Chapter.2-3

雲ひとつない帝都の空が緩やかに鮮明な緋色に染まり始める頃、ジリアンは落ち着かない思いで自分の部屋を行ったり来たり歩き回っていた。
ヘルメスの私邸へ出かけるための準備はもうずいぶん前に整っていた。
魔術師に指定された資料文書は選別してもそれほど減らすことはできず、積み上げられた資料の山は木箱につめて3箱ほどにもなった。
調べてみると、竜族、特にドラグ・シードについて記載された文書は思っていた以上に多くあり、伝説・伝承の記録は多くの他民族・多種族の残した書物の中にも数多く記されていた。
それらの記録は重複しているように見えるものでもどこかしら違いが見受けられ、結局どちらも必要であろうと判断せざるを得ず、あきらめて木箱に納めるしかなかったのである。
三箱におよぶ文書は重量も相当なものだ。
それを階下へ運び、馬車へ荷をの積み下ろすためには力のある男手が必要であったが、ヘルメスはそれを見越して馬車と共に数人の人手をよこすと言い置いて行った。
図書資料館にももちろん司書だけでなく小他の雑務を担う者はいるが、本来力仕事が得意な類の者たちではない。
ジリアンはもう一度窓に内側から鍵がかかっているかどうかを確認し、厚いビロードのカーテンを引いた。
そして先程からその無意味な行為を何度も繰り返している事に気づき、苦笑いしながら鏡の前に立った。
質素で飾り気のない淡い銀青のドレスに身を包み、柔らかな波を描く銀の髪を簡単にまとめただけの華のないいでたちであったが、もともとジリアンは公の席で着用できるような上等のドレスを持ち合わせてはいない。
この銀青のドレスも彼女が宮廷図書資料館に職を得た折、何かの場面で必要になるかもしれないからという理由で妹のロザリンが手ずから仕立ててくれたものだ。
唯一の装飾品といえば、胸にかけた姉妹そろいの護符のペンダントだけ。
この何とも粗末ななりで優雅な魔術師の宴席に出席するのかと思うと、ただでさえ沈みがちな気持ちがよりいっそう憂鬱になる。
あとどのくらい待てば、迎えの使者はやってくるのだろうか?
それよりも、セシアスはどうなっただろう?
ジリアンは小さく首を振り、その日何度目になるかわからない溜息をまた深々と吐き出すと、鏡の前を離れて長椅子に腰を下ろした。
一体どうしてあの子はあんなにフラメール邸へ行きたがったのだろう?
結果彼女の部下としてではなく、オスカーの従者に化けてヘルメスの館へ入るとは。
オスカーの決断にも驚いたが、どうやらセシアスはジリアンに同行すると言い出す前にもオスカーにフラメール邸へ連れて行ってくれるよう頼んでいたようだ。
一体何のために?
彼女の身を案じているというだけでは、少々行き過ぎている。
いくら心配すると言っても、ヘルメスとて何も彼女をとって食おうというわけではないのだ。
魔術師の彼女に対する執着がどんな目的に根差しているのかは計りかねるが、彼に関しては女性関係の悪い噂話もほとんど聞いたことがないし、まさか多くの他人の眼がある公の場で、あからさまな危険にさらされるような事があるとは彼女にはあまり思えない。
ジリアンにはセシアスが何を考えているのかさっぱりわからなかった。
何か危険な事に身を晒そうとしているのは、むしろセシアスのほうなのではないのだろうか?
今さらながらにオスカーにセシアスを託すのを反対するべきだったのではないかという後悔の思いが、じわじわと彼女の中に広がりはじめていた。


*** ***


同じ頃、オスカーもまた夕闇に翳りはじめた林の道を行きながら、少年をフラメール邸へ連れて行くと決めた自分の判断が本当に正しかったのかどうか、頭の中で繰り返し反問していた。
けれどもいくら考えたところでセシアスの心の内は知りようもなく、ここまできてしまったからにはもうどうしようもない。
後はできる限り何事もおこらぬよう、目配りする他ないのだ。
当のセシアス本人はオスカーの左後方に控え、小柄な栗毛の馬上に揺られている。
そのすぐ前には副隊長であるミスチフ・ダーリーンが自慢の駿馬にまたがり、さらにその脇にはもう一人、セシアスより二、三歳年上の従者が従っていた。
セシアスは何かと経験豊富な副隊長ミスチフの助言で髪を切る事はやめ、(もとに戻せない変装は、その時だけ別人に見えても後々顔を合わせた時に発覚してしまうので意味が無いという、もっともな意見であった)眼の上にかかる長い前髪を香油で湿らせて後ろに撫でつけると、その髪を包み込むようにして頭をすっぽりと生成りの麻布のターバンでくるみ、同じ布地で作られた東南の砂漠の国の民族衣装を身につけていた。
なかなか見事な変装で、一見しただけではそれが宮廷図書資料館の少年だと見分けはつかない。
そのできばえには、細部まで指示を出したミスチフ自身も大いに満足であった。

