[2006年 XX月 XX日]
いいかげん待ちくたびれたジリアンが疲れた神経を休めるためにお茶を淹れようとしかけた時、ようやく部屋の扉が叩かれ、留守居役を頼んだ司書の一人が迎えの到着を告げた。 あたりはすっかり暗くなり、空には白く輝く月が姿を見せている。 ほっとして迎えの者に荷運びを頼むと、ジリアンは留守を任せる五人の司書にあれこれと指示を出してから、御者の手を借りて馬車へ乗り込んだ。 文書の運搬のためにヘルメスがよこしたのは身体つきも大きく力の強そうな男たちが三人で、彼らはジリアンが一人で運んだら数時間はかかりそうな重い木箱をいとも軽々と持ち上げ、一人が一箱ずつを悠々と馬車の荷台に積み上げた。 ジリアンはその馬車に一人で乗り、男達は各々自分の馬にまたがって、月明かりに浮かび上がる図書資料館を後にした。 広々とした馬車の内部は座席も全て滑らかな手触りの深い紅色のビロード張りで、同じく淡いクリーム色のビロードのクッションとカーテンに彩られた快適な設えであった。 華美すぎずゆったりとした車内の空間は、宴席に出席する前から既にひどい疲労感に襲われていたジリアンにひと時の安らぎと安堵をもたらした。 柔らかく厚みのたっぷりあるクッションに身を沈めると、自然に瞼が重くなり、意識が途切れがちになる。 しばらくは窓から見える外の景色を眺めて眠ってしまわないよう意識を集中させていたが、次第にじわじわと押し寄せる猛烈な睡魔に負け、ジリアンは朦朧とした意識の中で夢を見はじめた。 それは不思議な夢だった。 夢の中で、彼女は鳥になっていた。 いや、正確には鳥の視点から世界を見ていた。 彼女の視界、眼下には荒涼とした山間部の大地が広がり、険しい山の峰や濃い闇のように見える森が岩の間に模様のように点在していた。 長い長い距離を、彼女はその視点のまま飛び続けていた。 夜の風は涼やかで心地よく、身を撫でる空気は肺が洗われるかと思うほど澄み渡っていた。 やがて、ごつごつした岩場がなだらかな丘陵と草原、鬱蒼と繁る森や小さな湖のある風景へと変わりはじめたころ、ジリアンの眼が疾風のごとく馬を駆る青年の姿を捉えた。 矢のように駆ける馬の背にぴったりと身を伏せた青年は、赤茶色の短い髪を風に乱されながら、厳しく決然とした表情で真っ直ぐに前を見据えていた。 その姿を眼にした瞬間、ジリアンの中に言い知れぬ胸騒ぎと不思議な感情が湧きあがった。 知っている顔ではない。 今までに一度たりとも会ったことのある人間ではなかった。 にもかかわらず、なぜかジリアンはその青年を知っているという気がした。 彼の眼、彼の声、彼の手のぬくもりをすら、とてもよく知っているという確信めいたものがどこかにあった。 なぜかはわからない。 だが、ジリアンは理屈では計ることのできない自らのその感覚をあえて否定する気はなかった。 所詮、自分は夢を見ているのだ。 がたん、と馬車が揺れ、御者が車輪に石を巻き込んだためにおこった、小さな衝撃を詫びる声が届いた。 眠りの浅い夢から現実へ引き戻され、御者にはっきりしない声で返事を返すと、ジリアンは軽く頭を左右に振って居住まいを正した。 座席に深く掛け直し、背筋をしゃんとのばす。 こみ上げてくる欠伸をかみ殺してジリアンは車窓にかかるカーテンをすべて開き、窓の外へ視線を向けた。 馬車は既にフラメール邸へと続くマルータの林を走っていた。 枝と木の葉の間から差し込む月明かりがうっすらとあたりを浮かび上がらせてはいても、木々に覆われた林道はほんのわずか先も見通せないほど暗く、馬車の戸口に吊るされた小さな灯りが心もとなく感じられる。 先程まで見ていた夢と現が交じり合い、木々の合間に馬を駆る青年の姿が今にも見えるのではないかという錯覚にとらわれながら、ジリアンは行く手に見え隠れしはじめたフラメールの屋敷に眼をやった。 彼女がヘルメスの私邸を訪れるのはもちろんこれがはじめてであったが、人の噂でその豪奢さは耳にしている。 木々の枝の向こうに見える、天空へ伸びた象牙色の塔は、月光に照らされてやや青白く、だが自らの内に秘めた光の波をゆっくりと放出するかのように、淡く輝きを放っていた。 その塔の上から顔をのぞかせるユーツリーのしなやかな枝が上空に向かって伸び、風に揺られている。 夜空を背に浮かび上がるヘルメス邸の姿は、その主に恥じぬ幻想的な美しさを誇っていた。 ジリアンもこのヘルメス邸の見事な外観にはさすがに眼を見張るばかりであった。 馬車は先導する男達の馬に前後を挟まれた形で走り、真っ直ぐに正面玄関前へ向かう。 