Chapter.2-6

ミスチフがカイヤに命じて取ってこさせた冷たい飲み物を手持ち無沙汰にちびちびと喉に流し込みながら、ジリアンは落ち着かない思いで室内の最も目立ちそうにない片隅に置かれた椅子に腰かけていた。その隣では、保護者然としたミスチフが立ったまま華やかなサロンの様子を面白そうに眺めている。
カイヤはその脇に立ち、ぼうっと同じ年頃の着飾った少女達を見ていた。
ジリアンが室内へ足を踏み入れたとたんに広がったざわめきも、一時を経て徐々に静まり、客達の概ねはそれぞれに思うところのある様子をしてはいたものの、彼女の存在について当面無関心を装う事にしたようだった。
それはジリアンにとっては願ってもない事だったが、それで不慣れこの上ないこのような場から一刻も早く逃げ出したい思いが和らぐわけではない。
室内を占めているのは全員が会合に出席している重役たちの家族であるから、彼らのほとんどは女性ばかりだったけれども、中にはカイヤやセシアスと同じ年頃の子息や近しい親族の男性も混じっていた。
女性客達は各々そこここで談話に興じつつ、時折ちらちらとジリアンの方へ値踏みするような視線を投げかけてくるし、男性客となれば更にあからさまな興味を持って彼女を観察しているのがよくわかる。

「もう…いったいいつまでこうしていなければならないのかしら…。居心地が悪いったらないわ」

苛立たしげに呟くジリアンに、ミスチフが笑う。

「仕方ないですよ。あなたは今や宮廷中で話題の人ですからね。目立ちたくなくても目立ってしまう存在なんです」

「そんなこと、自分で望んだ事じゃないわ。絶世の美女というわけでも飛びぬけた才能があるわけでもない、ただの一介の司書にすぎないのに…。それもこれも、全部あの方のせいね」

「絶世の美女…とはいかないかもしれませんが、アナ殿はそこそこ美人と言えると思いますがね?」

「あら、それはどうも」

笑いながらミスチフが口にした冗談にムッとした表情で答えた時、突然それまで数人で固まって話していた若い女性達の中から、1人の少女がジリアンの方へ向かって近づいてきた。
驚いて見つめるうちに、少女は彼女のすぐ目の前までやってくると、にっこり微笑んだ。
少しとまどいながら、ジリアンも少女に微笑み返す。

「こんばんは」

少女は礼儀正しく挨拶をした。
キラキラと輝く明るい空色の瞳がジリアンをまっすぐに捉える。
その瞳の澄んだ透明さに、彼女は好感を抱いた。

「こんばんは」

ジリアンが挨拶を返すと、少女はうれしそうに眼を細めた。

「ジリアン・アナさんでいらっしゃいますよね?私、魔術騎士団第17部隊長、ランディオ・テス・フィンの娘、ミリア・テス・フィンです。お目にかかれて光栄です」

「まぁ、そんな…。私など、ただの資料館の司書にすぎませんよ。部隊長さんのお嬢様に光栄だなんて言っていただくような者じゃありません」

なんと答えていいのやらわからず、困惑気味にジリアンは答えた。
だが、ミリアはころころと鈴が鳴るような笑い声をたてて片眼をつぶって見せた。
どことなくいたずらな表情がとても愛らしい。
ミリアは瞳の色に良く合った深いブルーの夜会ドレスに身を包み、やや赤みがかったブラウンの巻き毛を高く結い上げていたが、大人っぽい装いの中にもまだ幼い面影が漂っていた。

「いいえ、私にとってはとても光栄です。私の周りで…あのヘルメス様にまったくご興味を持たれていない方なんて、他にはいませんもの。噂に聞いて、どんな方なのかずっとお会いしてみたかったんです」

ジリアンは言葉に詰まった。
自分では何も特別な事をしているつもりはないのに、周囲には思った以上に尾ひれがついて噂話が回っているようだ。
隣でミスチフが忍び笑いを抑えているのを横目で睨み、ジリアンは溜息を吐いた。

