Chapter.3-2

街道沿いを行く旅路は快適だった。
山野や渓谷のでこぼこした獣道を歩くのとは違い、きちんと整備され、大きさも厚みも均一な白い敷石が敷き詰められた平坦な道は、脚への負荷も少なくとても歩きやすい。
また街道の要所要所には休息をとることのできる水場や小屋が設けられていて、街道を歩く旅人は誰でも自由にそこを利用することができるし、そういった場所には大抵道の管理を任されている街道警備隊も駐屯しているから、旅路で危険な目にあうことも少ない。
もとは急速に支配勢力を拡大し、より外郭へとその手を広げていったロムネル帝国が軍事用に配備した行軍路であったものが、帝国の支配力が拡大すると共に行軍用としてだけでなく商用や一般にも通行が許可されるようになり、今では大陸を縦横断する非常に重要な幹線路として多くの旅人が利用するようになった。
街道の歴史はそのままロムネル帝国の国外進行の歴史と言ってよく、何百年もかけて築かれた敷石の道はいわば征服者の爪痕の名残であり、帝国の権勢の象徴でもある。
大陸のどこからであろうとも、この白い道をたどれば必ず帝都ラツィオに辿り着く。
全ての街道は帝都から発し、帝都に通じているのだ。

「この道は“白の街道”とか、“月の街道”と呼ばれている」

渓谷越えを断念し、森を抜けて街道へ下る丘へ出た時、コウは大地に流れる大河のように続く道を指してそう教えてくれた。

「見たままの名前なのね」

リリスが白い帯のような道を見て笑うと、コウはふっと目元を緩めて小さく微笑んだ。

「確かに見たままの名前だが、この敷石の持つ特性のおかげでそれが叶っているんだ。これがただ白いだけの石なら、何百年もの間に様々な外的要因で汚れてしまって、とっくに名前を変えていただろう。この道は行軍用に築かれた道だ。路上で流された血は敷石の色を染め換えても余るほどだったはず…。だが、この石はそういったものを自分で浄化してしまうんだ。だから、石は老朽化して欠けたりもろくなったりはしても、色を変えることはない。日光に焼けて変色することもないし、ずっと元の色を失わない。もう少ししたら、この街道のもうひとつの名前の由来もわかるだろう。そのままだって…君はまた笑うだろうな」

コウの言う通り、しばらく街道を歩いているうちに陽が傾き、周囲を宵闇が包みはじめると、思わずリリスは「わぁ…」と小さな声をあげて嘆息した。
彼らの踏みしめている街道の石畳が、陽が落ちてゆくに従って徐々に淡く光りはじめたのだ。
やがてあたりがすっかり暗くなると、白い街道は仄かに光を放ち、暗がりの中に霞のように浮かび上がった。
それは眩しくもなく、優しい光で街道をゆく人々の足元を照らし出す。
あたかも、柔らかな月明かりのように。
それが、“月の街道”と呼ばれる所以。

「この石畳は日中は日の光を吸収して身の内に蓄積し、夜になると自ら薄く発光する。たぶん、太陽の光で自分自身を浄化し、光るんだろう。不思議な性質だが、おかげでこの街道は夜歩いても迷うことがないんだ」

「…これって、魔術じゃないの?」

目を瞬かせて足元に視線を落としたまま歩くリリスが問う。
そのあまりに予想通りの様子に、コウは楽しげに笑った。

「いや、魔術じゃない。この石は天然のもので、これは石の持つもともとの性質だ。もちろん簡単に手に入るような代物じゃないし、この石を産出する地方も限られている」

「じゃあ、高価な石なのね?」

「その通り。決して手に入れるのが難しいほどのものではないが、高価なものだ。それを大陸のいたる所にまでのびている全ての街道に敷き詰めているんだから、莫大な金がかかっている道だよ。帝国がいかに富んでいるか、これだけでもよくわかる」

ふぅん、と感心したように頷きながら、リリスはもの珍しそうに足元を見ながら歩く。
森や峠越えの道を歩いている時も、あちこちを楽しそうに眺めては思いついた事をコウにあれこれと訊ね、そのいちいちにうれしそうに紫色の瞳を輝かせていた。
コウもまた、好奇心旺盛でなおかつ聡明な少女が、思った通り外界のあらゆる新しい知識を次々に吸収していく姿を微笑ましく感じていた。
後から後から湧き出てくる目新しいものに対する興味が、くるくると忙しく彼女の表情を変えていく。
その生き生きとした無邪気で明るい姿は、不思議と彼の気持ちを和ませた。
本当は、突然自分の身に降りかかった災難と行方のわからない父親の安否を思って不安で仕方がないはずだろうに、彼女はそれを一切彼には見せない。
コウはそんな少女の芯の強さにあらためて感心するばかりだった。