林を抜けてしまうと、全貌をあらわにしたヘルメス邸を感嘆の思いで眺めていたジリアンの眼に、時折奇妙なものがよぎるようになった。 一瞬の事で、それが本当に見えたのかどうかもしかと断言はできなかったが、馬車が館の玄関に着くまでの間、何度か金色の非常に細い光の筋がヘルメス邸の壁面を下から上へ駆け抜けていくのを見たような気がしたのだ。 馬が足をとめ、御者の手を借りて馬車を降りる時も、俯いて足元を見る眼の端で瞬間的に糸のように細い光の残像を感じた気がした。 “何なの・・・?” 御者と馬を降りた男達が、積み込んでいた書物の箱を荷台から下ろしている間、ジリアンは戸惑いながらあちこちに視線を彷徨わせた。 すると、ふと頭上を見上げた時、天へ向かって力強く伸びているユーツリーの枝の最も高い位置にある枝先に、黒く微かな霧のようなものが漂っているのが見えた。 注意深く眼を凝らして見なければ気づくのが難しいくらい、小さな変事だった。 枝は風に身を揺らしているのにもかかわらず、それは枝の動きに合わせて風にたゆたい、そこを離れていこうとはしない。 枝に何かがひっかかっているのかとも思えたが、下から見上げているだけではその実態を推し量る事はできない。 「どうかなさいましたか?」 じっと天を仰いだままのジリアンに、荷を下ろし終えた男の一人が声をかけた。 はっとして、ジリアンは視線を地上へもどし、木箱の前に立つ男達を振り返った。 「ああ、すみません。何でもありませんわ」 「では、どうぞ中へ」 促されてジリアンは正面玄関の扉で待受けている扉番の方へ向かった。 その後を追いかけるように突然強い風が背後から吹き付け、ジリアンの緩くまとめた髪を乱した。 何ともいえず漠然とした不安を感じ、思わず身震いが出る。 「ようこそ、いらっしゃいませ」 扉番の愛想のよい笑顔に作り笑顔で応えつつ、ジリアンは肩にかけた外出用の薄いショールをぎゅっと握りしめ、扉をくぐった。 *** *** 「あの馬鹿、一体どこへ行っちまったんだ!?」 押さえつけた憤りを面には出さず、オスカーは嘆息と共に言葉を搾り出した。 カイヤが思わず身を竦める。 とろとろと夢現で突っ立っている間に、セシアスの姿は影も形もなくなっていた。 それを自分の責任ではないと言い逃れようとは思わないし、できないが、上官の怒りを抑えた声音を耳にすると、やはり勝手な行動はとらないと約束したはずのセシアスの裏切り行為を恨めしく思わずにはいられない。 宴席への移動を促され会議室を出たオスカーとミスチフは、階段ホールまで来てそこで慌てふためくカイヤ一人を発見した。 カイヤには一体いつ頃からセシアスの姿が見えなくなったのか、まったく見当がつかなかった。 少なくとも会議が始まる頃にはこの階段ホールにいたはずだが、ほぼ同時にここを離れたのだとすれば、意図的にせよ偶発的にせよ、結構な時間少年は屋敷のどこかを彷徨っている事になる。 面倒な事にならないうちに、早々に見つけ出しておかなければ。 ヘルメスに宴席サロンへの案内を申しつけられた使用人には、自分達だけで部屋までたどりつけるからと言って持ち場へ戻ってもらっていたので、まだセシアスの勝手な探訪は家人には知られていないだろうが、その確証はない。 とはいえ、どうやってどこにいるのかわからないセシアスを探せばいいのか。 「どうしましょうね?従者が迷子になるなんて、この屋敷じゃそれほど珍しい事じゃないでしょうから、誰かに言って探してもらった方がいいでしょうかね?」 「だが、もしアイツが何か困った事をしでかしていた場合、その現場を抑えられる事になっても困るしな・・・」 ミスチフの言葉にオスカーが応えた時、下階の玄関ホールで人声がした。 全員が一斉に手摺から顔を出して下を覗く。 ホールには扉番に案内されて、簡素ながらも美しく装ったジリアンがちょうど入ってきたところであった。 「アナ殿!」 オスカーがよく通る声で呼ぶと、ジリアンはすぐに顔を上へ向け、階段ホールから覗き込む三人の姿を捉えて安堵したように微笑んだ。 けれどもすぐにセシアスがいない事に気づいたのだろう、次の瞬間彼女の眉が怪訝そうに寄せられ、表情が曇った事をオスカーは見て取った。 「ジリアン・アナ様でございますね。お待ちしておりました。お着きになられたら、まずは宴席でおくつろぎいただくようにと主から申し付かっております」 濃緑のチュニックを着た案内人が、にこやかにジリアンに話しかけた。 上を見上げていたジリアンは慌てて顔を戻し、案内人を見た。 セシアスとそう歳は変わらないだろうと思われる、綺麗な顔立ちの少年だ。 「お持ちした書物類は・・・?」 