「何も特別な事じゃないんですよ。私はただ…自分の領分で静かにしていたいだけなんです。こういう…派手な席も苦手ですし、人付き合いも得意じゃありませんし…」

「すごく…控えめな方なんですね。想像してたのとちょっと違うな」

「あら…いったいどんな女だと思われてたのかしら?というか、皆そう思ってらっしゃるのかしらね?とても変わり者で偏屈な…それとも野心家だとでも思われていたのかしら?」

ジリアンがそう言うと、ミリアは真剣な表情で彼女を見つめた。

「もっと悪い事を言う人達もいます。それこそ、ヘルメス様を神のように崇めている人達もいますから。そういう人達はあなたがヘルメス様の言うなりにならないことを、まるで罪ででもあるかのように思っています。アナさんは…」

「ジリアンと呼んでくださって結構よ」

そう親しみを持ってジリアンに言われると、一瞬ミリアの頬にぱっと赤みがさした。

「ありがとうございます。ジリアンさんは、どうしてヘルメス様のお誘いを断り続けていらっしゃるの?それに、とても…不躾ですけれど…なぜヘルメス様はジリアン様にその……執着なさってるのかしら…?」

ジリアンは思わずくすくすと笑いを漏らした。

「ひとつの答えは簡単ね。他の方々がどう思われるかは知らないけど、私はフラメール様が…好きになれないから」

「どうして?」

「……どうして…かしらね?何というか、私にとっては感覚的なものだから説明ができないけれど…。強いて言うなら、怖い…からかしら」

「怖い…」

ミリアはその言葉をかみしめるように呟いた。

「もうひとつの答えは、私にもわからないわ。逆に…私が教えてほしいくらい。どうすればフラメール様が私を視界に入れないで下さるようになるか」

ジリアンがそう言うと、ミリアは眉間にしわを寄せた。
そうすると、愛らしい顔立ちの中に妙に大人っぽい思慮深い表情が浮かぶ。
少女が何か口を開きかけた時、サロンの扉が大きく開いて、数人の案内人に先導された会議の出席者一行が室内へ入って来た。
室内の賑やかさは一段と増し、あちこちで挨拶を交し合う声が上がる。
ミリアはジリアンの隣で彼女と同じように、扉から入ってくる集団にじっと眼を向けていた。
彼女の父だろうと思われる人物が、視線を彷徨わせた後にこちらに向かって顔を向け、驚いたような表情を見せた。
ミリアは首を傾げて小さく手を振る。

「父です。第17部隊長のランディオ・テス・フィン」

「…そういえば、お母様はどちらに…?」

「…いません。母は私がまだ小さい頃に亡くなりましたから」

「じゃあ、今夜はここへは…」

「父と2人で来ました。どうしようか迷ったんですけど…来てよかったわ。ジリアンさんにお会いできたから」

ジリアンは、まじまじと少女の顔を見やった。
つまり、この少女はサロンには連れもなく1人でやってきたという事らしい。
何とも豪胆な少女だ。
自分だったら、1人きりでこんな席へ出席するなど考えもつかない。

