Chapter.2-2

柔らかな午後の日差しを浴びながら、昼食を一人で食べ終えたセシアスは不機嫌な表情のまま図書資料館の正面玄関から建物の南側へ回り、広々とした庭園へ出た。
ヘルメスと二人きりになっているジリアンのことが気になってしかたがなかったが、苛ついたところで自分にはどうすることもできない。
彼女が戻ってこなければ、セシアスにも急いで片付けなければならない仕事はなかった。
少年は、たっぷり水を含んで青々とした下草を乱暴に踏みしめ、綺麗に手入れされた庭の中央に大きな日陰を作っている、トリネコの大木の下まで歩いていった。
庭には一定の間隔を開けて、いくつもの凝ったデザインのベンチが置かれており、そこに座って午後のひとときをのんびり過ごす人の姿も見受けられる。
今日は久しぶりに天気が良いので、遅めの昼食をそこで楽しんでいる人々もいた。
セシアスはトリネコの木陰に入ると大木の根元にどっかりと腰をおろし、忌々し気に身体を仰向けに横たえた。
顔の上を涼しい風がそよそよと通り抜け、ざわざわ揺れる木の葉の音が少年を慰めるように優しく響く。
大きく息を吐き出して、セシアスは眼を閉じた。
瞼の裏に木漏れ日が瞬き、それを合図に少年の頭の中に断片的な記憶の波が押し寄せてきた。

荒れた岩山の冷たい空気、ぼろぼろに崩れた石壁に、粉々に砕かれた家財の破片や引き裂かれた泥まみれの布切れが風に吹かれて張り付き、辺りにはいつまでも消えない生臭い血の匂いと腐臭が漂いつづける廃墟の映像が、今その場にいるかのように鮮明にセシアスの脳裏に浮かんでくる。
その廃墟の中を、痩せ細った子供達が数人、足を引きずるようにして歩いていた。
中には頭部にひどい怪我を負っている幼児もいれば、片腕を無くし、自分より小さな子に支えてもらってやっとの思いで足を運んでいる子供もいた。
彼らの中で一番背が高く足取りもしっかりした一人が背中に皮袋を背負い、自分の背丈ほどもある血糊で汚れた長剣を杖代わりにしながら、先頭に立って遅れそうになる仲間達を何度も振り返り、励ましている。
それは、幼い頃のセシアスだった。
子供達は声をかけあい、庇いあいながら、太陽を目印に北の方角を目指していた。
次に浮かんできたのは、身を切るような夜の冷たい風を避け、それではとても風除けにはなるまいと思われるほど狭い岩陰の窪みに身体を縮めて耐えている三人の子供の姿だった。
一人はセシアス。そしてあとの二人は廃墟を共に歩いていた仲間の数少ない生存者であった。
彼らには火をおこす術もなく、ただ互いの身体を寄せ合うことでかろうじて暖をとることしかできず、そして全員が既に死が甘美な誘惑に思えるほど疲れ果てていた。
暖かな日差しを体中に浴びている幸せな夢から目覚めると、いつのまにかセシアスは一人ぼっちになっていた。
夢で見た日差しは冷たい突風に晒されて温もりだけをなくし、無情にも岩陰で冷たくなった二人の仲間の救われたような死顔をセシアスの瞳に焼き付けた。
畜生。
セシアスは次々に浮かんでくる記憶の欠片たちを無理やり追い払おうと、両腕で顔を覆った。
木漏れ日のちらちら揺れる光が消え、暗闇が広がる。
小刻みに身体を震わせて少年は細く長い溜息を吐き、今度は意識的にジリアンの姿を思い浮かべた。
優しい眼差しと、暖かい笑顔が瞼の裏で彼を見つめ返す。
その琥珀色の瞳は慈愛に満ち、少年の心を癒す宝石のように穏やかに輝いていた。

「よう、昼寝か?」

突然頭上から降ってきた声に、セシアスは驚いて飛び起きた。

「なんだ?おいおい、お前泣いてたのか?」

その言葉にぎょっとして手をやると、知らないうちに細い涙の筋が、頬を伝って流れ落ちていた。
反射的に、セシアスは声の降ってきた頭上を振り仰いだ。
きらきら輝く木漏れ日を背に受けて、大木の幹に体をもたせかけた背の高い男が、セシアスを見下ろしている。
影の落ちる顔をはっきりと見分けるのには少し間が必要だったが、セシアスには声の主が誰なのか、顔かたちを確認するまでもなくわかっていた。