彼らはそのまま夜通し街道を歩き進んだ。
夜明けと共に彼方に見える山々の稜線から薄っすらと太陽が顔を覗かせはじめると、コウは街道を外れて沿線の森の中へ入り、火をおこして休息を取った。
3日ほどそうやって街道を進んだところで、比較的大きな宿場町に辿り着いた。
その日は陽が傾くよりも随分前にコウに起こされ、森から出て明るい日中の街道を歩いた。
宿場町に着いたのは陽が落ちて間もない宵の口の頃で、町は彼らと同じような旅人が今夜の宿を探して歩いたり、町の沿道に並ぶ食堂や居酒屋に出入りしており、そういった旅人を店へ呼び込む者たちの声があちこちに響いて活気付いていた。
リリスは生まれて初めて足を踏み入れた“町”の賑やかさ、人の多さ、自分の知らない様々な物を目にして、終始口をぽかんと開けたまま忙しなくキョロキョロと顔を動かしていた。
あまりにも目まぐるしく眼前を通り過ぎていく景観に、コウを質問攻めにする暇もないようだ。
特に急ぐでもなく町中を行き過ぎて、コウは町の一番外れにある一軒の宿屋に部屋を取った。
宿屋は大きすぎず小さすぎず、ほどほどの混み具合で、コウがリリスを従えて宿帳に記入をしていてもさほど目立つこともない。
おまけに、主要な通りから最も離れた町外れだけに、周囲は喧騒からも遠く、静かで落ち着いていた。

「どうして今日はここへ泊まるの?」

それまでと違って野宿ではなく宿屋に泊まり、夜に眠るというコウに、リリスが素直な疑問を口にする。

「もうこれで6日以上たつ。あの魔騎士が追って来ているような気配はないし、学都まではもうあと2日もあれば辿り着ける。そろそろ君もかなり疲れているはずだし、このあたりで昼夜逆転の生活を元に戻していかないといけないからね。今夜は湯にも浸かって、ベッドに入ってゆっくり休むといい。夕食も、宿でちゃんとしたものをとろう」

コウはそう言うと、宿主から預かった二つの部屋の鍵のうち、一つを彼女に手渡した。
部屋は二階の北側のつきあたり二室で、コウは角部屋に彼女を入らせた。
こじんまりとした小さな部屋だったが、これまでの数日間野宿を余儀なくされていた身には、どんなに狭い部屋であろうと柔らかで清潔な寝具に包まって眠れるのはありがたい。
部屋には同じく狭いけれども湯を使うための湯桶もあった。
だが当然の事ながら、リリスは宿屋に宿泊するなどというのは初めての体験で、部屋の中でどう過ごせばいいのか少し戸惑ってしまう。

「まずは湯を使えるようにしてくれと言ってある。じきに誰かが湯を運んで来てくれるだろうから、夕食の前に湯に浸かって身体をほぐすといい」

コウの言葉通り、彼らが部屋へ入っていくらもたたないうちに宿のおかみが従業員と共にいくつもの手桶にたっぷりの湯を運んで来てくれたので、リリスはともかくもまずは暖かい湯に全身を沈める事にした。
年頃の少女が、数日間ずっと川で泳ぐか濡らした布で身体を拭うかしかできなかったのだ。
久しぶりに、ゆったりと湯を使えるのはうれしくないはずはない。
リリスはコウの心遣いに深く感謝した。
彼女の汚れて縺れた髪を見て気遣ってくれたのだろう、おかみは髪を綺麗に洗い、艶を出す為の香油の瓶もリリスに渡してくれた。
十分時間をかけた湯浴みを終え、こざっぱりすると、荷の中からまだ汚れていない新しい服を取り出して身に付けた。
先程まで着ていた衣類は残りの湯で洗い、水を抜いた湯桶の縁に干してある。
朝までに乾くかどうかはわからないが、とにかくずっと着たきりだった服は汚れも匂いも酷かったから、洗濯ができたことに彼女はホッとした。
洗いたての真っ白な夜具が敷かれたベッドに腰掛けると、その柔らかな感触にふっと気持ちが緩む。
そのまま、ぱたりと夜具の上に倒れこみ、リリスは大きな溜息を吐いた。