「ヘルメス様が怖いっておっしゃいましたよね?」

行き会う客達と挨拶を交わしながら娘のもとへとやってくる父親から眼を離さずに、ミリアは小声で言った。

「ええ、言ったわ」

「……私も同じです。私の場合は…少し違うかな。ヘルメス様ご本人が…というより、あの方に簡単に心酔してしまう周りの人達が…怖い」

彼女は父がすぐ目の前まで近づいていながら、とある婦人達の団体に捕まったのを機に父から眼を逸らしてジリアンへ顔を向けた。

「また…お会いできるといいなと思います。もっとゆっくりお話してみたいから」

「いつでも…図書資料館へ訪ねて来てくださいな。私はあそこに寝泊りしていますから」

彼女がそう言うと、ミリアは満面の笑みを浮かべて、父のもとへと去っていった。

「一風変わったお嬢さんだ」

ミスチフが興味を引かれたように言う。
ジリアンは父親を見上げて何かを話している少女の横顔を見ながら、「そうね」と頷いた。
その時、室内の空気がさらに華やかな雰囲気を増し、少し遅れてやってきたのか、ヘルメス・フラメールと共に、帝国専属魔術師の集団が入室してきた。
一番最後に室内へ足を踏み入れたヘルメス・フラメールは、部屋の一番目立たない隅にひっそりと座っている彼女の姿を見止めて満足気に微笑んだ。


*** ***


とてつもなく長い時間がたっている気がした。
狭く暗い階段を息を切らして駆け上がりながら、はたして自分が正しい道を選んだのかどうか不安になる。
薄闇の中で聞こえる自らの息づかいが、その不安な気持ちに拍車をかける。
固く握りしめた手のひらに不思議なぬくもりを感じて眼をやると、手の甲にうっすらと青白い光が透けて見えた。
そこには、先程の部屋で見つけた指輪がある。
セシアスは驚き、自分の握りしめているのが得体の知れない恐ろしいもののような気がして総毛だったが、石段を蹴る足を止めることはなかった。
やがてようやくのことで最後の段に足がかかり、湾曲した短い通路にたどり着くと、その先に扉が見えた。
少年は心から安堵の溜め息を吐き出して扉に駆け寄り、そのまま勢いに任せて押し開いた。
向こう側に誰もいなかったのは幸いだった。
気持ちの逸るがゆえに、その危険性は何一つ意識の中になかった。
開けた扉がどこへつながっているのかという不安すら、その時彼の頭の中には全くなかったのだ。
セシアスが扉を開けて飛び出したのは、柔らかく明るい光に満ちた空間だった。
自分がどこにいるのかわからず、少年は酷使された肺が酸素を求めて大きく伸縮するのを深呼吸で静めようと努力しながら、周りをぐるりと見渡した。
明るく柔らかな光に照らされた乳白色の壁と、左右に緩やかにカーヴを描いてのびている床。
どうやら、ここはヘルメス邸の回廊らしい。
だが、自分がいるのが1階なのか2階なのか、それともそれよりもっと上の階なのかはわからなかった。
回廊をどちらへ進めばいいのかも、彼には判断がつかない。
しかし、どちらかを選択し、進まなければならなかった。
セシアスは、迷った末に左手を選んだ。
今度は急ぎ足になりつつも、慎重に周囲の様子をうかがいながら進む。
しばらくすると、左手の壁がガラス張りに変わり、真っ暗な戸外の景色が眼に入った。
暗い中にも木々の葉や、綺麗に整備された下草の小道、花壇のようなものが室内の明かりにぼんやりと照らされて輪郭を浮かび上がらせているのが確認できる。
おかげでセシアスは、やっとここがヘルメス邸の1階の回廊であることを知ることができた。
ガラスの向こうは館の中庭だ。
彼はガラス越しに見える庭の、あまりの暗さに驚いた。
彼らが屋敷に到着した時、辺りは暮れかけてはいたけれども、空は晴れ渡っていたはずだ。
今は夜闇に包まれていて当然とはいえ、月明かりすら届かないほどとは解せなかった。

前方に眩い光に照らされた玄関ホールへ続く広間が見えた。
セシアスの緊張が一気に緩む。
これで何とか、延々と邸内をさ迷い歩き、とんでもなく面倒な厄介事にジリアンやオスカーを巻き込まずに済むだろう。
そうひとまず少年がホッと胸を撫で下ろした時だった。
セシアスの眼の端に、脱兎のごとく真っ暗な中庭から人影が走り来る姿が映り、次いでその人物は回廊の先のガラスの扉から派手な音をたてて駆け込んで来た。
息を切らし、上体をかがめて口元を押さえた男は、見間違いようのない炎のような赤毛をしていた。