「オスカー、もう遠征から戻ったの?」

溜息まじりにセシアスは言った。

「なんだよ。久々に顔を見に来てやったのに、随分なご挨拶じゃないか?ご機嫌斜めだとみえるな」

からかうように笑いながら、オスカーはセシアスの隣に腰をおろした。
長身で、がっしりした筋肉質の身体にゆったりした柔らかな革のチュニックを着た青年は、腰に吊るしていた長剣をはずして草の上に放り出すと、ブーツに包まれた足を投げ出して大木の幹にもたれた。
同じように座っていても、背の高いオスカーはセシアスのつむじを見下ろせるほどの位置に顔がある。
風に吹かれて燃えるような赤毛が眼の上にかかり、オスカーはうるさそうに片手でそれをはねあげた。

「いいかげん、その前髪切れよ。戦場で邪魔になるんじゃないの?」

その様子を上目使いに見上げていたセシアスがしかめっ面で言う。

「お前こそ、その鬱陶しい前髪を切れ。黒髪で長いのは重そうに見えていけねぇぜ。性格まで陰気に見える」

「ほっといてくれよ」

ぷっと唇をとがらせて、少年はそっぽを向いた。
そのついでに、濡れている頬を服の袖でぬぐう。
オスカーはにんまりしながらセシアスの頭をくしゃくしゃとかき回したが、セシアスは乱暴にその手を払いのけた。

「あんた、まだ出征したばかりじゃないか。半年もたってないだろ?クビになったの?」

「生憎だが、俺は傭兵としちゃあ、ちょっとばかり腕を買われてる方でな。皇帝陛下は南の領土拡張にはそろそろ飽きられたらしい。もう南の方は海を渡らないと陸地がないからな。ちょっとそこまで遠征するには船やら何やら思ったより準備に金と時間がかかることに気づいて、標的を変えることにしたんだろうよ。早々に呼び戻しがかかった」

「へえ、今度はどっちへ向かって領土を広げるつもりなんだか。この国は大陸を食い尽くすまで大きくなろうとするのをやめるつもりはないんだ。この国自体がバケモノみたいなもんだね」

少年はとげとげしい口調で言葉を吐いた。
オスカーは、ふと哀れむようなまなざしでセシアスを見つめたが、すぐに眼を逸らし、チュニックのベルトに下げていた革の小袋から噛みタバコをひとつまみ取り出して口に入れた。

陽気で背の高い赤毛の傭兵オスカー・ウィンは、現在帝国軍騎馬隊の傭兵部隊に籍を置き、一個中隊を率いる中隊長という肩書きを持っている。
騎馬隊の中でも剣術においてはめっぽう腕が立つと評判で、軍の公式試合でも毎回かなり上位まで名前が残るほどの剣士だ。
人情に厚く情熱家で、女好きではあるもののあまり人から恨まれることもなく、敵も少ない。
いつも上機嫌で笑顔が絶えず、燃え立つ赤毛と晴れ渡った空のように澄んだ青い瞳、甘い風貌を持つ彼は、酒場の女達の間では色男としてちょっとした有名人でもある。
そのオスカーと黒髪に夜空色の瞳の図書資料館司書の少年セシアスとでは一見あまり結びつきそうにない組み合わせであったが、実はセシアスにとってオスカーはある種特別な存在であった。
戦災孤児であったセシアスは、帝国軍の侵攻を受けて破壊された小さな町から逃れ、荒野をさまよって死にかけていたところを凱旋の帰路にあったオスカーに助けられ、帝国までつれてこられたのだ。
その後一旦は戦災孤児のための施設に入所したが、成長すると彼の援助を受けて学問に励み、図書資料館での司書補の仕事についた。
自らの運命を決定付けた敵であると同時に、命を救われ生きる術を与えられた恩人でもあるオスカーに対し、セシアスの中には常に複雑な想いの葛藤が渦巻いている。
とはいえ、粗野で豪胆、陽気で明るいこの赤毛の青年が惜しみなくセシアスに与える父兄のような開けっぴろげな愛情に、少年がその想いを敵意として表すことは決してなかった。

「で?ご機嫌斜めの原因は何だよ?ジリアン様か?」

噛みタバコを奥歯でのんびり噛みながら、オスカーが言う。

「違うよ。まあ、ちょっとは関係あるけど」

オスカーは大げさに片眉を上げて見せると、続けろよ、というように顎をしゃくった。
セシアスはいかにも気が進まないという風に舌打ちしたが、仕方なく言葉を続けた。

「このところ、ヘルメス・フラメール師がよく来るんだ。ジリアン様に色々と頼み事をしに。先月にはここの閲覧室の鍵まで個人で貸し出し申請して、鍵を持ってる。今日も午後一番に来て、ジリアン様に資料探しを頼んでるんだ。僕も手伝うって言ったんだけど、断られた」

「ふん、ヘルメス・フラメールか・・・。今ちょっとした噂になってるらしいな。ヤツがジリアン・アナ司書長を宴席に招待して何度も辞退されているって話が」

「一部では賭けになってるんだってさ。帝国お抱え魔術師の手前、大っぴらにはできないみたいだけど、城下の下層区ではけっこう大きな額に膨れ上がっているって聞いた。なんでヘルメス・フラメール師がジリアン様に執着してるのかはわからないけど、とにかく僕は気に入らないんだ、あいつが」