「そろそろ見えてくる頃だ」

オスカーが前方を見据えたままそう告げる。
全員が一斉に顔を上げ、オスカーの視線の先に眼をやった。
ヘルメス・フラメールの私邸は、宮廷を取り囲む内城壁にほど近い、宮殿からは最も離れた西端に位置している。
この西の一角にはマルータと呼ばれる小さく細かな薄紅色の花をつける樹が何百本も植えられた林があり、季節になると周辺一帯は宮殿からは淡く煙る霞が広がっているように見え、大変美しい。
フラメール邸へ向かうにはこのマルータの林を通り抜けていかなければならない。
残念ながら今は花の季節ではなく、頭上に揺れるのは光を遮る大きな木の葉ばかりだ。
太陽が沈む方角はこの国では一番好まれない方位だが、何故かヘルメスは好んでこの西端に屋敷を建てさせた。
元々この場所には、かつて帝国で権勢をふるった第一位の魔術師が居を構えていた。
その大魔術師は老齢と共に次第に宮廷内での権力を失い、ついには失意の内にある夜突然謎の死を遂げたと言い伝えられている。
後継者のなかった魔術師には私財を託す者もなかったため、多くの財産は皇帝の所有となり、長い間この場所は空家が幽霊のごとく佇む荒れ地のまま放置されていた。
それを全て取り壊し、整地し、ヘルメスは新しい主に見合う豪奢な屋敷を建てさせたのだ。
ただ一つだけ、ヘルメスは以前の住人である魔術師の遺産を受け継いだ。
それは現在フラメール邸の中庭にあり、今も天上に向かって成長を続けている三本の大きなユーツリーである。
長い年月を経て太く立派に育った三本のユーツリーは、地中深く下ろした根が互いに絡み合っているが故にその場所を移す事ができず、またヘルメス自身その魔術的力の強い霊木をいたく気に入ったため、現在の場所にそのまま残されたのだという。
天高く伸びた巨木の枝は屋敷周辺の離れた場所からも見え、フラメール邸の目印ともなっていた。
セシアスは普段は視界を狭めている前髪に邪魔される事なく、林の向こうに見え隠れし始めた巨木の陰影を眺めた。
日暮れ時の燃えるような空を背景にユーツリーの枝が風に身を任せて揺れる姿は、鮮明に少年の瞳に焼きついた。
マルータの葉が風に吹かれてざわざわと鳴る。
それが、どことなく不気味な忍び笑いのように聞こえて、セシアスは思わず顔をしかめた。

「どうした?」

それに気づいたミスチフの従者カイヤが、セシアスに声をかけた。
彼もまた、セシアスと同じくターバンを巻きつけた砂漠の民族衣装を纏っている。
セシアスだけが目立つ事のないよう、同じ格好をしてくれているのだ。

「いえ、なんでもないです」

「あの木、ちょっと気持ち悪いよな」

あれだろ?と言いたげに、カイヤが眼で合図する。

「俺も気になるんだよな、あれ。見た目もかなり普通じゃないでかさの木だけど、ヘルメス・フラメールの前にあそこに住んでた魔術師は、死ぬ時あの木にとてつもない呪いをかけていったって噂だからな。フラメールはそれに負けず劣らずの大魔術師だから平気なんだろうけど」

「魔術師邸にまつわる噂は他にも山ほどあるぜ?」

二人の会話に、にやにや笑いを浮かべたミスチフが割り込んだ。

「フラメール師の屋敷は宮廷内でも豪奢な事で有名だ。なにしろ凝っていて、調度品や装飾、建材もそうだが、建物内のあちこちに仕掛けがあるとも言われてる。フラメール邸の宴席に出席した人間は、必ず何人か迷子になるとかならんとか…。中には本当に行方がわからなくなった者もいるって噂だ。あの樹は屋敷の中心にある中庭に植わっているが、前の所有者だった魔術師の魂が今でもあの木に宿っていて、時折屋敷を訪れる来客を木が根元に飲み込んで閉じ込めちまうっていう話もある」

