資料館の中まで送り届けると、オスカーの指示でミスチフはカイヤを伴って念のため医術師を呼びに走った。
図書資料館にたどり着いた時、まだ意識を無くしたままのセシアスの身体はひどく熱を持っていたのだ。
セシアスはきつく眼を閉じたまま青白く血の気が失せた顔を苦し気に歪め、全身が滲み出る汗で湿っていた。
ジリアンは少年を彼の自室ではなく、彼女の居室へ運ぶようオスカーに頼み、自分のベッドをセシアスのために明渡した。
医術師が到着すると、一通りの診察の後解熱のための煎じ薬がいくつか処方され、当分様子をみながら安静にさせるようにと言われたものの、突然の発熱の明確な原因はまるでわからなかった。
以来、少年の熱はまだ下がらぬまま、時折ぼんやりと眼を開けることもあるがすぐにまた瞼を下ろしてしまい、ジリアンの寝台で横になったまま眠り続けている。
セシアスの手がない分、ジリアンの仕事の進度は必然的にはかばかしくない。

あの夜のヘルメス邸での出来事は、もちろん瞬く間に帝都中に広まっていた。
宮廷の最も外れに位置しているとはいえ、ヘルメス邸で起きた異変は当然ながら宮殿からも帝都の市街地からも視覚することが出来たのだ。
天空に伸びた竜巻のような黒い柱と、雷鳴、そして不気味な稲光。
その後のオスカーの話によれば、あの夜にまつわる出来事は事後処理に関する事も含め全て公には伏せられており、館に居合わせた魔術騎士団や帝国専属魔術師はもとより、サロンに招かれていた家族・親族の間には厳重に緘口令が敷かれているという。
不用意な言動や情報の漏洩は徹底的に処罰の対象とされているらしい。
ジリアンのもとへも、政務大臣の名で正式にその旨を記した書状が届けられており、オスカーのその話を裏付けていた。
だが、市井にはあらゆる類の噂が流れているにも関わらず、それを取り締まるような動きは宮廷には見られない。
種々の噂を流布されるままに放置することで、逆に何が本当なのかを見分けられなくするためにあえてそうしている、あるいは捏造した噂そのものをいくつか流してさえいるかもしれない、というのがオスカーの一つの見解でもあったが、いずれにせよ正しく真実を知っている人間は、実のところヘルメス・フラメールただ一人なのではなかろうか、とジリアンは考えていた。
あの完全・完璧主義な自信家の魔術師が、自らの屋敷を突然襲ったあのような怪異の真相を知らずに済ませることなど、あり得ない。
オスカーも彼女のその意見を否定はしなかった。
とはいえ、全ての答えは薮の中だ。

ジリアンは溜息を吐くと音を立てないように椅子を引き、机の前を離れてセシアスの様子を見に行った。
少年は、ようやく昨晩から少し熱も下がりかけているようで、苦し気だった呼吸は安定し、顔色も落ち着いてきていた。
だが、ずっと床についたまま眠りっぱなしなので、意識が戻った後も体力を回復するのに少し時間がかかるかもしれない。
医術師には度々様子を診てもらっており、栄養剤のようなものも投与されてはいるようなのだが、身体の肉体的な組織が弱るのは防ぎようがない。
冷たい水に浸して絞った布で額と頬をぬぐってやると、眠っている少年の喉がひくりと上下した。
その時、扉を叩く音がして、ジリアンは手ぬぐいを手にしたままそちらへ向かった。

「はい?どなた?」

戸を開ける前に誰何の声をかけると、既に耳慣れた男の声がそれに答えた。

「オスカー・ウィンです」

ジリアンが静かに扉を開けると、声の主はにこやかに微笑んで彼女を見下ろした。

「すみません、お仕事中でしたか?」

「いえ、大丈夫です。今ちょうど一休みしようかと思っていたところですわ。どうぞ」

ジリアンも、穏やかな笑みでそれに応え、背の高い赤毛の傭兵を室内へ招き入れた。
あれ以来、オスカーはほぼ毎日のようにセシアスの様子を見に立ち寄っている。
やはり、理由のわからない高熱がずっと続いていることが心配なのだろう。

「…セシアスは…どんな様子です?」

「…昨夜から、少し熱が下がりはじめているようです。顔色も少し戻ってきているように見えますし、呼吸が安定してきましたから」

ジリアンの言葉に耳を傾けながら、オスカーは静かにベッド脇へ近寄る。
昨日までに比べて比較的穏やかに上下している胸元を見て、オスカーはほうっと安堵の息を吐き出した。