「オスカー!!」

セシアスが叫ぶと、オスカーはびくっと体を震わせて、驚いたように少年の方へ顔を向けた。

「セシアス!!お前、いったいどこへ行ってたんだ!!」

セシアスはオスカーに駆け寄った。
何やらいつも通りではない傭兵の様子に、少年は不安にかられた。
もしかして、彼が勝手な行動に出てしまった間に何かとりかえしのつかないことが起こってしまったのでは?
オスカーの顔色は心なしか青ざめているように見え、口元を押さえていた手は微かに震えているように思えた。

「ごめん。どうしても…何か見つけたくて……もしかして、僕のせいで…何か起きた…?オスカー、顔色が悪いよ。」

心臓の鼓動が大きく耳に響く。
セシアスの不安は半ば恐怖に転じつつあった。
だが、オスカーはゆるゆると首を振り、上体をしゃんと起こすと天井を仰ぎ見て一瞬目を閉じ、すぐに厳しい顔つきでセシアスを見下ろした。
もうその手は震えてはいなかった。

「お前のせいでではなかろうが、何かが起きつつあることは確かだ。ここにいると、ヤバいことになりそうだぞ。お前の話は後でゆっくり聞かせてもらうとして、すぐに上階へ上がってアナ殿達と合流しよう。できる限り早々に屋敷を退散するんだ」

そう言いながら、オスカーは早々とホールに向かって早足で歩き出していた。
セシアスは反問する暇も与えられず、あわててその後を追う。
ホールへ出る直前に、ふと気づいて少年は左手に握り締めていた指輪を身に着けていた衣装の懐にある隠しポケットに忍ばせた。
指輪はすでに光るのをやめ、ただの彫り物が施された丸いリングに戻っていた。
オスカーに続いてホールへ出て行くと、案内したはずのない背後の回廊から出てきた客人に驚いた案内人が目を丸くした。

「どこからいらっしゃったんですか!?もう会議は終わって、皆さん宴席の間にお集まりですよ?」

「申し訳ない。ちょっと庭の空気を吸わせてもらいたくてね、テラスに出ていたんだ」

にこやかな笑顔でそう言うと、オスカーはセシアスを伴って階段を上がっていった。
案内人は訝しげな表情で二人が3階へと上がって行くのを見送った。
後々、このことはヘルメスの耳に入るだろう。
けれども、そんなことはかまうものか、とオスカーは思っていた。
たった今、庭で目にしたばかりの光景を思い出し、彼は思わず鼻にしわを寄せた。

“かまうものか……!もう俺は2度とこの屋敷には足を踏み入れない”

宴の間に近づくと、扉は左右に開け放たれ、玄関ホールにまでこぼれ出て届いていた音楽の調べと賑やかな人声がいっそう音量を増した。
室内へ入ろうとして、はたとオスカーは足を止めた。
そのまま、彼の背後で同じように立ち止まったセシアスを振り返り、声をひそめて顔を近づける。

「セシアス、室内には既にヘルメスがいるはずだ。俺の後ろに隠れて入って、なるべく顔を伏せて彼に見られないようにしろ」

少年は黙ってうなずくと、頭に巻いたターバンの布を目の上までひき下ろし、顎を引いた。
オスカーは「気をつけろよ」と短く囁くと、颯爽と背筋をのばして宴の間へ入った。
セシアスもそれに続く。
広間はまぶしいほどの光と、音楽、様々な客たちの声、あらゆる飲食物のにおいに満ちていた。
オスカーが部屋に入って来たことに気づいた数人の魔術騎士団の隊長が、声をかけてきた。
オスカーは彼らに丁寧に返事を返し、受け答えをしながらジリアンとミスチフ、カイヤの姿を目で探した。
結局のところ、総勢200人近くの人間が広い室内のあちこちを往来していた。
軽い雑談を交わしながら、右へ左へ視線を走らせていると、背後でセシアスがオスカーのチュニックの裾をそっと引いた。