セシアスは徐々に近づいてくる大木の黒い陰影にもう一度眼をやった。
ヘルメスの屋敷に入り込んで一体どうしたいと思っているのか、本当は自分でもよくわからない。
オスカーに言われた通り、どれほど心配でもジリアンの身は彼に任せ、自分はおとなしく図書資料館で待っているべきなのだと頭では理解していた。
しかし、自分でも抑えきれなかったのだ。
どうしても、行かなければならない。
強烈にこみあげてきたその思いを、少年は払いのける事ができなかった。
それと同時に突然自分自身を襲った不思議な感覚を、どう説明したらいいのか。
ジリアンの私室で積み上げられた文書の山を見た時、小さな暖炉に火をおこした時、それは一瞬のうちにセシアスの瞼の奥を疾風のごとく駆け抜けた。
なぜなのかはわからない。
ただ何の前触れも無く訪れた切り取られた断片的な記憶の映像が、セシアスの中で出口を無くした濁流のように渦巻き、少年の理性をねじ伏せた。

それは、幼い頃の遠く薄い記憶だ。
まだ彼が悲惨な戦いに巻き込まれ、暖かく彼を愛しむ全てのものが奪い去られる前の、おぼろげな記憶。
おそらく、セシアスはまだ5歳になるかならずの頃だった。
夜半に、顰めようと努めながらも激した感情を押さえ切れずつい洩らしてしまったのだろう父親の声に、幼いセシアスは目を覚ました。
もともと少々声を顰めたところで隠し事ができるほど広い家ではなく、普段は家族の穏やかな会話がポツリポツリとかわされるだけの静かな家庭であったので、いつにないただならぬ空気に幼子が敏感に反応したのかもしれない。
ともかく目を覚ましたセシアスは寝床からこっそり這い出して、薄い木戸に隔てられただけの食堂(のみならず時には居間に、時には仕事場になる唯一の部屋だった)の様子をうかがった。
小さく貧しい町の、決して暮らし向きの楽な家庭ではなかったセシアスの家族は、父と母、それに父の弟にあたる叔父の3人だけで、2部屋しかない狭い小屋に住まいながら軒先でパンを売る事で生計をたてていた。
セシアスは物心つく前から朝はパンの焼ける香ばしい匂いで目を覚まし、夜は発酵するパン種と粉の袋が並ぶ棚を眺めながら眠りについた。
家族全員が昼間は日々の糧を得るために力を合わせて働き、夜は食料庫の空いている棚にわらと麻布をしいて眠り、空いている棚がなければ部屋の隅の粉袋が置かれた床に横になった。
自分たちがとても貧しい暮らしを送っていると幼心にも理解してはいたが、それを不幸だと思った事は一度もなかった。
どんなに貧しくとも、家族には常にお互いに対する愛情が溢れており、それだけで幼いセシアスには十分だったからだ。
明かりを遮る程度にしかあまり役に立たない、隙間だらけの木戸の割れ目から、これだけはパンをこねるため広く丈夫で厚い天板を持つテーブルに、両親と叔父が顔を寄せあっている姿が見えた。
皆が、何やら険しい表情をしている。
とりわけ、父は合わせた手の親指で眉間を押さえ、歯をくいしばっているようだった。

「もしもあれが見つかったら、…世界は終わりだ」

苦し気に声を絞り出す父の姿は、それまで幼い子が知る事のなかった不安という心の闇を強烈にセシアスに刻み付けた。
おびえたような叔父の声がそれに重なる。

「誰かがこの事に気づいたら…」

「大丈夫。誰にもわかりはしないわ。それに、結局のところ私達は何も知らないんだから」

母は叔父の震える手にそっと自分の手を重ねたが、重ねた母の手もまた小刻みに震えていた。
その後に、どんな会話が交わされたのかは憶えていない。
次にセシアスの記憶に蘇ったのは、黄金色の光に満たされた暖炉に、母が何かを投げ入れるところだった。
父も叔父も、黙ってその様子をじっと見守っている。
炎の中で、小さな羊皮紙の切れ端のようなものが火柱になめられて身をよじらせる。
焼けて縮んでゆく小さな切れ端は、セシアスの脳裏にしっかりとその残像を残し、やがて燃え尽きて灰になった。
様々な映像の欠片が矢継ぎ早に浮かんでは消え、気づいた時、彼はジリアンに向かって言葉を紡いでいた。。
まるで何かに駆り立てられ、導かれてでもいるかのように。