「別の者たちが馬車から邸内へ運び入れますので、ご安心ください。主はまだ会合の最中ですが、終わり次第皆様とご一緒に参りますので」 案内人の少年は、ホールの左の階段へと彼女を導いた。 「アナ殿、我々もこれから宴席へ向かうところです。ご一緒しましょう」 階段ホールから下へ下る階段へ向かいながら、オスカーが声をかける。 ジリアンは頷いて三階へ上がる階段の前で案内人と共に待った。 オスカーたち三人が合流すると、ジリアンはすぐさま口を開きかけたが、オスカーに眼差しと軽い身振りでそれを制され、仕方なく何事もなかったような顔で案内人の後に従った。 三階の廊下でようやく案内人からある程度離れて歩くことができたので、ジリアンは小声ですばやくオスカーにたずねた。 「セシアスは?」 「わからない。邸内のどこかを探索中らしい」 「なんですって!?」 「しっ!」 思わず大きな声を出しそうになるジリアンにオスカーが注意を促す。 「確証はありませんが、まだアイツがふらふらしていることは誰にも気づかれていないと思います。とにかく、厄介な事にならないうちに探し出さないと…」 そこまで言って、ふと思いついたようににやりとオスカーは笑った。 「そうか…アイツを探すという名目でちょっとくらいなら俺達も屋敷内をふらついても大丈夫かもしれんな…ヘルメス殿が会議中の間だけは」 「ですが、どこをどう探せばいいのか…」 ミスチフが渋い顔で呟く。 「とりあえず、どこからどっちへ行ったのかくらいは想像できるぞ?」 「え?」 「考えてみろ、上階へ上がる階段の構造は、左右で一階層ずつ別になっている。二階へ上がる階段からは三階には上がれないし、四階へはどちらの階段も通じていない。四階へはまた別の場所からでなければ上がれないんだろう。つまりもしあいつが三階へ上がろうと思ったなら、俺達と同じようにいったん玄関ホールへ降りてからもう一方の階段を上らなければならない。おまけに、三階へつながる階段全体が見えるところにはカイヤが立っていたわけだから、いくら半分居眠りしていたとはいえ、さすがにセシアスが通ればわかるはずだ。 ということは、アイツは二階の、多分会議室があるのとは反対方向の廊下を進んだと俺は思う」 「なるほど、ごもっとも」 「ただ、筒型のこの建物の構造を素直に捉えれば反対側の廊下を進んでもいずれは俺達のいた会議室の前を通ってまた階段ホールに出ることになるはずだ。そうなっていないということは、廊下が素直に円形に繋がっていなかったか、あいつがどこかの部屋に入り込んだり、上か下へ通じてる階段でも発見したかでそっちへ行ってしまったか、まあそんなところだろう」 「どうするんです?」 案内人に聞こえないよう抑えた声でジリアンが囁く。 すでに宴席の賑やかなざわめきが漏れ聞こえる広間の扉はすぐ目の前に迫っていた。 「ミスチフ、頼めるか?」 オスカーの短い問いの意味を、副隊長は即座に理解した。 「もちろん。カイヤの名誉にかけて」 思わず、えっ?という顔でカイヤが見あげると、ミスチフはそ知らぬ顔をして上官に片目をつぶって見せているところであった。 ミスチフが答えるが早いか、オスカーはくるりと踵を返し、階段ホールへと引き返して行った。 ちょうどその時、案内人の少年が広間の扉を開けて一同を振り返り、遠ざかっていくオスカーの背中を見とめて怪訝そうに首を傾けた。 「どうかなさいましたか?」 「いや、隊長は先程会議室のとなりの従者控え室に忘れ物をしてこられたそうなんでな、取りに戻られた」 ミスチフが軽く笑って答える。 「お申し付けくだされば私がお持ちしましたのに…」 「“自分の面倒は自分でみる”というのが傭兵の性分でな。まさか迷子になることもあるまいから、気になさるな」 案内人はそれでもやや不満気な様子であったが、それ以上は何も言わず残る三人を室内へと招き入れた。 室内には華やかな音楽と、にぎやかな談笑が細波のように広がっていた。 建物の形に沿う扇形をした広間は暖かな光に満ち、そこかしこに配された円形のテーブルの上には趣向をこらした贅沢な料理が所狭しと並べられ、どんな好みにも応じられるようありとあらゆる飲み物が用意されていた。 ゆったりとしたソファーや洒落た装飾の椅子が何脚もほどよい距離を保って置かれており、人々は思い思いの席に陣取って、あれこれ食べ物をつまみながら楽し気に話に花を咲かせている。 ミスチフ、カイヤとともにジリアンが入っていくと、一瞬人々のざわめきが止み、皆の視線が一斉に一同に注がれた。 今や、宮廷中に知れ渡る噂の渦中の人物を知らない者はない。 