こうして本当にひとりになるのは、ずいぶん久しぶりのような気がする。
実際にはコウと行動を共にしはじめてからまだ7、8日程度しかたっていないのだが、その7日、8日が彼女にとっては10日、20日にも感じられる。
思い出せば身震いが出るあの恐怖の夜が、既に遠い日の夢だったかのようにも思える。
しかし、あれが夢などではなかった事は彼女自身が一番良くわかっていたし、ここ数日は、依然として父の消息が途絶えたままわからないという状況が、否応無に彼女を楽観できない現実と向かい合わせていた。
もしかしたら、もう父には二度と会えないのかもしれない。
漠然と、頭の片隅を占めはじめた不安は、今では半ば覚悟に変わりつつある。
このままその覚悟が本当になってしまったら、彼女はひどく突然に、天涯孤独の身の上になってしまう。
あの家に戻り、一人きりで生きていくなどという事がはたして自分できるだろうか?
また、今の彼女にはもうひとつ、とても自分一人で抱えきれるとは思えない更に大きな不安があった。
あの石だ。
リリスは床の上に放り出されたままの自分の荷物へ目をやった。
湯を使う際に、そこへしまいこんだはずの皮袋。
常に腰のサッシュに結わえ付け、持ち歩いているその小袋には、掌に収まる小さな瓶に収めたあの石が入っている。
瓶の中には家から持ってきた果実酒が満たしてあり、石はその中に浸してあるのだ。
あの日、川岸で目にした石の変容は、ぞっとするほど鮮明に網膜に焼き付いている。
赤い亀裂から覗いた、何か得体の知れないもの。
一体あれは何で、あの石を自分はどうしたらいいのか。
考えれば考えるほど、思考は悪い方へ向かおうとする。
それを何とか頭の中から閉め出し、明るく振舞っていられるのは、きっとコウが傍にいてくれているからだろう。
いっそのこと全てを彼に打ち明けて助けを求めてしまおうかと、街道を歩いている間何度も迷った。
けれども脳裏から離れないあの禍々しさが、もしかしたら彼に災いをもたらすのではという危惧が、それを押し留めた。
目的の都へは、あと2日もすれば着くという。
そこへたどり着けば、彼女の抱える重荷を何とかできる希望の光が見出せるだろうか?
リリスはもう一度重い溜息を吐き出すと、泣きたくなって眼を閉じた。


*** ***


ぬるめにした湯にゆったりと身を浸し疲れと汚れを落とすと、コウは軽く洗った衣類を魔術で乾かし、再び身につけた。
久しぶりに髪も洗えたので、随分すっきりして気分もいい。
リリスはおそらく彼の倍は湯浴みに時間がかかるだろうから、食事のために彼女を呼びに行くのはもうしばらく待ってからの方がいいだろう。
コウは湯桶の後始末を済ませてしまうと荷の中から薄紅色の紙束を取り出し、その中から一枚を抜き取って窓辺に設えられている小さな書き物机に向かった。
椅子を引き、浅く腰掛けて常備されている羽ペンとインクを傍らに引き寄せる。
机に面した窓からは夜闇に包まれた宿場町の明かりが点々と見え、町の活気に満ちた営みを感じさせた。
この宿場町は、学都バルセナタンから二番目に近い大きな町で、もう一つ最も学都に近い宿場町からは1日半ほどでたどり着ける。
学都から旅に出る者の多くにとってはここが旅路に必要なものを調達できる最後の大きな町で、逆路をたどる者達にとっても学都へ足を踏み入れる前に長旅の垢を落とし、一息つくことのできる場所だ。
町には多くの宿屋の他に、食料や日用品・雑貨にはじまり、護符や身を守る呪い品を売る店や剣の手入れを請け負う鍛冶屋など様々な商店が軒を連ねている。
路地を彼の愛馬の手綱を引いて歩きながら、大きな瞳を更に大きく見開いて右へ左へ顔を向けていたリリスの様子を思い出し、コウは思わず笑みを漏らした。
このさほど大きいわけでもない宿場町であれでは、学都へ入ったらどうなることやら。

