Chapter.3-1

金色の細かな光が、水飛沫のように瞼の裏にちらちらと煌く。
濃い緑の匂いと共に、燻った焚き火の燃え残りから立ちのぼる煙の匂いがして、リリスは目を開けた。
途端に眩しい光の礫が瞳を刺し、思わず腕で顔を覆う。

“ここ…どこだっけ……?”

まだはっきりしない夢見心地の意識の中で馬の嘶く微かな声を耳に捉え、彼女は息をのんで跳ね起きた。
だが次の瞬間には自分が身を横たえていたのが乾いた柔らかい下草の上で、今は陽も高い日中である事に気付いてほうっと深い安堵の息を吐く。
理由もわからぬままにあの魔物の騎士に襲われた夜から、既に3日がたっていた。
ゆっくりと首を巡らせて、共連れの姿を探す。
褐色の髪の青年はその辺りには見当たらなかったが、彼の馬が短く独り言を呟いてでもいるかのように嘶く声が、そう遠くないところから聞こえてくる。
リリスはそろそろと立ち上がり、うんと大きく伸びをしてからその声のする方へ歩き出した。
慣れない野宿で身体のあちこちが疼くように痛む。
ゆっくりと歩を進めながら、リリスは腰をトントンと叩いた。
屋根のない戸外で眠るなどかつて体験した事がなく、柔らかな寝床に休むのとは違い、硬い地面の上で眠るというのがどんな心地のするものなのかを、リリスは初めて知った。
けれども、それは嫌な気分ではなかった。
むしろ、木々の枝がつくりだす影の中に横たわり見上げる葉の鮮烈な青さや、その合間から覗く澄み渡った空の清浄さ、硬い土の感触を和らげてくれる下草の瑞々しい匂い、そういった今までそれほど身近に感じた事のないものひとつひとつに感動を覚え、自分が生きているのだという事を実感する。
もちろん、これまでにだって家の近くの渓谷や森へ半日程度かけて遠出することはあったのだが、生まれて初めて飛び出した外の世界は、全てが色鮮やかで新鮮だった。
首無し騎士の再襲を警戒し、彼らは昼間身体を休め、主に夕刻から夜間に移動するようにしていたが、暗く先の見通せない夜闇の中でさえリリスは未知の世界への尽きない感嘆で眼を輝かせていた。
その点では多感で難しい年頃であろうはずの少女を連れているわりに、コウにとっては比較的楽な旅路だったと言えるかもしれない。
これがもっと繊細で神経のか細い娘であったなら、幾晩も鬱蒼とした夜の森を周囲の気配を伺いながら進むなどという旅に、とっくの昔に根をあげていた事だろう。

馬の声を頼りに背の低い灌木の茂みをかき分けると、目の前にさほど大きくはない川が現れた。
陽光を反射して光る水面に眼を細めながら、左右へと視線を向ける。
はたして、青年の姿は穏やかに流れる川の上流にあった。
ブーツを脱ぎ、下履きを膝上まで捲り上げた青年は、ふくらはぎ程度の深さまで水に入っていた。
上半身はシャツ一枚で、肩から右の腕だけを袖に通さず晒している。
顔を洗うのに衣類を濡らさないよう気にしているのだろう。
少し前屈みになっていたコウは、下へ向けていた顔をぶるぶると振り、勢い良く顔を上げて天を仰いだ。
水飛沫がキラキラと輝きながら川面へ落ち、濡れた髪から滴る雫が頬から顎に伝わる。
彼がそれを手の甲でぐいと拭う仕草を、リリスはぼうっと眺めていた。

「…?どうした?」

彼女の姿に気付き、先に声をかけたのはコウの方だった。
ハッとしたリリスは、ふるふると首を振る。

「う…ううん、別に何でもない…。目がさめたら姿が見えなかったから…」

慌ててそう口にするが、何故かまともに彼の方へ顔を向けられない。
彼女の立っている川岸が、コウのいる上流から少し離れていたのは幸いだった。
水に濡れた前髪を片手でかきあげた青年の顔は、陽の光を浴びて艶めいて見える。
その面を、リリスは綺麗だな、と思った。
“綺麗”という表現を男性に対して使うのは、もしかしたらおかしいのかもしれないが、彼女にはそれ以外どういう言葉で表せば正しくそれを評することができるのかわからない。