「あそこ。一番奥の壁際のところ」

小さな声で少年が囁く。
オスカーがセシアスの言葉に従って目を向けると、広間の一番奥の目立たない片隅に、女性が一塊集団で輪になっているのが見える。
その中心に、輝くばかりの金の髪が濃紺のガウンの肩に滝のように流れ落ちる、魔術師の後姿が見えた。
おそらく、あのご婦人方が作り出している壁の向こう側に、ジリアン達はいるのだろう。
オスカーは“行くぞ”と言わんばかりに、後ろ手にぽんぽんと少年の腕を叩いた。


***


ヘルメスは彼女の姿を見留めても、すぐにはこちらへやって来ようとはしなかった。
有り難いことに、彼にもジリアンが自分の噂話が何かと人の口の端に上るのを快く思っていないという事は、一応理解されているらしい。
それだけは、おそらく彼にとっても同じなのだろう。
ヘルメスは宴席の正式なはじまりを告げ、会場を提供している主催者として軽く挨拶をし、乾杯の発声を促した後、しばらくは魔術騎士団の幹部や専属魔術師達、またその家族らに囲まれて談笑していた。
ジリアンはヘルメスの様子を観察しながら、広間の開け放たれた戸口へチラチラと視線を向け、一刻も早くオスカーの燃えるように赤い髪が現れることを祈っていた。
できれば、首尾よく紺碧の瞳の少年を伴って。
だが、彼女の願いはそう簡単には叶えられそうになかった。

オスカーが登場する気配のないまま、ごく自然に優雅な振る舞いで客達をあしらいながら、人の波を縫ってヘルメスは彼女の方へ近づいて来る。
その面には、女性でなくとも思わず溜め息が漏れそうな、魅惑的な微笑みが浮かんでいた。
ジリアンはきゅっと唇をひき結び、しっかりと背筋を伸ばして、座っていた椅子から立ち上がった。
ミスチフとカイヤも同時に居住いを正し、魔術師に頭を下げる。

「よく来てくれましたね。お待たせして申し訳ありませんでした」

ジリアンは極めて儀礼的な微笑みを返し、眼を伏せるように頭を下げて身分高貴な者に対する礼を示した。

「いえ、私は自分の職務を果たしただけですから…。ご希望の資料文書は間違いなくこちらへお届けいたしましたので…」

「やれやれ、ようやく招きに応じてもらえたと思ったら…。あなたは本当に困った頑固者だ」

ヘルメスは眼を細め、彼女のあくまでも事務的な受け答えに苦笑した。
けれども、そこで殊更に彼女に特別な執着を抱いているような素振りを見せるほど、彼は愚かではなかった。
大勢の人間の眼のある場所で、彼女に自分を否定させるような行為を許すわけにはいかない。
公の場において大切なのは、ヘルメスの権威に屈さずにいるのがいかに困難かを誇示する事で、実質的に彼女自身を手中におさめる事と、それは切り離しておかなければならない。
今や宮廷中で噂の種になっている彼女とヘルメスの話題に、これで一旦はケリがつくだろう。
結局、あの頑なな王立図書資料館の年若い司書長も、帝国一の魔術師の意向に逆らい続ける事はできなかった…と。

「何度も申し上げますが…私はこういう場そのものが、とても苦手なのです。お許しいただけるのでしたら、早々にお暇させていただきたいくらいですわ」

ジリアンは苦笑するヘルメスにわずかに眉を上げて見せると、そう言った。

「ですが、これからは少しは公的な場所にも慣れていただかないと…。今後あなたには出世の道が開かれているのですよ?上に立つ立場になっていけば、おのずとこういう席への招待も増える」