「びびっちまったんなら、戻ってもいいんだぜ?」

そう笑いながら、オスカーがセシアスの方を振り返った。
物思いに囚われていたセシアスは、はっと我に返って激しく首を振った。

「びびってなんかないよ。ちょっと考え事をしてただけだ」

オスカーは探るような眼差しで少年の様子をうかがったが、何も言わず前方に向き直った。
すでに、目前にはヘルメス・フラメールの館が姿を現していた。
帝国の中枢である内城壁の内側、宮廷内に建てる事を許された私邸は、外塀を設ける事ができない。
宮廷内においてはその敷地はあくまで帝国のもの、つまりは皇帝の所有するものであって、そこへ私邸を持つ事を許された者にはその土地を使用を許可されるにすぎない。
個人に持つ事を許された私邸は常に何事も包み隠さず皇帝に対して開かれていなければならず、丘の上の頂にある宮殿から姿を隠してはならないのだ。
そうする事により、皇帝は臣下に対し寛大さと共にさりげない心理的圧力を示す事ができる。
屋敷の内部まで見えるわけではないとはいえ、多少なりとも緊張感を和らげ、たとえ自らの所有でない領地であっても隣人とのテリトリーを明確にしたいと思う臣下たちは、葉の落ちない潅木や香草の繁みを要所要所に意図的に配することで、庭や厩、東屋などを区切ると同時に目隠しするしかなかった。
もちろんフラメール邸もその例外ではない。
しかしながら、ヘルメスの屋敷はそのことを十分計算した上で設計されていた。
魔術師の館は宮廷内の私邸によく見られるような両翼を持つ横長の形とは違う、あまり屋敷としては普通でない形をしていた。
高価な象牙色の花崗岩をふんだんに使い、見事な彫刻の施された外壁に覆われた四階層まである建物は、中庭を中心にそれを包み込んで囲うように建てられた円筒形をしており、正面はまるで筒の両端を斜めに重ねたように壁面に段差がつけられていた。
その段差を巧みに利用して造られた正面玄関は外壁の滑らかな色調と細かいレリーフの凹凸の影にまぎれ、遠目からははっきりとわかりづらい。
囲い込まれた中庭の様子は外からは一切うかがうことはできず、宮殿から眺めるフラメールの屋敷は、ずんぐりした象牙色の筒にしか見えなかった。
優雅で滑らかな色合いの壁にはバルコニーが螺旋状に最上階まで規則正しく配され、各々にかぐわしく多彩な花々がこぼれるほど飾り付けられている。
今はその全てが落日の色に染められて、この世のものならぬ幻想的な佇まいを見せていた。
少々風変わりではあったが、これがヘルメスの屋敷でなければ、なんと趣向の凝らされた美しい邸宅かと思った事だろう。
だが、どれほど美しい外観を持っていても、この屋敷には隠された闇があるに違いないのだ。
その主と同様に。

館の南側に面した潅木に囲まれた厩にはいくつものかがり火が焚かれ、すでに何人もの騎士の姿が見えていた。
数人の馬丁や厩番と思われる者たちが、次々到着する訪問者の対応に追われて忙しなく行き交っている。
会合に集まった魔術騎士団の騎士達が数人、オスカーの姿を見とめて手を上げた。

「オスカー、ご苦労だな」

魔術騎士団幹部の一人で、第八部隊と第十三部隊を総括する騎士隊長のラス・シオンが、笑いながらオスカーに声をかけた。

「久方ぶりにお目にかかります、ラス殿」

オスカーはひらりと馬から降りると、駆け寄った馬丁に愛馬の手綱を預け、近づいてきたラス・シオンの差し出した手をしっかりと握りしめて、挨拶を交した。

「今日は珍しく供連れが多いな」

ラスがミスチフ以下三人の従者を見て言う。

「会合の後の宴席で飲みすぎるといけませんのでね。今夜は付き添いを頼まれている女性がいますので、従者がいた方が何かと便利かと思いまして」

「ほう?それはそれは。しかし、今夜の宴席には我々会合出席者の身内くらいしか招待されてはいないはずだが・・・一体誰かね?」

「それは、会合後のお楽しみですよ。では後ほど」

意味ありげに微笑むと、オスカーはラスの側を離れ、各々自分達の馬を預け終えた副隊長と従者のもとへ歩みよった。
彼らの後からも、次々と到着する魔術騎士団の幹部が馬や宴席に招待された家族を伴った馬車を馬丁達に託している。