「ああ、そうか。…悪かった。早く目が開いたんで、顔を洗いに来ていたんだ」

言いながら、コウは笑って晒していた右腕を袖に通し、シャツの留め具をきちんと留めた。
ばしゃばしゃと水音をたてながら川から上がり、無造作に脱ぎ捨ててあったブーツを拾う。
夜でなければ万が一にも魔騎士に襲われることはなかろうから、日中のコウはやや緊張を解いている。
それでも僅かながらの懸念を捨てることはなく、愛用の剣は常にいつでも手の届く範囲に携えていた。

「君も顔を洗うといい。このあたりの水はとても綺麗で澄んでいるから、疲れも癒えるよ」

「うん…」

もごもごと言葉を濁すように頷くと、リリスは立ったまま器用に鞣革のブーツを片足ずつ抜き取って、川岸から水の中へ飛び込んだ。
跳ね飛んだ飛沫がチュニックの裾から伸びた脚を濡らす。
水は想像していたよりも冷たく、川底には柔らかな砂が体積していて、勢い良く飛び込んだ彼女の両足を優しく受け止めた。

「おいおい、そんな勢い良く飛び込んだら危ないぞ」

コウが苦笑まじりに呆れた声を出す。
リリスにしてみれば半ば自分でもよくわからない気恥ずかしさをごまかすためにとった行動だったのだが、同時にそんな風にやんわりと諌められるだろう事も、心のどこかで期待していた。
自分を気にかけてくれる他人が常に傍にいるという状況は、少女にどこかくすぐったいような淡く幸せな気持ちを抱かせる。
何しろ父親以外の人間と接触する事さえ稀な境遇だったのだから、それも自然な成り行きなのかもしれない。
リリスの眼はごく自然に、彼の姿を追うようになっていた。

「先に食事の準備をしているから、ゆっくり来るといい。水の流れは早くないが、あまり深いところまでは行くな。危ないから」

コウは下草の上で水気を拭った脚をブーツに突っ込み、片手で剣を担ぐと、急ぐでもなくのんびりと野宿場へ戻って行く。
その後姿を見送りながらリリスは小さく溜息を吐いた。
もう少しここに一緒にいてくれればいいのにという気持ちと、それを打ち消そうとする気持ちが心の片隅で葛藤し、胸の内をもやもやさせる。
リリスは、じゃばじゃばと派手な水音をたてて水流を蹴った。
さらさらとした砂が、足の裏を滑るように撫でてゆくのが心地いい。
歩き疲れて重い足も、すっきりと軽くなっていくように感じる。
ひとしきりその感触を楽しむと、リリスは上体を屈めて冷たい川の水を両手ですくった。
コウの言った通り水はとても澄んでいて、口に含むと身体が内から洗われるような気がした。
顔を洗い、コウがしていたように顔を振って水気を飛ばし、天を仰ぐ。
空は薄雲すら浮かんでおらず晴れ渡っていたが、そろそろ太陽は1日の役割の半分以上を終えて傾きかけようとしていた。
食事を済ませたら、また今夜も暗い森の中を進んで行かなければならない。
あとどのくらいで目的の都市には着くのだろう?
ふと、腰に巻いた革紐のサッシュに結え付けた小袋の上を手の甲が掠めた。
そこにはあの不思議な石が入っている。
リリスは袋の上からその丸い形を確かめ、紐を緩めて指を差し入れると慎重にそれを取り出した。
つまんだ石を空に向け、陽の光を透かしてみる。
何度確かめてみても、それはとりたてて珍しくもなさそうな、ただのにごった半透明の石にしか見えない。
初めて石を見つけた時それが虹色に輝いたなど、奇妙な夢だったのではなかろうかと思うほどだ。