「私は…今の立場で十分に満足なのです。今以上を望んではいません。私は現場でのささやかな職務が何より好きなのですから…」

「まぁ、欲のないこと」

ジリアンが本気でそう言っているとは信じられないとでも言いた気に、忍び笑いを開いた扇子で覆い隠すようにして、1人の婦人がヘルメスの背後から近づいてきた。
一目でそれとわかる高価な絹糸で織られた夜会ドレスと煌く宝石で身を飾り、見事なまでに高く結い上げられた亜麻色の髪には無数の小さな真珠を散りばめたその婦人は、ジリアンよりも少し大柄で背が高かったが、美しく、自信に満ち溢れていた。

「リュー・シオン夫人」

振り向いたヘルメスが、にこやかに微笑みかける。
だが、その瞳に一瞬苛立たし気な光が走ったのを、ジリアンは見逃さなかった。

「こちらが、噂の最年少司書長さんですのね?」

リュー・シオン夫人は口元を覆った扇子の向こうで眼を細めて笑いながら、ヘルメスに訊ねた。

「ええ、大変有能で将来有望な司書殿です。ジリアン、こちらは帝国本部の魔術騎士団長、アルド・リュー・シオン夫人で…」

「アルマ・リュー・シオンよ。よろしくね、ジリアン・アナさん」

アルマはほんの少し扇子の向こうで顔を傾け、そう名乗った。
いかにも高慢なその仕草に、内心ジリアンは不愉快だったが、そんな思いはおくびにも出さず、ヘルメスに対してそうしたのと同じように分相応に正しく礼を示した。
アルマは彼女のその遜った控えめな所作に満足したようだった。
すると、アルマの動きをきっかけにしてか、それまで遠巻きにジリアンを眺めてはこそこそと耳打ちしあっていた婦人達が、次々に彼らの側へとやってきた。
もちろん、主たる目的はヘルメスに近づき、ほんの少しでも言葉を交すということなのだろうけれども、彼女達は一様になかなかヘルメスに心を動かされないジリアンに対しても、それぞれ多かれ少なかれ興味を抱いていたので、アルマ同様着飾った姿を質素ななりのジリアンに見せつけるようにしながら、あっという間に彼女の周囲を取り囲んでしまった。
何組もの含みのある視線が彼女の上に注がれ、ジリアンは息が詰まりそうな不快感と遠まわしではあるが遠慮のない彼女達の質問に耐えなければならなかった。
ミスチフは何とかその状況から彼女を助け出したいと思ってはいたものの、ヘルメス・フラメールばかりでなく、この婦人達の一団をどうあしらったものか考えあぐねてしまう始末で、カイヤと2人ジリアンの後ろで同じように取り囲まれたまま、何とか抜け出すための好機を伺うばかりだ。

ややあって、ひとしきりご婦人方のご機嫌をとりむすぶと、ヘルメスは穏やかに「ではそろそろ……」と切り出した。

「届けていただいた文書類を確かめに行きましょうか。少しあなたにお話しなければならないこともありますしね」

その言葉を聞くと、ミスチフはひそかに心の中で舌打ちした。

“まずいな…”

このままヘルメスにジリアンを伴われてしまったら、彼らは彼女と引き離されてしまうだろう。
任された以上、オスカーに言い訳はできない。
どうしたものかとミスチフが思考をめぐらせはじめた時、彼はカイヤがそっと袖を引くのに気付き、眼だけでカイヤの方を向いた。
従者の少年は、同じく視線だけで彼らの待ち望んでいたものを指し示した。
部下の視線の先を追って、ミスチフはこちらへ向かってまっすぐに進んでくる上官の炎のように赤い髪を見、ほっと胸を撫で下ろした。
彼らと同じくジリアンも、オスカーと、そして麻布のターバンに顔を隠した少年の姿を見出だし、思わず安堵の表情を浮かべる。
それは、当然のことながらヘルメスにも伝わり、魔術師は面に浮かべた微笑を崩すことなく彼らの視線の先へ顔を向けた。
その眼は人目を惹く赤い髪を捉え、次いで彼の後ろに身を隠すように従っている少年へと移った。