様々な思惑と感情の入り混じった好奇の目、一瞬の静寂の後に広がった彼らの囁き交わす密やかな声、あまりにも予想通りなその光景に、ジリアンは静かに溜息を吐いた。 *** *** 一人廊下を戻ったオスカーが階段ホールまでたどりつくと、手摺の格子の間から一階のホールを足早に横切る人影がちらりと見えた。 急いで手摺から下を覗き込むと、人影は左右の階段の間を抜けてホールの奥へと消えたようだ。 一瞬眼の端にうつった重々しく翻る濃紺のガウンの裾が見間違いでないなら、それは皇帝専属魔術師のいでたちだ。 ヘルメスだろうか? いや、ヘルメスならばもっと上背が高いし、何よりも見事な金の髪がはっきりと目立つはずだ。 今ホール奥へ姿を消した人物は、一瞬のことで確信は持てないが、ずいぶんと小柄でほっそりしていたようだった。 おまけに、何だかこそこそしていたようにも思える。 階下の様子からは会合が終了したような気配も伺えない。 誰だかわからないが、会合を抜け出してきた専属魔術師だろうか? オスカーは直感的に妙だと感じた。 一足飛びに階段を駆け下り、周囲に気を配りながら素早く人影が消えたホールの奥へと後を追う。 階段の間を抜けたホール奥正面のつきあたりは中庭へ続くテラスの出入り口になっており、そこからは上階と同じく左右へ分かれた回廊が伸びている。 人影はどちらへ進んで行ったのかわからない。 その時、オスカーの頬をひんやりとした空気がかすめ、同時に埃っぽい雨風のにおいが微かに鼻先をくすぐった。 “庭か?” オスカーはテラスへ出られる、天井まで届く華奢な両開きの硝子戸を押してみた。 鍵はかかっておらず、戸はすっと音も無く開いた。 どうするか、ほんの一呼吸の間迷ったが、オスカーはそのままテラスへと足を踏み出した。 後ろ手にそっと戸を閉め、硝子越しに見える光に満ちた玄関ホールを振り返る。 先程彼らを宴席の広間に案内してくれた少年が三階へ続く階段から降りて来て、ホールの真中あたりで立ち止まる姿が見えた。 オスカーはそのまま案内人の様子を伺いながら静かにテラスから離れ、中庭の暗闇の中へと紛れこんだ。 気づかれそうな恐れは無いと踏むと、闇に眼を慣らすべく一点じっと庭の暗がりに眼を向ける。 それまで光に満ち溢れた邸内にいた眼には、中庭は異常なほど暗く感じられた。 僅かに屋敷の窓から漏れる明かりがかろうじて周囲の様子を浮かび上がらせる手助けをしてくれてはいるが、それでも木々の陰を見分けられるようになるまでにはしばらく時間がかかった。 夕刻ヘルメス邸へ出向いてきた頃には雲ひとつない晴れ空であったはずなのに、月明かりすら差していないところをみると、天候が急変でもしたのだろうか? 先程感じたほのかな雨のにおいは、それを示唆するものだったのかもしれない。 暗がりに少し眼が慣れてくると、オスカーは一旦ぐるりとあたりを見渡した。 闇に沈んだ中庭がどのくらいの広さになるのかはよくわからなかったが、彼の立っている足元には綺麗に刈り込まれた下草の上に石版で造られた小道が整備されており、明るい時に見れば様々な種類の木々や草花がこの遊歩道を歩く人の目を楽しませるよう配されているに違いなかった。 だが今は木々の影が黒い壁となって視界を遮り、そこにあるはずの草木の色も精彩を消している。 この暗闇の中で、目指す人影を見出すのは困難と思われたが、それでもオスカーは周囲の様子を伺いながら、庭の深部へと進んで行った。 ヘルメス邸の代名詞とも言える有名なユーツリーは、この庭の中央あたりに植わっている。 庭内は中庭としては思いの他広かった。慎重に足音を消し、自らの気配を殺しつつ歩を進めていくと、やがて件の巨木が眼前に現れた。 石版の小道から少し離れた、下草のない土が剥き出しになった小丘から、三本の木々はのびていた。 盛り上がった小さな丘は、長い年月の間に根の節々が土を押し上げてできた根と土の塊で、そこから根は更に脈のように張り巡らされ、地中深く無数の触手を食い込ませている。 木の幹の周囲は、一本でも大人の男が四〜五人両手を広げて囲いきれないほど太く、三本が身を寄せあう姿はまるで闇にそそり立つ柱だ。 噂には聞いていたものの、実際に目の当たりにするとその巨大さと樹齢を重ねた堂々たる姿に圧倒される。 “こりゃ、すげえな…噂以上だ…” 感嘆の想いと共に、遠巻きに寄り添う三本の幹の周りをゆっくりとした歩調で周ってみる。 そのまま徐々に視線を上へ転じていくと、眼を見張る光景が飛び込んできた。 見上げた上空、三本それぞれの樹から天を目指して広がっているはずの枝葉がまったく見えない。 