コウは窓を開けて室内へ風を入れ、机の上に置いた紙の上にペンを走らせた。
極力無駄を省いた短い文章。
けれど、その一つ一つの単語に真摯な想いをこめる。
薄紅色の紙の半ばほどまでが文字で埋まった頃、ふとコウは紙面へ落としていた視線を上げた。
目の前の窓枠に、いつの間に現れたのか、白いフクロウが止まっている。
フクロウは黄色い小さな嘴に一つ結びにされた紙切れを咥えていた。
彼が自分の姿に気付いたと見るや、フクロウは咥えていたものをポトリと机に落とし、バサバサと羽音をたてて飛び去って行った。
コウはすぐさま椅子を引いて立ち上がり、それを拾い上げた。
結び目を解くと、淡い若草色の薄紙からふわりと花の香が漂う。
彼はその仄かな香りを胸に吸い込み、眼を閉じた。
瞼の裏に浮かぶ面影に微笑を返し、ゆっくりと眼を開ける。
折りたたまれた結び文をコウはそっと開いた。
綺麗な凛とした筆跡だった。
コウと同じく無駄のない簡潔な言い回しで書かれているが、その一文字ずつに、そこにこめられた確かな想いが感じ取れる。
紙の上に並んだ文字を追いながら、コウの口元は自然に綻んでいた。
彼が待っていた、それも予期していた通りの答えが、紙面にはしたためられている。
コウは読み終えた手紙を元通りひと結びし、机の上に置いた。
そして再び書きかけの手紙に向かう。
この手紙を開く時、彼の両手の温もりすらもその身に感じ取れるよう、ほんの少し呪いの力をこめながら。
やがて書き終えた手紙を同じように折りたたんでひと結びにすると、彼は窓辺に寄って小さな声で呪文を唱え、夜風に向けてそれを投げた。
ふわりと投げ上げられた結び文は、まるでそれ自体が羽のように軽々と空に舞い上がり、あっという間に夜空の彼方へ消えていく。
雲のない澄んだ夜空に瞬く星をひとしきり見上げた後、コウは静かに窓を閉めた。


*** ***


宿の食堂はそうたいして広いわけでもなく、それこそ学都でコウがよく訪れるロザリンの店と同じくらいの規模であったが、居酒屋を兼ねていない分客はここに宿泊している者しかおらず、広々と感じられた。
コウと向かい合わせに席についたリリスは、給仕役をしている彼女よりも少し年下の少年から手渡された料理の一覧表を眺め、眉間に皺を寄せている。
コウはさほど多くはない品目の中から自分の好みのものをすでに選択していたが、リリスには数は少なくてもそれまで口にした事はおろか目にした事もない料理の名前が並んでいる一覧から自分の食べたいものを選ぶなどという事は、簡単にはいかない。
いちいち正面に座っている彼に品物の名前をあげてはそれがどんなものなのかを訊ね、コウが簡潔ながらも丁寧に教えてくれれば迷いの上に迷いが重なり、更にどうしていいやらわからなくなる。
とうとうさすがに待ちくたびれた給仕係りを気の毒に思ったコウが、自分が選んだのと同じ学都風の肉の煮込み料理に甘い糖果菓子を付け加えたものをリリスのために注文した。
ホッとした顔で料理の一覧を持って給仕の少年が去って行くと、リリスはほうと息を吐き出して肩を竦めた。

「どれもみんな…見た事も食べた事もないようなものばかり…。さっぱりわかんない」

心なしか頬を膨らませて言う少女に、コウは苦笑するしかない。
彼女の意見は最もではあるのだが。

「仕方ないさ。それにしても……君は本当にまるきりあの家から出たことがないんだな…」

「そうよ!だから、あの一覧に載ってたお料理なんて、ほとんど知らないものばかり…いつも家で作ってたものって言ったら……」

眉根を寄せて思い起こせば、彼女が日々作っていた食事は、その全てが母の残したレシピをそのまま忠実に再現したもので、味の良し悪しも父と自分の口に合えばそれで良いという程度のものだ。
こんな風に食事を提供することを生業としている人々や店が世の中に存在していることは知識としては知っていても、自分の身をもって体験するのは初めてなのだ。
これまでの数日間は、コウと二人山野で寝食する毎日であったからさほど気になりもしなかったが、こうしてそれまで書物の中でしか触れたことのない世界に投じ入れられてしまうと、興味を通り越して戸惑うことも少なくない。

「自分が本当に…どうしようもないくらい物知らずだって…恥ずかしくなるわ…」

しかめた眉をそのままにリリスが唸るように言うと、コウは小さく首を振った。

「何度も言うが、それは仕方ない。君にはあの家がずっと世界の全てだったんだから、世の中の事や、それ以外の事を体験する機会なんてなかっただろう?むしろ、そんな中で書物やお父上から得るしかなかったにも関わらずちゃんと知識を持っているだけでも素晴らしいと思うよ。恥ずかしいと思う必要はどこにもない。わからないことは何でも訊けばいいし、これから君が知識として持っている事を、どんどん経験として身につけていけばいいんだ」

コウはそこで言葉を切った。
ちょうど給仕が一杯だけ注文した麦酒とリリスのために温めた甘い果実水を運んできたところで、彼らはそれぞれに手渡されたゴブレットを受け取り、少年に礼を述べた。