少年の姿を捉えた途端、ヘルメスの眼は訝しげにゆっくりと細められた。
面にはあくまでも穏やかな微笑を浮かべたまま、魔術師の眼は一瞬暗く怪しい光を宿し、射抜くようなその視線にジリアンは息を呑んだ。
周囲を取り巻いていた婦人方も、近づいてくる赤毛の傭兵に気付き、そちらへ眼を向ける。
中には、うれしそうに顔をほころばせる婦人もいた。
オスカーは、彼ら自分達に気付いたと見るや、少年の方へちらりと視線を投げて何事か囁き、少年はそれに頷いて頭を下げ、くるりと身を翻した。
そのまま彼は入ってきた扉口へと引き返して行く。
ミスチフは、それを見ると隣に控えていたカイヤにもそっと耳打ちした。

「お前も行け」

カイヤは短く返事を返すと、上官の命令に従って、すぐにその場を離れた。
カイヤが婦人達の輪を何とかくぐり抜けて抜け出したところへ、ちょうどオスカーがたどり着いた。
すれ違うカイヤの肩をポンと一度叩くと、ミスチフに向かって眼だけで頷く。

「お待たせして申し訳ありませんでした。アナ殿」

オスカーは明らかにほっとした表情のジリアンに笑顔でそう言うと、ヘルメスの方へ向き直り、頭を下げた。

「フラメール殿、大変申し訳ないのですが…失礼を承知で、諸事あって彼女を今すぐ図書資料館へお送りしなければなりません」

オスカーの唐突な申出に、ヘルメスは眉一つ動かさず、わずかに首を傾けた。

「おや、それはなぜかな?今夜あなたが彼女をエスコートする役目を負っているとは知らなかった」

様々な思惑を含んだ声音と視線。
ヘルメスはオスカーの眼を見据え、相変わらず微笑んではいたが、その表情はどこまでも無機質だ。
オスカーは静かに息を吸い込み、ヘルメスの底知れぬ濃緑の瞳を真っ直ぐに見返すと、声をひそめて囁いた。

「庭を…ご覧になられるといい。私は彼女を無事に連れ帰ると…約束しているので」

オスカーの返答に、ヘルメスの顔色が一瞬変わった。
彼はオスカーに据えていた眼をそらし、ぐるりと室内を見渡した。
誰かを探しているようだ。

「お早く、対処を」

オスカーは短い言葉をヘルメスに投げると、素早く立ち尽くしていたジリアンの手を取り、その場を離れた。
ミスチフも影のようにそれに従う。
ヘルメスは眉根を寄せたが何も言わず、自らも婦人達をあしらって扉口へ向かった。
結果、ヘルメスとオスカー、ジリアン、ミスチフは連れ立って宴席の間を出ることになり、ヘルメスは足早に歩きながらオスカーに問うた。

「何を見た?」

オスカーが答えようと口を開きかけた時だった。
耳をつんざく轟音が響き、屋敷そのものが大きく揺れ動いた。
回廊を階段ホールに差し掛かっていたところで彼らは全員立ち止まり、激しい揺れによろめいたジリアンをオスカーが支えた。