「今日の会合には何人くらいの人が来るの?」

セシアスがオスカーにたずねた。

「魔術騎士団の幹部の大方は招集されているはずだ。他には帝国専属魔術師が全員顔をそろえるだろうから、それでだいたい四〜五十人。宴席の方はそれぞれの家族も出席するから、八十、九十人前後か。供の者達を含めれば今夜フラメール邸には二百人近い人間がいる事になるだろうな。人数としちゃ、小規模なほうだ」

「家族の人たちは会議の間どうしてるのさ?」

「ああ、会合が開かれている間は別室で談話会が開かれているんだ。たいてい、宮殿じゃなく個人の私邸で政治や軍儀に関わる個別会議が行われる時は、平行して家族・親族の談話会がもたれる事が多い。それにはもちろん別の意図がある。彼らはそこでお互いの力関係をはかり、裏でどう立ち回り、誰と手を組むのが得なのかとかいった政治的な策謀をめぐらすのさ。上流階層の人間は自分達の足元を危うくしないために、それこそ家族全員が常に気を配っていなけりゃならんというわけだ。ご苦労なこったぜ」

「俺達みたいな雇われ兵士にゃ縁のない世界ですね」

ミスチフが皮肉っぽく笑う。

「まあ、今回はたまたまここで状況報告をしろと言われたから来ただけで、普段ならまず俺やお前が呼ばれるような席じゃないからな。俺も一応ここへ来るのは初めてじゃないが、少なくとも宴席に出席した事は数えるほどしかないぜ。しかも、誰か上役の供で来ていたはずだ。というわけで、セシアス」

オスカーはセシアスの方へ顔を向け、保護者らしく厳しい表情になるように努めながら言った。

「俺もこの屋敷の構造については細かくはよくわからん。あんまりウロチョロ歩き回って面倒な事にならんよう、十分気をつけるように。何かあってもすぐに駆けつけられるとは思ってくれるなよ?」

「わかってるよ」

セシアスはうるさそうに舌打ちしたが、もとよりオスカーに迷惑をかけるつもりはなかった。
ただ自分でも目的がはっきりしていないが故に、具体的な危険を想定できない状態でもあった。

「側仕えや召使いは家族が集まる宴室の隣に控え室が用意されているはずだが、お前達は俺達の従者だから、おそらく会合の開かれる部屋の傍で待つ事になるだろう。会議の終わりまで在席している必要がなければ途中で出てくるかもしれん。カイヤはなるべくアナ殿の到着に注意していてくれ」

「承知しました」

カイヤはにこやかに頷いた。
丁寧に刈り込まれ手入れの行き届いた下草の歩道をたどり、一行がフラメール邸の正面玄関までやってくると、揃いの濃緑のチュニックに身を包んだ使用人たちが到着した客を二手に分けて順次屋内へと導いていた。
屋敷の正面入り口には扉のようなものは見当たらず、壁面にはぽっかりと穴があいている。

「この入り口には扉がないの?」

思わずセシアスは小声でオスカーに訊ねた。

「いや、ある。ただし普通の扉じゃないんだ。仕組みはよくわからんが、壁と同じ花崗岩の扉で、外や内に開くんじゃなくて、壁の中に引っ込む構造になってるらしい。だから、普段扉が閉まっている時にはどこが扉なんだか見た目にはわからない。予定外の来客が突然やってきても、主がその気にならなければ邸内に入るのはまずムリだ。当然、こっそり忍び込むなんてのも、難しい話だぜ」