「それは、この近くで採れる特産品の果物を使った果実水だ。甘味も強いけど、香りがいい。飲んでごらん」

コウに言われるまま、リリスはゴブレットに口をつけた。
ふわりと、湯気と共に彼女の鼻腔に甘酸っぱい香りが流れ込む。
温かい液体を口に含めば、甘く瑞々しい果実の味が喉の奥まで広がって、彼女の眉間に浮かんだ憂いはあっという間に吹き飛んでいた。

「おいしい…!!」

一転して満面の笑みを湛えた少女の顔を見ながら、コウも冷たい麦酒を喉へ流し込む。
一息ついてから、コウはゴブレットをテーブルに置くと真剣な表情で口を開いた。

「リリス、これからの事を少し話しておこう」

「……うん…」

やや緊張した面持ちで、少女は頷いた。

「明日の朝この宿場を発ったら、目的の学都まではあと2日か2日半…少なくとも3日はかからずに到着する。今夜ここで宿をとったのは、生まれて初めての長旅を体験している君の体力がそろそろ心配だったというのももちろんあるが、実際に学都に入る前に色々と準備をしておきたかった
からでもある。学都は、帝都には比すべくもないが、帝国内では相当に大きな都市だ。あの辺境での暮らししか知らない君を突然大都市に連れて行ったのでは、それまでの生活との差異が激しすぎるだろうと思った。何しろ、帝国第二の人口を誇る都市だ。街の広さも人の数も、おそらく君の想像を遥かに超える。この宿場町程度では大して役には立たないだろうが、それでも少しは雑踏や街並の外観に慣れることができるかもしれないと思ったんだ」

リリスはコウの目をじっと見つめ返し、話の続きに耳を傾ける。

「学都に着いたら、私はまず自分のすべきことを最優先にしなければならない。事情があって今は君に私の素性を明かせないままでいるが、それが無事に終われば、ちゃんと全てを話す事もできると思う。しかし、それまでは君には何も話してあげられないし、街に入る時には君とはお互いに全く面識もないように振舞わなければならないんだ。私は一人で学都の中に入らなければならない」

リリスの胸がズキリと痛んだ。不安が布地に零した水滴のようにジワジワと染みていく。

「だからと言って、君を一人で学都の中に放り出すわけにはいかない。この旅の間にどうにかお父上の消息を得られないかと思っていたが、今のところはそれも光明が見えていないし、ついてくるか?と言った以上、私には責任もある。それで……君を一旦私の信頼できる人に預かってもらう事にした…」

「え?」

「学都に入る手前で、君をその人に預け、私は単身で街へ入る。君はその人と共に街へ入り、その人のところへしばらく身を寄せていて欲しいんだ。用件を済ませたら、できるだけ早く会いにいくから…」

戸惑いと不安がそのまま顔に出ていたのだろう。
コウは申し訳なさそうに眼を伏せた。

「すまない……君にしてみたら不安でたまらないだろうとわかってはいるんだが……。君を預かってくれる人は、私が心から信頼できる相手だし、安心して君の事を任せられる人だ。どうか、私を信じて…そうしてくれないか…?」

コウは小さく頭を下げてそう言った。
リリスは慌てて首を振り、テーブルの上で両手をぎゅっと握りしめた。

「そんな!謝ってもらう事なんて何も……!私、助けてもらってからずっとお世話になってばっかだし、そうしないとあなたが困るなら嫌だなんて言えないし、言わないわ!そうして欲しいって言うなら…。そりゃ、不安じゃないって言ったら嘘になるけど…でも、あなたがそんなに信頼してる人のところなら、大丈夫だと思う!」

頬をほんのり朱に染めて、懸命にリリスは言葉を紡いだ。
コウと離れることは、今の彼女にとって不安以外の何ものでもない。
何一つ怖れるもののない庇護された安全な居場所は既になく、木の上の巣から落ちた雛鳥も同然に世界の事を何も知らない彼女に、頼ることができるのはコウだけなのだ。
だが、そのコウが彼女のためにとれる最善の策がそれしかないというのなら、彼女はそれに従う他ない。
リリスには、彼が本当に彼女の身を慮った上でそれを考えてくれたのだという事がよくわかっていた。

「コウの言うとおりにするわ。心配しなくても大丈夫!」

リリスは胸の奥をしくしくと刺す心細さを振り払い、顔を上げて微笑んだ。

「その代わり、できるだけ早く会いに来てくれるって約束してね!」

少女が念を押すようにそう言うと、コウは安堵したように、だが参ったなとでも言いたげに、苦笑いを浮かべて頷いた。

[2010年 XX月 XX日]

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