「何!?」

思わず、彼女の口から驚いた声が漏れる。
同時に、彼らの背後では宴席の間で大勢の悲鳴と怒号が上がっていた。
揺れはなかなかおさまらず、地を這うような地響きに体の芯まで揺さぶられて、ジリアンはオスカーの腕にすがりついた。
ヘルメスは、今や彼女が見た事がないほど冷徹で無感情な顔で、激しい揺れをものともせずに階段を飛ぶように下りた。
その動きは眼を見張るほど軽やかで、彼はほんの数回階段を蹴っただけで、長いガウンの裾をはためかせて玄関ホールへ降り立っていた。
ホールには、館の案内人が数人と、先に宴席の間を後にしていたセシアスとカイヤが凍りついたようにしゃがみこんでいる。
あまりの揺れの激しさに、立っていられないのだろう。
突然目の前に降り立った魔術師の姿に驚き、2人の少年は大きく眼を見開いて顔を上げた。
その瞬間、ヘルメスがセシアスの瞳を捉えた。
濃緑の中に潜む暗黒の闇。
魔術師の瞳の中に少年の紺碧の瞳が写り、そのまま彼らはほんのつかの間見つめあったまま身動きもしなかった。
正確には、身動きできなかったのだ。
少なくとも、セシアスは。
彼は、魔術師の眼に捉えられた瞬間に、まるでその眼に吸い込まれるかのような錯覚をおぼえた。
自らの意思ではそらすことが叶わない、有無を言わさぬ力がそこにはあった。
だが、ヘルメスが彼の眼から自由を奪っていたのはそれほど長い時間ではなかった。
魔術師はガウンを翻すと玄関ホールの奥へ進み、テラスのガラス扉を開けて中庭へと姿を消した。
少年の瞳を解放する刹那、魔術師の唇はわずかに微笑を形作っていた。

「セシアス!!」

ようやく、オスカーに半ば抱きかかえられるようにして階段を下りてきたジリアンが、少年に駆け寄る。

「よかった……!!」

彼女は吐き出すようにそう言うと、セシアスを両腕に抱きしめ、すぐに解放した。

「長居は無用だ。行くぞ!!」

オスカーはヘルメスが消えたテラスの扉を横目で見ながら、全員を促した。
開かれたままのガラスの扉からは、黒い霧しか見えない。
その霧は、少しずつ屋敷内へ流れ込んで来ているように見えた。
オスカーは密かに身震いし、まだ揺れつづけているヘルメス邸から全員を連れて外へ出た。
彼らが連れ立って、もつれる足を庇い合いながら外へまろび出る頃には、階段上のホールには何人もの騎士達が駆け出てきていた。

外へ出ると、彼らは急いで館から離れつつ、振り返ってヘルメス邸を振り仰いだ。
象牙色の豪奢な屋敷は、その外観こそ訪れた時そのままであったが、明らかに異変をきたしていた。
建物の中心から天に向かって、黒い禍々しい靄の柱が竜巻のようにのびている。
上空一面を黒い暗雲が覆い、細い金色の糸のような光が、幾筋も煌きながら天空へ向かって上っていく。

「いったい…何がおきてるんだ……」

呆然と、その様子を見つめながらミスチフが震える声で呟いた。
その時、暗雲に包まれているはずの天空が目も眩む強烈な光を放ち、先程とは比較にならないほどの凄まじい音と共に、輝く稲妻がヘルメス邸を襲った。
光の矢は天空からまっすぐに館の中庭へ突き刺さり、その衝撃の強さに彼らは全員耳をふさいでその場にかがみこんだ。
まるで、怒れる魔物の咆哮のように、その轟音は彼らの頭蓋骨を揺さぶり、思考能力を奪った。
どんなに強く眼を閉じ、耳をぎゅっと塞いでも、それから逃れる術は無い。
オスカーはジリアンを腕に庇い、ジリアンはセシアスの頭を胸に抱え込むようにして、全員が自らの耳を両手で覆っていた。
音と揺れの嵐が脳内で荒れ狂い、彼らは吐き気と共に意識が薄れていくのをどうすることもできなかった。
最後の意志の力を振り絞り、薄く眼を開いたセシアスの眼に、ヘルメス邸の上空に浮かぶ黒い霧の塊が稲妻の閃光に浮かび上がるのが映った。
黒い霧は一瞬の光の煌きの中に影を残し、すぐに霧散した。

“…竜…?…”

少年の意識は、最後に眼にした影の姿を瞼に焼き付けた後、あっけなくぷつりと途切れた。

[2009年 XX月 XX日]

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