「いったいあんたって…何者なのかしらね…?」

リリスは小さく呟くと再び石を袋の中へ落とし込み、きゅっと紐を絞って袋の口を硬く閉じた。

「さて、じゃあ戻ろうかな…お腹すいてきちゃったし」

既に子供の頃からの習い性で独り言を呟くことに慣れきっているリリスは、誰ともなしにそう口にすると、脱ぎ散らしたブーツを拾うため水を蹴って川岸に向かった。
腰で揺れる小袋からほんのり淡い光が透けている事に、その時顔を上げていたリリスは全く気づいていなかった。


*** ***


火種はまだ完全に消えてしまってはいなかった。
コウは細く白い糸のような煙を吐き出している灰の山に何本かの小枝を乗せ、掌をかざして呪文を唱えた。
チリ、と微かな音がして、積もった灰の奥に朱色の明かりが灯る。
やがて小さかった明かりは徐々に輝きを強め、その上に重ねられた小枝を炎が包んだ。
そこへ更に小枝を加え、火を大きくしていく。
火勢が十分についたところで、彼は先ほど川で汲んできた水を火にかけた。
てきぱきと食事の準備を整えながら、コウは今夜進むべき経路に思いを馳せる。
昨日までは比較的なだらかな丘陵地を選択できたが、今眼前にある越えなければならない渓谷は、少女の脚には少々厳しい。
明るい日中ならいざしらず、暗闇の中足場の悪い岩谷を昇降するのはかなり危険だろうと思われた。
やはり、遠回りにはなってしまうが渓谷を渡って突っ切るルートは避け、南へ下って開かれた街道を行く方が安全だ。
ただし、渓谷越えの旅程よりも更にまる2日は時間がかかってしまう。
本来ならば早駆けに駆け、可能な限りの最短期間で戻らなければならないところを、もう随分と時間をかけてしまっていた。
おそらくコウ一人だけならば、バルセナタンまで5日もあれば帰り着く事ができただろう。
しかしまだ彼から見れば幼くすら見える少女に、しかもこれまで一度たりとも自宅周辺以外の土地へ出た事のない少女に、初めての長旅で無理を強いるわけにもいくまい。
それに、いまだ消息のつかめない彼女の父親の事や、あの魔騎士のその後も気になる。

一晩考えた末、意を決して彼と共に来るという少女を連れて、コウはあの翌朝すぐにリリスの家を出た。
彼女はたくさん貯蔵されていた保存食を邪魔にならない程度いくつかの荷袋に詰めこみ、いくばくか自分の手元に持っていた金や多少なりとも価値のありそうな品物をまとめると、出立前にごく簡単に荒らされ放題になった室内を掃除した。
破壊の爪痕は決して小さいものではなかったが、いずれこの家に戻る時の事や、もしも父親が帰ってきた時の事を考えると、さすがにそのままに放置していく気にはなれなかったからだ。
その支度が整うまでの間、コウは家の周囲を取り囲むようにまじないの膜を張り、魔術の心得のある者であればすぐに見つけ出す事のできる伝言を残すと共に、リリスの父が向かったという北の領主、ギズモンデール公に宛てた魔術親書を偽名を使って飛ばした。
だが出立してから2日たってコウのもとへ戻されてきた親書の返答には、リリスの父が注文の品を持参するとの連絡をよこしたきりいまだ領主のもとを訪れていない事、領主もそれを不審に思っていた事、更には行方知れずになってしまっている可能性が高くなった彼の行方を領主の方でもそれとなく探索してみようという申し出が記されていた。
その返答が事実であるならば、リリスの父親は領主に届けるべき金細工を携えたまま、領地に向かう途中で消息を絶ったという事になる。
必要以上に不安を与えないため、コウはリリスには領主から戻ってきた返答内容の詳細は伏せ、ただ彼女の父の行方はギズモンデール公にもわからず、また公が探索に手をかしてくれると申し出てくれている旨だけを簡単に話すにとどめたが、この先彼女を待ちうけているかもしれない最悪の事態も、コウの視野には入っていた。
金目の物を持った人間が旅程の途中で行方不明になるという事態は、大抵の場合同様の結末を意味する。
すなわち、山賊なり盗賊なりに襲われて金品を強奪された挙句、殺されるという結末を。
それが魔術師の心得のあるリリスの父親にもあてはまるかどうか、現段階では断定することはできないけれども、少なくともその身の安否についてはあまり良い方へ期待しない方がいいだろうとコウは思っていた。