オスカーは声を顰めて少年に耳打ちした。

「邸内の部屋の扉は大体木製の普通の扉だが、もしかしたらこういう仕組みの隠し扉がいくつもあるかもしれない。十分気をつけろ」

セシアスは無言でわかったというように片手を上げて見せたが、その眼は美しく外壁を飾るレリーフの模様にくぎ付けになっていた。
花崗岩に彫られているのは植物や動物を模したモチーフや古代文字の飾り文字、見たこともない伝説の生物像などで、それぞれ無造作に配置されているように見えながらごく自然に調和がとれている。
象牙色の柔らかな色合いがその芸術的完成度の高さをよりいっそう強調し、眺めていると壁面はまるで内側に光を秘めてでもいるかのように輝いて見えた。

「行くぞ」

オスカーを先頭に、一行は使用人の一人に案内されて邸内へ入った。
一歩中へ足を踏み入れるとそこは広々とした玄関ホールで、四階まで吹き抜けになった高い天井にはめ込まれたステンドグラスが、宵の口にもかかわらず鮮やかな色の光の模様を大理石の床に落としていた。
乳白色の大理石のひんやりとした床面を彩る色彩の美しさにセシアスは息をのみ、痛くなるほど首を後ろに反らせて頭上の色ガラスを見上げた。

「そんなに見上げてると首が後ろに落ちるぞ。はぐれるなよ」

少年の様子を横目で見、オスカーは笑いながら会議が行われる部屋へ向かう使用人の後に従った。
セシアスは慌てて折り曲げていた首を元にもどし、カイヤと共にそれに続いた。
ホールの左右には緩やかに曲線を描く幅広い階段が階上へのびており、床と同じく大理石の壁と円柱の柱には図書資料館と同じ魔法の灯りが綺麗に同じ間隔を空けて整列し、昼間とかわらぬ明るさでホール全体を照らしていた。
オスカー達一行は右の階段を上っていったが、左からのびた階段は彼らの頭上のさらに上、三階へと続いている。
数人の女性と子供たちが使用人に案内されてそちらを上がり、消えていくのが見えた。
どうやら宴席は上階に用意されているらしい。

「宴の間は上らしいな」

オスカーがミスチフにささやく。
セシアスは反対側の壁に沿ってのびる階段に眼をやり、三階の階段ホールを見上げた。
その時、三階の廊下へと続くホールの端に一瞬何か青白い影のようなものがよぎったような気がして、少年は思わず手摺から身を乗り出した。

「どうした?」

それに気づいたオスカーが上がりかけていた段に片足をかけたまま振り返る。
セシアスは眼を凝らしてじっと階上のホールを探ったが、先程眼にしたと思った何かはどこにも見当たらない。
代わりにまた別の一家、おそらく母娘と思われる着飾った二人連れの女性が、使用人に案内されて階段を上って来るのが見えた。

「何でもありません。申し訳ありません」

従者らしく丁寧な口調を装い、セシアスは手摺を離れた。
オスカーは僅かに眉を上げたものの、黙って再び階段を上りはじめた。
一体、何を見たような気がしたんだろう?
少年は何とも言えず落ち着かない胸騒ぎを覚えつつ、二階へ向かう一行の後を追った。
二階の階段ホールには、玄関ホールと同じ乳白色の大理石に濃紺の天然石から作られたタイルのモザイクで魔方陣のような模様が描かれていた。
その模様を眼にした瞬間、またしてもセシアスの脳裏に不明瞭な記憶の映像が閃いた。
だが、一瞬のおぼろげな映像はそれが何を意味するものなのかをはっきり彼に知らせる前に手掛りすら残さず消え去り、それが少年の中の胸騒ぎと苛立ちに拍車をかける。
いまいまし気に奥歯をかみしめ、セシアスはホールの濃紺の紋様から眼を背けた。
階段ホールからは建物の形に沿って左右に湾曲した廊下がのびていた。
ホールの床は全て大理石だったが、ここからは美しい織の分厚い絨毯が敷き詰められている。
使用人について廊下を進んでゆくと、その先には同じように案内人に導かれていく魔術騎士達の姿が見えた。
振り返ってみると、彼らの後からも何人もの騎士とその従者と思しき者達が静かに会話を交わしながらこちらへ向かって歩いて来ている。
従者の年齢層は彼らが従う騎士のそれによってまちまちで、セシアスやカイヤと同じくらいの年頃の少年もいれば、オスカーとそう変わらないと思われる若者もいた。
違っているのはその身に付けている服装で、傭兵の従者である彼らのそれとは違い、彼らはほとんどがきちんと主人から支給された魔術騎士団の従者専用の制服に身を包んでいた。