「…やれやれ……まったく……心配させやがる…」

呟いたオスカーの声音には、苦笑の中にも深い愛情が垣間見え、ジリアンは思わず浮かべた笑みを深くした。

「…しかし、よくこれだけ寝たままでいられるもんだ……。俺ならとっくに飽き飽きしてベットから逃げ出してる」

オスカーがふざけてそう言うと、ジリアンはクスリと吹き出した。

「……お茶を淹れましょう。ウィン様、こちらへどうぞ」

ジリアンはオスカーを促して寝室を離れ、居室の長椅子を勧めた。
オスカーは言われるままに腰を下ろし、うんと伸びをする。
ジリアンは二人分のお茶の準備を整えながら、ここ数日と同じように外の様子を訊ねた。

「…街はどんな様子です?」

「…特には変わりませんね…。相変わらず噂話はそこここで飛び交っていますが、どれも当事者としちゃ首をひねりたくなるようなものばかりですよ。傭兵宿舎でも同じです。騎馬隊や魔術騎士団の方の情報も特別何か流れてきてるわけじゃないですし…」

「…そうですか……」

「ああ、でも…今日はヘルメス・フラメール師のその後の動きが少し…ありましたね」

オスカーが思い出したように言うと、ジリアンの手の動きが一瞬止まる。

「どうやら、館の被害は我々が想像していたよりは大きくなかったらしい。魔術騎士団長と専属魔術師の連中が皇帝陛下の御前で報告した内容によると、フラメール師の屋敷の庭にあったあのユーツリーが全ての事の元凶とされていたようです。あの木の謂れ…というかあれに纏わる話をアナ殿はご存知ですか?」

「……いいえ、それほど詳しくは…。ただ、フラメール様が帝国専属魔術師になられる前に、とても力の強かった専属魔術師の方の住いだったとは…聞いていますが」

「そう。その前の住人だった魔術師が、置き土産にあの二本のユーツリーを残していった…と言われています。フラメール師によれば、実はあの二本の木は非常に邪悪な…禁忌とされる闇の魔術に犯された木で、先代魔術師が帝都に災いをもたらす為に呪いをかけて残したものだと…。彼がわざわざあのユーツリーを受け継ぐ形であの邸宅を建てたのは、その負の魔術から帝都を守る為だった…というのですよ。しかしながら、自身の力が及びきらず、一瞬の油断があれを引き起こしてしまった…と。幸いにも大事に至らずに沈静化できたので、今後はあのようなことにならないよう、もっと厳重に管理するようにすると…フラメール師ご自身で皇帝陛下に誓約をされたとか…」

「……あの木が……」

ジリアンは、自分がヘルメスの館に到着した時のことを思い出した。
象牙色の壁を駆け上る金色の光。
高い位置にある枝の先にただよう、微かな黒い霧のようなもの。
淹れたばかりのお茶をオスカーに差し出す手が、一瞬震える。
熱い茶が零れてその手にかからないよう、オスカーは急いでそれを受け取ると、彼女を安心させるようにその手を軽く撫でた。

「この話のどこまでが真実なのかは…わかりませんが、とにかくこれで一旦はフラメール師も格好がつくでしょう。館の方は物的な被害はほとんどなかったようですし、既にあの木の邪気は浄化したとフラメール師は報告しているそうですから…」

そう言うと、オスカーは受け取ったカップから良い香りの立つお茶を一口飲んだ。

「…その呪いと……」

躊躇いがちに、ジリアンが呟く。

「セシアスの…発熱は……まさか何か関わりがあるのでしょうか…?」

オスカーはカップの縁に口をつけたまま、眉を顰めた。
確かに、その可能性は考えられなくはない。
セシアスは、オスカーが中庭からほうほうの体で邸内へ転がり込んで来た時、思いもかけない場所から現れた。
行方をくらましている間に少年がどこで何をしていたのか、まだ彼らは確かめられてもいない。

「……何とも言えませんが……とにかく…全てはセシアスが目を覚ましてからですね…。アイツは…まだ我々の知らない事実を知っているかもしれません。邸内を一人でほっつき歩いている間に、もしかしたら真相に近い何かを目撃しているかもしれない。ただ、それをフラメール師に感づかれていないかどうか…そこも気がかりですがね…」