「ほう、気に入らないか。お前、ジリアン様に近づく男は皆気に入らないんじゃないのか?」

くすくす笑いながらオスカーが言う。
セシアスが上司である司書長を密かに姉のように慕っている事を、オスカーはよく知っている。
そして、その事で彼はいつも少年をからかっていた。

「そんなんじゃないよ!とにかく、よくわからないけど気に入らないんだ」

「なんでだ?そりゃまあ、お前は男だからヤツがどれほど美形でも関係ないかもしれんが、それでもあの容姿を気に入らないってヤツはあんまりいないと思うぜ?」

「見た目は関係ないよ。とにかく、自分でもわからないけど気に入らないんだ。どうしてだかは説明できないけど、あいつは良くないって感じるんだよ」

「ふん」

オスカーはセシアスの眼を覗き込み、いつになく真面目な面持ちで頷いた。

「お前のその勘は、あながち外れでもないかもな」

「え?」

「実は、正直言って俺もあんまりヤツのことは好きじゃない。どことなく得体がしれないし、何を考えてるんだかさっぱり読めないからな」

にやりと笑って、オスカーは言った。

「傭兵部隊ってのはな、正規軍の隊と違って色んなのがいるんだよ。もちろん、正規の軍にだって変わり者ってのはいるにはいるがな。だが基本的に傭兵ってのは期間限定で雇われてる流れ者で、故郷も種族も様々、身分や家柄だって色々、過去に所属してた軍隊も同じくだ。ある仲間が昨日は味方だったのに翌日には敵の軍に雇われてるなんて事も別に珍しくない。あっちこっちで色んな経験をつんで、色んなものを見てきてる。そんな奴らと一緒にいると、ありとあらゆる情報が耳に入ってくるのさ。傭兵は誰に忠誠を誓ってるわけでもない。ただ金のために雇われているだけだから、いつでも別のところへ移れるよう準備は怠らない。そのためには色々と情報を持ってた方が有利だからな。中には眉唾ものの噂話なんかも多いが、信憑性の高いものもそれなりにある。ヘルメス・フラメールは有名人だから裏で囁かれている噂は山ほどあるが、最近聞いた妙な話で事実らしいのがあるんだ」

「どんな話なのさ?」

「ここ数月で、ヘルメスの私邸にはえらく大量の塩が運び込まれてる」

「塩?」

「ああ、それも尋常じゃないほど大量の塩だ。もちろん、調理に使うような量じゃない。かといってまさか皇帝付魔術師が塩商いをはじめるわけでもあるまいしな。何かの魔術に使うのか、用途はまったくわからないが、とにかくそれは大変な量だって事だ。塩は香辛料と同じく帝国内でも貴重品だから、あまり大量な商いだと目立つ。それを隠すためか、ヤツはその塩を国外のあちこちから分散して調達しているらしい。しかも、表向きその荷は薬草だの文書だの別のものが入っているように見せかけてあって、ヤツの私邸の倉庫には巨大な木箱にぎっしりつまった塩が山積みになっているという話だ」

「それを誰か確認したの?」

「いや、直接見た者がいるのかどうかは知らん。だが塩を扱う闇商人からそれを聞いた者がいる。その商人は最初大量に注文を受けた相手がヘルメスとは知らなかった。荷は別の人物の名前で発注され、その人物の屋敷へ届けるように言われたらしい。ところが輸送の道中、急な悪天候に見舞われたために大幅に荷の到着が遅れた。届け先では次にそこから荷物の運搬を請け負った運び屋が待っていたんだが、これとかなりもめたそうなんだ。商人はただその屋敷へ届けさえすればいいと思っていたから、数日の遅れが生じても大した事じゃないと考えていた。まさか別の場所へ運ぶために別の業者が待っているとは想像もしていなかったしな。一方、運び屋は計算では商人が荷を届けるはずだった日の翌日にその荷を屋敷から運び出さなければならない手筈になっていたから、いつまで待っても届かない商品にイライラしていたんだ。そういうわけでひと悶着あったものの、運び屋は何とか商品を受け取って早々に目的地にむかった。そこで商人はその運び屋がどこへその荷を運ぶつもりなのかを探り出そうと思いついたらしい。商人は運び屋を仲介屋だと思ったんだな。かなりまとまった量の注文だったから、仲介屋を通さずに直接商売できればそれに越した事はないと考えたんだろう。その結果、首尾よく商売相手が魔術師ヘルメス・フラメールだという手掛かりをつかんだ。」