それぞれの樹の一番低い枝でもオスカーの背丈より数倍もの高さからのびていたが、その枝の半ばから上が、すっぽりと真っ暗な闇に隠れて見えなくなっていた。 眼を凝らしてよく見てみると、木々の上空全体が何やら黒い霧か雲に似たものに覆われている。 いやユーツリーだけでなく、おそらく中庭の上空全体をこの黒い霧が覆っているのだろう。 だからこそ月明かりも届かず、庭内は暗闇に沈んでいるのに違いない。 黒い霧のようなものは徐々に下へ向かって漂い落ち、それ同士が絡み合ってはどんどんその濃さを増してくる。 “一体、あれは何なんだ!?” 見ているうちに、やがて不気味な黒い霧は蛇のように身をくねらせながらゆっくりと幾筋かの細い軌跡を描いて木々の根元へ達した。 そして、地表に触れるとそのまま水が大地にしみこむごとく、するすると土中に吸い込まれていく。 オスカーは我知らず後ずさり、じりじりとユーツリーから身を遠ざけたが、眼は不気味な黒い霧から離れない。 今や三本のユーツリーの根元には何本もの細い霧の糸が無数に垂れ下がり、太い幹をカーテンのように包み込もうとしていた。 尚も眼を離せずに見守るうちに、今度は細い糸状の霧の中を更にか細い金色の光が、時折霧の流れに逆らって下から上へと走っていくことにオスカーは気づいた。 それはまるで遠くで閃く雷光のように一瞬の瞬きと共に消え去るのだが、眼を閉じていてもはっきりそれとわかるほど強烈な残像をオスカーの瞼に焼き付けた。 陽気で豪胆なはずの傭兵の後ろ首が総毛だった。 何かがおこる予感が確信に変わった瞬間であった。 *** *** 細く狭い階段を、足音をたてないよう細心の注意を払いながら下る。 ここまで彼を導いてきた不思議な影は、薄闇の先を照らしてくれる事もなく、階下の闇に浮かび上がる事もない。 この階段が一体どこへ続いているのか想像すらつかないまま、セシアスはひたすら冷たい石段を下り続けた。 階段は屋敷の外周に沿っているのか、緩やかながら湾曲していた。 壁も階段も同じ大きさのごつごつした石が積み上げられて出来ており、目印になるような変化は何も無いが、明かりとりの小窓さえないにもかかわらずセシアスの眼が周囲の様子を伺えるのは、不思議な事に壁と床面全体がほんのりとわずかながら光を放出しているためらしい。 次第に、どれだけ進んでもどこへもたどり着けないのではないのかという錯覚が、邸内の回廊を彷徨った時と同じく頭をもたげてくる。 とはいえ、セシアスには先へ進むより他できる事はなかった。 今ごろカイヤは彼が姿を消してしまった事に気づいて慌てているだろうか?オスカーの会合は終わってしまっているだろうか?何より、ジリアンはもう邸に到着したのだろうか? 様々な想いが湧き上がっては消え、不安な気持ちに拍車をかける。 その想いを振り払うべく深く息を吐き出した時、ようやく少年の足が段の途切れた床を踏みしめた。 その先には、細く長い通路がのびている。 セシアスはいくぶんほっとして、そのまま歩を進めた。 しばらく行くと、通路の先に小さな扉が一つあるのが見えてきた。 それと同時に、扉が通路のつきあたりになっており、そこから左手にぽっかりと空間が口をあけている事にも気が付いた。 足を速めて扉の前までたどり着くと、左手にある空間は更に下へと続く石組みの階段であった。 今下りてきたものよりさらに幅が狭く、その先は足元さえ見えないまったくの暗闇である。 見ているだけで吸い込まれていきそうな濃厚な闇は、そこにあるだけでセシアスの肌を粟立たせるのに十分不吉な気配に満ちていた。 つとめてそちらを見ないよう闇から眼を背け、とりあえず正面に対峙した扉に顔を向ける。 進む道をどちらか選択しなければならないとしたら、あえて闇の階段を下りるより、この扉を開く方がまだ安全だろうと思われた。 もときた階段を上へ戻るという選択肢もあるが、それではここまで来た意味が無い。 意を決して、セシアスは恐る恐る扉の取っ手に触れてみた。 ひんやりした鉄の感触と、ざらざらした錆びのなじみのある手触りが、一瞬少年の安堵を誘う。 取っ手を下へそっと押すと、ギイイ…という重苦しい音と共に扉は内側へ開いた。 僅かに開いた扉の隙間から内部を伺うが、もちろん明かりのない室内の様子はよくわからない。 さらに扉を押して隙間を広げる。 中に誰かがいないとも限らないので、用心しいしい扉の内側へ半分ほど顔を出す。 通路同様、薄暗い室内には動くものは何もなさそうだった。 思い切って、セシアスは押し開けた扉の隙間から身を滑り込ませ、室内に入ると後ろ手に扉を閉めた。 