沸騰した湯がこぽこぽと小さな音をたてはじめ、コウは湯の中へ数枚の茶葉をちぎって落とした。
ふわりと仄かに甘い香りが湯気と共に立ち昇る。
荷袋の中から乾燥させたパンと干し肉を取り出すと立ち昇る湯気の上にかざし、コウはまた口内で短い呪文を唱えた。
硬く収縮していたそれらは見る見るうちに蒸気を吸い込み、干からびる前のしっとりとやわらかな質感を取り戻した。
それらを皿代わりの木の葉の上に並べながら、コウの思考は再びリリスへと向かう。
このまま何事もなく無事にバルセナタンに到着できたとして、その後彼女の身柄を一体どうすればよいだろう?
まずは任務報告に向かわなければならないが、そのまま直に彼女を共に連れて行くわけにはいかない。
事実の報告の後には当然イライジャは彼女に会いたがるに違いないが、最初は一時的にでもどこかに待たせておいて、改めて引き合わせるという形にした方がいい。
今回の任務が極秘のものである以上、バルセナタンへ入る際には人目につかないよう注意を払わなければならないし、彼女と自分の関わりをあれこれ詮索されるような事も避けなければならない。
また、彼が危惧している通りに彼女の父親がもう永久に娘を迎えには来られなくなってしまっていたとしたら…。

「…まぁ、それはまたその後で考えるしかないか…」

軽い溜息と共にそう呟いて、コウは再び荷袋の中へ手を突っ込んだ。
その拍子に、ふと胸元で小さく護符が揺れた。
コウは慣れた仕草で護符をシャツの襟元から引っ張り出すと、常に優しく幸せな気持ちを呼び起こすそれに眼を落とす。
掌におさめたそれをじっと見つめるうちに、彼の唇は緩やかな微笑を描いていた。


*** ***


リリスがその異変に気付いたのは、拾い上げたブーツを履くために川岸で屈みこんだ時だった。
腰に巻いた革紐のサッシュに吊り下げられた小袋が、淡く光を放っている。
手にしていたブーツを投げ出して、彼女は慌てて袋の口紐を緩め、中を覗きこんだ。
袋の底で、半透明な楕円の石がぼんやりと光を放っている。
光は眩しいというほどではなく、朧月にかかる薄雲のような茫漠としたものだった。
だが、先ほどまで全く何の変哲もない石でしかなかったものの突然の変貌に、リリスは驚きで声も出ない。
恐る恐るリリスは袋を逆さにし、掌にそれを落とした。
すぼめた手の中で、石は弱い光の膜に包まれている。
それに照らされたリリス自身の手も、内側から輝くように光を帯びて見えた。
そろそろと腕を持ち上げ、彼女は石を自分の眼の高さに掲げてしげしげと観察した。
眼を眇めてよくよく見れば、石を包んでいる淡い光の膜はじっと見ていないとわからないほどゆっくりとした速度で明滅していた。
石そのものが、まるで静かに穏やかに呼吸してでもいるかのように光を明滅しているのだ。
その強弱はさほど激しくはないけれど、それでも光は一定の間隔でそれを繰り返していた。