二人の間に沈黙が落ちる。
自然、彼らの視線はセシアスが眠る奥の小部屋の戸へと向かう。
少年が目を覚ました後、彼らは何事もなかったかのように元通りの日々に戻れるのだろうか?
ジリアンの胸には、それを願う気持ちと共に、それがおそらく叶うことはないだろうという本能的な直感が、どうにも拭いきれない染みとなって少しずつ広がりはじめていた。


*** ***


どこまでもずっと、果てしなく続いているように思える平原に、今にも夕陽が沈もうとしている。
岩山の向こうの渓谷にではなく広々とした草原の大地に落ちる夕陽は、限りなく開けた空一面を紫がかった朱色に染め、輝き出した小さな星々を少しずつ浮かび上がらせる。
その空の広さと目に映る繊細な色の美しさに魅せられて、リリスは真上に上げたままの顔をなかなか戻す事ができなかった。
その様子を少し離れたところで見守りながら、コウは少女とは反対の方へ顔を向けていた。
学都バルセナタン。
もうすぐそこにそびえ立つ都は、長らくそこを離れていたコウに帰郷の実感と感慨をもたらした。
いくつもの塔が空に向かって林立し、そこここに丸いドーム型の屋根を冠する古い装飾を施された大学棟の影が重なって独特の景観を作り出す学問都市は、夕暮れの中でいかにも幻想的に見える。
高い城壁にぐるりと都の周囲を囲まれたこの都市は、自治権を認められたスカラビア公国の領内にはあるものの、今では事実上ロムネル帝国の頭脳とも呼べる都だ。
かつてスカラビアが属領でなく独立した国家であった頃には、君主であるスカラビア公の居城もここにあり、政務と学術が共に都を富ませていた。
公国が帝国の下に置かれ属領となってなお独自の自治権を認められているのは、ひとえにこの都の学問都市としての存在意義と価値、功績が帝国にとっても無視できないほど大きなものであったからだろう。
現在はスカラビア公の居城は別の都へ移され、旧スカラビア公の居城には学都に本拠地を置く魔術騎士団の本部や帝国軍の駐留部隊が置かれているが、それ以外は古えからの機能も佇まいも全て少しも変えることなくこの都は歴史を重ねている。

いくらか前、コウは都の陰影が遠目にも見えるようになって来ると、学都への入口である大門へ向かう“白の街道”から外れ、原野に入り込んだ。
時折低い潅木の繁みやゴロゴロと石の転がる下草の上を通り抜け、学都を取り囲む城壁に沿って大門よりも西南の方角へと回り込んだのだ。
しばらく進むと草地の先に小さな池がいくつも点在する場所へ辿り着き、その池の一つのほとりでコウは歩みを止めた。
そろそろ陽は傾き、空から西の地平線へゆっくりと下ろうとしているところだった。
池のほとりには元は住いであったのかもしれない素朴な石造りの家が崩れて廃墟となった跡があり、その裏手の小丘に大きな一本のエルム(楡)の木が青々と葉をつけた枝を伸ばしていた。

「ここで、少し待つ」

コウは、そう言って愛馬に水を飲ませ、好きなように辺りの草を食ませてやった。
リリスは冷たく澄んだ池の水に足を浸したり、コウの馬の毛の手入れをしてやったりしながら、目前に見えるバルセナタンの城壁を眺めては無意識のうちに何度も溜息を吐いていた。
想像以上に巨大な都市の景観を目の当たりにして、おそらく少女の胸の内は不安と期待、そしてその他の様々な感情が一杯になって溢れそうなのだろう。
あえて声をかけることをせず彼女のしたいように過ごさせておきながら、コウは小丘の木の根元に腰を下ろした。
あとは、完全に太陽が沈んでしまうまで、ここでじっと待つだけだったのだ。

あまりに長い間首を上に向けていたので、顔を下ろすと後ろ首の付け根が僅かに痛む。
夕陽がすっかり地平線の向こうに沈んでしまうと、リリスは見上げていた空からようやく視線を戻し、ふるふると首を振った。