忙しなく息をついて周りに目を配る。 階段・通路と同様、ここも薄い闇に包まれてはいたが、かろうじて物の見分けはつけられる。 幸い、室内には誰もいないようだった。 見たところ、部屋はさほどの広さはなく、どうやら何か作業のための準備に使われる小部屋のように思われた。 部屋の中央に大きな作業机らしきものがあり、その脇には何やらごちゃごちゃした器具や雑多なものが詰まった箱がいくつも床に積み上げられていて、そこら中いたるところに分厚い書物の束が折り重なっていた。 セシアスが入ってきた扉から中央の作業机を挟んだ対面の壁には、同じように小さな扉があるのが見える。 壁面にはびっしりと棚が作られ、そこにも彼には何に使うのかわからない道具や薬品らしきものが隙間無く並んでいた。 ある一画には細長い作業棚の下に大人が一人しゃがんですっぽり入れそうなほどの大壷が並んでおり、そのすぐ傍らに同じく大人が横になって入れるほどの幅がある細長い木箱が、荷造り用の紐がかけられた状態で積まれていた。 セシアスは、オスカーから聞かされた塩商人の話を思い出した。 もしかしたら、あれはその塩ではなかろうか? あちこちに置かれた物品に触れないよう注意を払いながら、少年は木箱の山へ近づいた。 縦幅もさることながら、深さもある大きな木箱は、重量もかなりのものなのだろう。他のものと違ってこちらは二、三箱ずつしか重ねられていない。 それでも積み上げられた箱の高さは彼の首ぐらいに達しており、一番下に置かれた箱の木枠はたわみかけていた。 目測でそこにある木箱の数はせいぜい二、三十箱程度であったが、これらすべてに塩がぎっしり詰まっているとしたら、確かに噂話は本当だという事になる。 セシアスは、木箱の山の中から一番上に積まれた箱の荷紐が緩みかけているものをいくつかを見つけ、上蓋を調べてみた。 木の上蓋はどれもしっかりと釘が打ち付けられ、容易には開かないよう密封されていたが、中には荷確認のために半分開きかけたものがあるかもしれない。 案の定、壁際に並んだ壷に一番近い一山にそれを発見した。 緩んだ荷紐の端は蓋の上に重ねてのせられているだけで結ばれておらず、蓋はわずかにずれている。 釘は全て抜かれていた。 分厚い木蓋は重く、彼にとっては高い位置にあることもあってかなり苦労した末、少年はようやく木蓋をさらに向こうへと押しやった。 木の擦れ合う音が鈍く響き、ほんの少し箱の口が開いた。 中身を眼で確認するにはさすがに周りが暗すぎるし、いずれにしても箱の中を覗くにはセシアスの背は低すぎる。 思い切って、少年は箱の中に手を入れてみた。 ざらっとした感触。 箱のへりをつかむようにして、手のひらまでが砂のような細かい粒子の中に沈むと、ややべたつく感じと共に皮膚にピリピリとしたかすかな刺激が走る。 塩に違いなかった。 その時、粒子に沈んだ少年の指先に、何かが当たった。 できる限りいっぱいに背伸びをして手を塩の中へ差し込み、指先で探ってみると、円い輪のようなものが手に触れる。 思わずそれを指にはさみ、セシアスは手を箱から引き抜いた。 念のため、自らの手を舐めてみると、間違いようもない塩の味がした。 つかみ出したものを手のひらに乗せ、しげしげと見る。 薄闇の中では細かくは確認できないが、それは指輪のようだった。 石や飾り物など付いていない簡素なものではあったけれども、触ってみると表面には細かい模様が彫られているらしく、凹凸がある。 なぜ塩の中にこんなものがあったのか? 商人が落としたものなのか? 指輪の模様をもっとよく見たいがために、無意識のうちに眼に近づけようとしてふと顔を上げると、驚いたことに彼の目と鼻の先に、例の青白い影がゆらゆらと浮かんでいた。 セシアスは驚きのあまり息をのんで文字通り後ろへ飛び退り、塩の詰まった木箱にしたたか背中を打ちつけた。 その拍子に足がもつれ、そのまま床にへたりこむ。 手のひらにぎゅっと指輪を握りしめたまま、少年の両眼は揺れる影に釘付けとなり、ゆっくりとセシアスの口は段々大きく開いていった。 青白い影は、眼前で見るとぼんやりとではあるけれども人の形をしており、顔と思しき部分にはうっすらと目鼻の陰影が浮かび上がっていた。 大きな口を開け、石床にへたりこんで固まったままじっと見つめていると、うすい陰影の表情が動いた。 それと同時に、影はすっと棚の下に並んだ壷の方を指差した。 どうやら影は何かを少年に伝えようとしているらしい。 その時、蝶番の軋む音がして、セシアスが入ってきたのとは反対の壁面にある扉がほんのわずか内側に開いた。 