「やっぱり違うよなぁ」

カイヤがそっとセシアスに声をかけた。

「魔術騎士団っていやぁ、騎兵隊や傭兵部隊に比べて格も待遇も全然違うもんな。俺達、逆に目立ちそうだぜ?」

苦笑いするカイヤに肩をすくめる事で答えたが、セシアスも自分達の格好が思った以上に人目を惹くのではと心配になっていた。
確かに、普段のセシアスからはまったく別人に見える事は請合えるが、あまり人目を惹くようでは目立たぬように動くのが難しい。
そう思って、ふと気づいた。

「そうか・・・」

オスカーの“別人に見えるような変装”という策略は、実は結果的に人目につく姿をさせる事で少年の行動を牽制する意図も含まれていたのだ。
それに気づいたセシアスは一瞬、猛烈に腹をたてたが、今さらどうしようもない。
オスカーとミスチフはそ知らぬ顔で真剣に会議での報告事項について話し合いながら先を歩いている。
やがて褐色の重厚な扉が大きく左右に開け放たれた会議室の前へたどり着くと、使用人は一同に一礼してもと来た道を戻って行った。
会議室の手前には従者のための控えの間が用意されており、そちらも扉は開け放たれている。

「お前達はこっちの部屋で待つ事になる。会議の間もこの控え室の扉は開いたままになっているはずだから出入りは自由だが、行動にはくれぐれも注意するように。カイヤは階段ホールへ出れば下の様子が伺えるだろう。頼んだぞ」

オスカーは2人の従者にそう言い置くと、ミスチフと共に会議室へ入っていった。
後に残ったカイヤとセシアスはお互い顔を見合わせながら、とりあえず控えの間に足を踏み入れた。
部屋にはすでに数人の魔術騎士の従者の姿があった。
控えの部屋にしては広く、調度品や何人もの従者がゆったり座ってくつろげるよう用意された何脚もの椅子、長椅子、お茶の入ったポットがいくつも載った飾り机など全てが贅をつくした設えになっている。
先に入室していた従者達は、二人の少年の姿を見ると物珍し気に眼を見張ったが、無言のまま頭を傾けて軽く挨拶をした。
セシアスとカイヤも同じように黙って会釈を返し、戸口に近く、廊下の様子が伺えるあたりの長椅子に一旦腰を下ろした。

「どうする?」

カイヤが周囲の人の動きを見ながら小声で訊ねた。

「どうする?って言われてもな・・・。とにかく、ジリアン様が着くのを待たなきゃ・・・。オスカーにはどうやって知らせる事になってるんだい?」

「ジリアン様の到着を確認したら、会議室の外にいる伝達役を通じて伝えてもらうんだ。あとは、彼女がどの部屋へ通されるかを確認しなきゃならない。多分、すぐに上の宴席に通されることになるだろうと思うけど、もし別室に案内されて居所がわからなくなると困るから、到着時にジリアン様自身と接触しておけるようにしろと言われてる」

「じゃあ、ホールにいなきゃダメだな」

二人は連れ立って今入ってきたばかりの控え室を出た。
戸口ですれ違った少々年かさの魔術騎士団の従者が物珍しげに彼らのまとった衣装をじろじろ見る。

「これじゃ、ちょっと目立ちすぎじゃないか?」

セシアスは腹立たしげに呟いた。
もときた廊下を逆にたどり、二人は吹き抜けの玄関ホールが見下ろせる階段ホールまで来ると、左右手摺の端に分かれて壁際に立ち、階下の様子を伺った。
そうして乳白色の大理石と同じ色の壁に寄りかかって立つと、先ほどまで非常に目立っていた彼らのいでたちは壁の色になじんで溶け込み、それほど目立たなくなった。
それどころか、魔法のロウソクの灯りに照らされた麻布は遠目には壁面そのものの色とほぼ同じように見え、ぼんやりしていたらそこに人が立っている事にも気づかないのではないかとすら思われた。
オスカーがそれを計算していたのかどうかは定かではないが、このホールでさりげなくジリアンの到着を見張るにはうってつけの衣装だったと言えるだろう。
彼らはようやくほんの少しだけ安堵感を憶え、ほっと息を吐き出すと、目指す人物の到着を待った。

[2006年 XX月 XX日]

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