「…満足したか?」

苦笑を漏らしつつ、コウがリリスに声をかけた。
少女はバツが悪そうに笑うと、「うん」と頷き、エルムの木の幹に背をもたせかけて座るコウのもとへ歩み寄る。

「こんなに開けた空は…見たことないから。同じ夕焼け空でも、山で見るのとじゃ全然違うのね…。けど、星は…ここより家の中庭で見る方が、もっと近くに見えるわ」

「それはそうだろう。実際、ここよりも君の住いのあった場所の方が天に近い。ここは学都の明かりで夜空も照らされるからね。明るい空では星はあまりよく見えない」

言いながらコウも目線だけで上空を見上げる。
徐々に空を染める朱は薄くなり、周囲は薄闇に包まれはじめていた。
心地よく涼しい夕風が、夜の草原の匂いを運んで過ぎて行く。
風に撫でられた前髪がふわりと眼の上に落ち、それをうるさそうに払いのける夕闇の中のコウの横顔に、リリスはじっと見入った。
ここで、コウとは一旦別れ別れになるのだ。
寂しさと不安、そして胸を刺すような痛みが少女から言葉を奪う。
本当は、彼の傍から離れるのが怖い。
目の前にそびえる巨大な壁の向こうへ、一人で行かなければならないなんて。
けれど、それを口にすることはできない。
コウに余計な心配をかけたくはなかった。
リリスがぎゅっと掌を握り締めた時、コウがふと顔を城壁の方へ向けた。
その眼が、ゆるりと柔らかく細められる。
それまでに彼女が見た事もなかった彼のその眼には、思わずリリスをドキリとさせる何かがこもっていた。
コウの視線を追って、リリスも次第に夕闇の濃くなろうとする城壁の方へ顔を向けた。
薄闇の中に、ほっそりした人影がぼんやり見える。
影は、まっすぐにこちらを目指していた。
コウは静かに立ち上がり、ゆっくりとこちらへ向かう影の方へ歩いて行く。
リリスはそこに黙って立ち尽くしたまま、彼の姿を眼で追った。
コウの歩幅は近づいてくる人影のものより大きく、彼らが互いの眼前までたどり着くのに大して時間はかからなかった。
暗がりの中で近づいた二つの影はそのままひたりと寄り添い、闇の中で一つに重なる。
離れた場所からでも、彼らが互いを抱き締め合っているのだということは、リリスにも容易に知れた。
心臓が急激に脈打つ速度を増した。
トクトクと自分の全身をめぐる血が、鼓動の強さを彼女に伝える。
そんなにも早く胸は脈打っているのに、握りしめた手の指先は血の気を無くしたように冷たかった。
一体、自分の身体はどうなってしまったのだろう?
リリスは突然自らを襲った息苦しい衝撃に戸惑い、恐れた。
忙しなく浅い息をくりかえし、どうにか彼女は震えそうになる両足を奮い立たせた。

短くも想い溢れる抱擁の後、コウは一度だけ深くロザリンと唇を重ね、すぐに彼女を腕の中から解放した。
聡い彼女はコウの意図をちゃんと汲み取り、黙っていても彼の望みを察してくれる。
コウから身を離すと彼女らしい明るい笑みを浮かべ、コウの隣に並んで小丘の木の方へと歩き出した。
丘の上にはぽつんと寂しげな影が一人、立っている。
おそらく不安な思いで待っていることだろう。
宵風に吹かれてなびく少女の黒い髪が、その心許なさを表しているかのように闇におぼろに溶けて見えた。

「…あの子が?」

何故だか不思議と胸が痛んで、ロザリンは呟いていた。

「ああ、世話をかけてすまないが……」

「そんな事、全然気に病まないで!私は女姉妹で育っているし、女は女同士の方が気楽にやれると思うわ。逆に、私の方が受け入れてもらえるかどうかが…心配だけど」

そう言って僅かに眉をしかめたロザリンに、コウは確信に満ちた笑みを向ける。

「君を好きにならない人間は…そうそういないと俺は思うが?」

コウの言葉に仄かに頬を染めて俯き、彼女は「ありがとう」と小声で囁いた。

連れ立って近づいてくる二つの影に、抑えていた胸の鼓動が再び速くなる。
リリスは自らに“落ち着け、落ち着け”と呪文のように言い聞かせながら、コウが隣に伴っている人から眼を離せないでいた。
緋色の薄手のマントをはおり、フードを背中へはねのけたその人は、見事な銀色の波打つ髪を両肩から胸元へ垂らしていた。
大きな琥珀色の瞳は、暗がりの中でも生き生きと輝き、見る者を惹きつける。
すんなり通った鼻筋に、ふっくらとした愛らしい唇は艶やかで柔らかそうで、リリスでも思わず触れてみたくなりそうだ。

“綺麗なひと…”