それと同時に影の姿は一瞬にして掻き消え、セシアスの頭の中に聞いた事もない男の声が響いた。 “隠れろ!” 頭の中が真っ白になったが、とっさにセシアスは影が消える直前に指し示していた、大壷の棚とそのすぐ前に積まれた塩の木箱との間にかろうじて彼が入り込める程度の隙間があることに気づき、這うようにしてそこへ自分の身体を押し込んだ。 3段に積まれた木箱は壷が並んだ棚とちょうど並行に積み上げられており、身体を小さく縮めて奥へ入り込めば、木箱と棚下の奥の方に並んだ大壷の間に挟まれた死角に身を隠すことができる。 もしも室内に明かりが満ちたとしても、そこならそう簡単に見つかることはなさそうだった。 心臓が今にも口から飛び出しそうな勢いでどくどく脈打っている。 更に扉を開く密やかな音が続いて響き、忍び足で誰かが室内に入って来る気配がした。 ヘルメスだろうか? セシアスの脈打つ心臓がさらに鼓動を早める。 ややあって、何かをつぶやく声が聞こえ、室内の薄闇がほんの少し明るくなった。 誰かが呪文を唱えたのだろう。 ゆっくりと床を踏みしめる足音と共に、衣擦れの音がする。 できる限り身体を隙間の奥へ押し付けながら、セシアスは全神経を両耳に集中させた。 足音の人物は室内を静かに移動していたが、時折そこここで何やら調べてでもいるのか、足音がやむ。 次第にそれは、セシアスが息をひそめる木箱の群れの方へと近づいてきた。 セシアスが蓋を開けかけた棚際の箱の前で足音は歩を止め、もともと開きかけていた木蓋をさらに奥へと押しずらした。 やや斜めになった木蓋がセシアスの潜む作業棚側にはみ出して、頭上にさらに影を落とす。 セシアスはますます身体に力をこめて縮こまろうとしていたが、これで少年の頭上にも死角ができたことになる。 こわごわ上を見上げると、木蓋の端をつかんだ足音の主の手がちらりと見えた。 指には何か動物の顔を象った指輪がはまっている。 だが、それが何の像なのか見極める暇もなく、刺すように鋭い声が足音の主と少年の耳を貫いた。 「ここで何をしておいでかな?」 嫌というほど聞き覚えのある声。 ヘルメスだ。 いったいいつ室内に入ってきたのか、物音ひとつ立てることなく、魔術師は足音の主の背後に現れたらしい。 うろたえ慌てる侵入者は振り返りざまに身体を木箱にぶつけて大きな音をたて、その衝撃でずれた木箱の蓋がさらにセシアスの頭上に影を作った。 「我が邸で自然に迷う者は大勢いるが、故意に何かを探るために忍び込む者は少ない。それを選別して感知することは、そう難しいことではないのですよ」 皮肉たっぷりな口調でヘルメスが言う。 セシアスには魔術師の顔も姿も見ることはできないが、その面に浮かんでいるであろう、あざけるような表情がありありと眼に浮かんだ。 それほどに、それは毒を含んだ声音であった。 侵入者は何度か声にならないうめきを発し、喉をならして生唾を飲んだ。 セシアスも、木箱の影で自分の顔から血の気が引くのを感じていた。 “故意に何かを探るために忍び込む者”と“自然に迷う者”自分はいったいどちらに属するのだろう? もしも前者ならば、ヘルメスは彼のことも察知しているということなのだろうか? 「わ、私は…た、確かめたかったのだ」 ようやく、侵入者が震える声で何とか言葉を搾り出した。 「ほう、確かめるとは何をですか?会合の席に“影”をよこして、誰にもわからないとでも思っておられたのですか?」 「これまで私の“影”を見分けられた者はおらん!!」 思わずカッとしたように侵入者が叫んだ。 「それは“これまでは”の話でしょう。なるほど、そういえば確かに私の他に気づいた方はおられなかったようですがね。会合の部屋に“影”が入ってきた瞬間に、私にはそうだと知れましたよ」 クスクスと笑いながら、ヘルメスは侵入者の方へ近づいたのだろう、追い詰められた相手は無意識に木箱に身体を押し付け、そのため蓋のずれた箱がわずかに動いた。 「仕方ないですね、他の方々は私ほど繊細な感性を持ち合わせてはいないご様子ですし、たとえ気づいていたとしても無関心でいらっしゃるでしょうからね。私はいつも自分の邸内に“影”を置いています。こういう時のためにね。入ってきたあなたが“影”だとわかった瞬間に、あなたを感知するよう指示しました」 「で、ではお前は“影”なのか!?」 やや安堵したように、侵入者は声を和らげた。 「当たり前です。会合はほぼ終わりかけていますが、まだ今も続いていますからね」 「何だと!?お、お前は“影”のくせに“主人”から切り離されてはいないのか!?」 驚いたように叫ぶ侵入者に、ヘルメスは見下したような口調で答えた。 