リリスが更に石に顔を近づけようとした時、それは起こった。
突然、光る石の中に、ポツリと赤いシミのような点が小さく浮かび上がった。
その瞬間、リリスの背筋をぞくりと冷たいものが駆け上がった。
掌ばかりか全身が小刻みに震えだした。
内側から何かが滲み出したようにも見えるその点は、次いで縦に上下に引かれでもしたかのようにスッと一本の細い赤い線になり、じわじわとにじんで太くなっていく。
見てはいけないものを眼にしている。
本能的にリリスはそう悟っていたが、それでも彼女はそれから眼を逸らせない。
毛ほどに細かった赤い線は、今は引き裂かれた布の亀裂にも似た形状になっている。
どこまでも深く濃い赤が、亀裂の間からのぞいていた。
その濃い赤の中で、何かがぞろりと動いた。
リリスは息をのみ、思わず反射的に手の中のものを投げ出した。
淡く光を放つ石は彼女の足元にできていた川の水溜りに落ち、堆積した砂の上にゆるりと沈む。
水に落ちた途端それは急速に光を失い、砂の上に着地した時には既に元の半透明の丸い石に戻っていた。
心臓が痛いほど激しく収縮し、耳の奥で大きな音を響かせている。
リリスは乱れて苦しい息を整え、深く息を吸い込むと、恐々水溜りを覗きこんだ。
粒子の細かな川底の砂は石をやんわりと受け止め、緩やかな水の流れがそれを撫でるように洗っている。
ゴクリと渇いた喉を鳴らして、リリスは震える手で石を拾い上げた。
光を失った石の表面には先程の赤い亀裂の痕跡は微塵もなく、ただ一点の曇りさえ見つけられない。
一体何がどうなっているのだろう?
再び掌の上にのせた石を、リリスは凝視した。
やはり、これはただの石ではない。
何か、とても特別なものなのだ。
しかも自分の身の内の声を信じるならば、酷く禍々しくて邪悪なものだ。
だからこそ、きっとあんな所にあったのだろう。
あんな、誰にも考えも及ばないような所に。
そう思うと、わざわざ果実酒に沈められていた事にも何か意味があったのかもしれない。
今川の水に落ちた途端石に起きていた異変が跡形もなく消え去ってしまった事を考えると、もしかしたら液体の中に沈めておきさえすれば、これはただの石でしかなくなるのだろうか?
だが、彼女が偶然これを果実酒の中から取りだしてから川の中へ落とすまでにはずいぶんと時間がたっている。
にもかかわらず、これまで石がこんな風に変容を見せた事はなかった。
それとも液体から出されてしまってから石が変化を始めるまでには、いくらか時間がかかるという事なのだろうか?
いずれにせよ、リリスには正確な答えはわからない。
おそらくは父の手によって隠されていたのだろうこれを見つけ出し、愚かにも考えなしに持ち出してしまった事を、リリスは今更ながらに後悔した。
けれど、もう遅い。
今の彼女にできるのは、自らの進退が落ち着き父に再会できるか、最悪の場合は物の道理を知る、相談するに足る人物だと確信できる人間に巡り会えるまでの間、なんとかこれをただの石である状態に保っておく事だけだ。
その意味では、まだ今はコウを全面的に信頼するわけにはいかない。
リリスはまだコウのことを信頼できるほど知っているわけではない。
彼がとても優しく親切で、善良な人間であることはわかっているけれども、彼の素性についてリリスは何も知らないのだ。
同様に、彼もリリスの事をまださほど知ってはいない。
今の状況であまり軽はずみな行動を取るべきではないだろう。
そのくらいは、いかに考え無しのリリスにでもわかる。
彼女は掌に乗せた石をもう一度水溜まりに沈めると、石を入れていた小袋をサッシュからはずし、川に浸して水を汲んだ。
野宿場へ戻るまでの僅かの間だが、少なくとも水に沈めておけばそれはただの石でいてくれる。
次いでリリスはチュニックをめくり、中に着ている木綿のシャツの裾を裂いて、小さな布辺を作った。
それも水に浸し、石を拾い上げると布でくるくると巻いた。
最初にそれを見つけた時、果実酒の中で石は酒の染みた布に巻かれていた。
それと同じように、彼女は濡らした布の中に石を包み込んでいく。
きっちりと布の中に石を収めると、リリスは小袋に汲んだ水の中にそれを落とした。
袋の中で、ちゃぷんと小さな水音がする。
これでいい。
ひとまずはこれで。
野営地に戻れば彼女の荷物の中には水筒もあるし、小分けして持ってきた果実酒の小瓶もある。
コウには気づかれないように、そのどちらかに石を移し変えよう。
ブーツを拾い、裸足のまま川岸を離れたリリスの足取りは、まるで逸る鼓動に急き立てられてでもいるかのようだった。

[2010年 XX月 XX日]

inserted by FC2 system