そう思った途端、魅力的な琥珀の瞳が彼女の眼を真っ直ぐに捉え、やんわりと細められた。

「こんばんは」

優しい声が耳に心地よく響く。
リリスは握った掌に力を込めて、おずおずと笑顔を見せた。

「こ…んばんは……」

リリスが返事を返してくれたことが嬉しかったのか、ロザリンはまるで花がほころぶようにふわりと微笑んだ。

「とっても可愛らしいお嬢さんね。私は、ロザリン・アナよ。ロズって呼んでくれてかまわないわ」

「私は…リリスって言います」

「リリス。綺麗な響きの名ね」

そう言うと、ロザリンはリリスに近寄り、そっと握り締めていた彼女の手を取った。
ほっそりと華奢な指先がリリスの握った拳を包み込む。

「…心配で不安で仕方ない…って顔をしてるわ。当たり前よね、見ず知らずの人のところに、たった一人で行かなきゃならないんですもの…。彼から大まかな事情は聞いているけれど、とても…大変な目にあってしまったわね。会ったばかりで、私の事をすぐに信頼する事はできないと思うけど…私にできることなら何でも力になるし、頼ってくれたら嬉しいわ。彼の代わりに、がんばるから」

ロザリンの飾らない率直な本心からの言葉は、そのまままっすぐにリリスの心に染みこんだ。
少女を見下ろす琥珀色の暖かな瞳は慈愛と意志の強さに満ち、彼女が信頼するに足る人間である事をリリスは瞬時に理解した。
そして、なぜコウが彼女に自分を預けようと決断したのかも。

「リリス」

二人の様子を黙して見ていたコウが、少女に声をかけた。

「彼女は…本当に信頼できる人だ。私は彼女をおいて他に、君を預けられる人間など考えつかない。だから、安心して彼女のところで世話になってくれ」

リリスはコウの方へ顔を向け、笑顔でこくりと頷いた。

「うん、大丈夫。コウが言った事、よくわかるよ。ロザリンさん…すごく……いい人だってわかるもの」

「そうか」

少女の言葉に、コウは穏やかに口元を緩ませた。
その優しい笑顔に、何故かリリスは苦しくなる。
コウは彼女に近寄ると、くしゃくしゃと少女の頭を撫でた。

「すまない。ありがとう、リリス。用が済んだらすぐに会いに行く。それまで待っていてくれ」

リリスはもう一度笑顔のまま頷いてみせ、コウは静かに彼女の上から手を離した。
彼の暖かな手のぬくもりが去ると同時に、心の奥底にどうしようもなく胸苦しい寂しさが漂う。
それを悟られないよう、リリスは浮かべていた笑みを深くした。
コウはロザリンに向き直り「では、よろしく頼む」と短く言うと、すばやく彼女の顎に触れ、掠め取るように軽く唇に口付けた。
その瞬間、リリスは彼らから目を逸らした。
そのままコウは小丘を駆け下りると池のほとりの愛馬のもとへ向かい、軽々とその背に飛び乗った。
あっという間に落ちた宵闇の中で、今は夜空に顔を出した月が彼らを照らし出している。
馬の手綱をしぼり、首筋を数度撫でて向きを変えさせると、コウは小丘を振り返って手を上げた。
丘の上から、リリスとロザリンもそれに応えて手を上げる。
二人の姿をつかの間見つめた後、コウは馬の腹を蹴った。
愛馬は低く嘶いて、主の意思に従い走り出す。
それからはもう、コウは彼らの方を振り返る事はなかった。
彼の姿が城壁に沿って彼方の暗闇に姿を消すまで、リリスとロザリンは黙ってそれを見送った。

「さて、私たちも行きましょうか」

コウの姿が見えなくなると、ロザリンはそっとリリスの肩に手をのせ自分の方へと引き寄せた。
ほんのりと甘い花の香がする。

「ちょっと…たくさんの人がいて、やかましい場所だけど…色々楽しいこともあると思う。気に入ってもらえたらうれしいんだけど…。まずは長旅で疲れているでしょう?うんと美味しいものをご馳走するから、お腹いっぱい食べて、熱いお湯に浸かって、暖かいベッドでゆっくり休んでちょうだい」

腕を回してしっかりと少女の肩を包み込み、眩しいような笑みと共にロザリンはそう言った。
その手の温もりに安堵を覚え、「ありがとう」と頷きながらも、リリスは心のどこかに開いた小さな穴が、しくりと痛むのを頭の隅で感じていた。

[2010年 XX月 XX日]

inserted by FC2 system