「私を誰だとお思いですか?あなたの“影”のように未完成なものではなく、私の術は完全なのです。本来、“影”の魔術は主・従が完全に切り離されるものではない。あなたの“影”は単なる“分離”であって、真の“影”ではないのですよ。もしあなたの術が完全なものなら、会合がちょうど今しがた終わったことくらいわかるでしょうし、今頃こんなところにいては都合が悪いということもわかるでしょうにね」 侵入者は言葉を失った。 おそらく、顔色は紙よりも白くなっているに違いない。 ヘルメスは相手の反応を楽しむかのように、巧みに声音を変化させて話し続ける。 その様子はセシアスに毒牙を持つ蛇を連想させた。 「心配いりませんよ。あなたの“影”はちゃんと私がお相手しています。ただ、これから皆さんと揃って宴席の方へ移動しなければなりませんのでね。私は個人的に大事な客人を待たせていますし、早々にここを切り上げて “影”をあなたに戻して差し上げなければなりません。おとなしく私に従っていただけないと、厄介なことになりますよ?」 大事な客人とは、ジリアンのことだとセシアスにはすぐにわかった。 では、会合は終わり、ジリアンは邸内に到着しているのだ。 彼らの会話の細かな意味は良くわからなかったが、ここにいる侵入者はヘルメスと同じ帝国専属魔術師の1人であり、会合の機会を利用して何かを探るために自分の影武者のようなものを会合の席へ送り出し、自分は邸内を探索してここへたどりついたのだ、と少年は理解した。 それと同時に、どうやらヘルメスは今のところその魔術師の他にセシアスがこの室内にいることには気づいてはいないようだと直感した。 彼らの会話はさらに続いた。 「さて、あなたが確かめたかった事というのは、何なのでしょうね?」 あまり好意的とは言いがたい笑いを含んでヘルメスが言う。 魔術師は一体どんな表情になっているものかセシアスには想像することしかできなかったが、それに答えた声音は硬くこわばっていて、どこか諦めを含んだようなものだった。 「これだ。この塩の山だ。ちょっと小耳にはさんだ噂で、お前が大量に塩を溜め込んでいるという話しを聞いた。それで、本当かどうか確かめてみようと思ったのだ。それが本当なら危険なことだからな」 危険?なぜそれが危険なことなのだろう? セシアスは興味をひかれて耳をそばだてた。 「なぜ危険なのですか?単なる塩が?」 なおも小馬鹿にしたようにヘルメスは声もなく笑っている。 「私をあまり馬鹿にしすぎぬ方がいいぞ、ヘルメス。同じ術を使うということは、似たようなものを好んだ者だということだ。お前ほどの深い知識と才能がなかったとしてもな」 ヘルメスのしのび笑いがやんだ。 両者の間に沈黙がおり、声と音だけが頼りのセシアスには緊迫した空気だけが伝わる。 少しの静寂の後、ヘルメスは先程よりやや穏やかな口調で口を開いた。 「なるほど、あなたとは少々ゆっくりとお話しなければならないようですね」 魔術師はそれには答えなかったが、ややあって、両者は共に木箱の前から離れた。 1人だけの足音が室内を移動し、扉が開く音がする。 それは、おそらくセシアスが入ってきた方の扉だ。 そのまま木の扉が閉まる音がして、魔術師と共に彼がつくりだしたほの明かりも消え去った。 あたりは再び薄闇に包まれ、静寂が満ちた。 セシアスはなおも少しの間、完全に危険が去ったことを確認しようと全神経をとがらせていたが、もう大丈夫と確信すると、緊張から解き放たれたか細く長い溜息を吐いた。 全身から力が抜けると同時に、ぐったりと大きな壷によりかかる。 少年の頭の中では、たった今目の当たりにし、耳にした全ての情報がくりかえしぐるぐるとめぐっていた。 だが、ここでいつまでものんびりとそのことを考えている暇はない。 ジリアンが屋敷に到着しており、先ほどの会話から会合が間もなく終わるだろうことがわかった以上、ぐずぐずしているわけにはいかなかった。 そろそろと身を押し込めていた隠れ場所から這い出すと、室内の様子を伺い、自分の他には誰もいないことを確かめる。 あの青白い影も、もう姿を現す様子はなかった。 セシアスは作業台の脇をすり抜けて、自分が入って来、ヘルメスと魔術師が出て行ったのとは反対側の扉へ向かった。 慎重に取っ手にかけた手に力を込める。 扉は難なく開き、何事もおこりはしなかった。 扉の向こうには、入って来たのと同じような、石造りの細い階段が上へ向かってのびている。 セシアスは迷うことなく部屋を出て後ろ手に扉を閉めると、狭い石段を駆け上がった。
[2006年 XX月 XX日]