「その商人は直接ヘルメスと交渉したの?」

「わからない。商人から話を聞いた奴は下層区の安酒場でその男に会って、たまたまこの情報を仕入れたんだ。商人はまだヘルメスに交渉を持ちかける手立てを考えている最中だった。蛇の道は蛇というが、そいつは同業者のつながりから自分だけじゃなく他の塩商人にも同じような大量の塩の注文がいくつか入っていることを嗅ぎ付けていた。自分がその大元締めになって、一番甘い汁を吸えるようにするにはどうすればいいのか、悪知恵をしぼって考えていたそうだ。とはいえ相手が相手だけに、一筋縄ではいかないとも心得てはいたようだがな。その後その闇商人がどうなったのかは、誰も知らない。これは三日ほど前の話なんだが、その後商人の顔を見た者がないからな」

セシアスは、鼻にしわを寄せて考え込んだ。

「あいつはそんなに大量の塩を一体何に使うんだろう?」

「さあな。普通に聞いた限りではおかしな話だ。だが、相手がヘルメス・フラメールだというだけで、そんな事は誰もあまり気にしなくなる。もっとも、この話はまだ巷に広まっているわけじゃないがな。まあ、奴も極力目立たないように事を運ぼうとしていたわけだが、まさか天気のせいで情報が漏れるとは思ってもみなかったろうよ」

「ただおかしな話だってだけじゃ誰もあいつを責められないしね」

「そういう事だ。誰が聞いてもクビをかしげるような話でも、それ自体が違法なわけじゃない。用途をまことしやかに説明されれば納得するしかないし、それはヤツには簡単な事だろうよ」

ぱたぱたと羽音が響き、二人の頭上を二羽の小鳥が通り過ぎて行った。
セシアスは小鳥を目で追いながら、呟いた。

「その塩商人、もう誰にも見られることはないのかも・・・」

オスカーは横目で少年を見やり、眼を細めた。

「軽々しくめったな事を言うなよ。俺達のようにヤツを胡散臭いと思っている人間も少なくはないが、ここじゃ逆の人間の方が圧倒的に多い。あの男の熱烈な信奉者はこの国には腐るほどいるからな。特に、女相手にヤツの話しをする時には気をつけるこった。ヘルメス・フラメールに目をつけられるのはあんまり歓迎できる事じゃないぞ」

「もうつけられてると思うよ。あいつがジリアン様に近づこうとするのを邪魔してばっかりいるからね、僕は」

やれやれ、というように肩をすくめて、オスカーは噛んでいた噛みタバコを吐き出した。

「最近は、あちこちで妙な事がおきてる。この帝都でも、そのうち皇帝付魔術師が尋常じゃない量の塩を買うよりもっとおかしな事がおこるかもしれんぞ?なるべく平穏におとなしく日々を送ったほうが身のためだぜ」

「おかしな事って何さ?他所で何か変な事がおきてるの?まあ、変って言えばずっと戦争をし続けてるこの国自体、変だと思うけど」

「この国の王族は、未来永劫領土を拡張しつづけるのが代々受け継ぐべき天命だと思ってるのさ。誰が始めたのか知らないが、いったい何代目の誰が終わらせるんだろうな?馬鹿げてるが、おかげで俺達傭兵は食いぶちに困る事はない」

セシアスは、あからさまに鼻を鳴らした。

「それで飯を食ってるあんたたちも大ばかだよ。で?そのおかしな事って何なんだよ?」

「実は、今回の遠征では帰り道で別指令が届いてな。そのお役目でかなり大陸を大回りして戻って来たんだが・・・道中で色々とおもしろい噂話を耳にしたんだ。中には自分の眼で確かめてきたものもある。まぁほとんどは人づてに聞いた話だけどな。ただ、様々な理由から、単なる噂では片付けられない話があるのさ」

少年は黙って続きを待った。

「近頃、黒い甲冑をつけた騎士が普通の馬の倍以上もある黒毛の馬に乗って帝国領のあちこちの山中に現れては村や集落を襲っている、というんだ。襲われた村落では誰一人助かることなく、皆殺しにされてしまうらしい。騎士は相当な巨体で見るからに不気味な姿をしているそうなんだが、夜にしか姿を現さない。陽が落ちると、恐ろしい馬のいななく声がどこからともなく聞こえてきて、あっという間に騎士がやって来るんだそうだ」

「その騎士は何者なの?」

「わからない。何者でもない、魔物なんだろう。その騎士はな、首から上がないんだとよ」

「首がない!?」

「そうらしい。全身黒づくめの首のない騎士が、大きな黒毛の馬に跨って死神みたいに現れるというんだ。遠征ではあちこちで山越えをする事が多いが、山間部の村落にはずいぶんその噂が広まっていて、皆怯えていた。あまり離れていない村同士で、見張り櫓を建てることを検討しているところもあったな。何にせよ今のところその騎士が現れるのは辺境地域に限られているようだが、もしもそんなバケモノが実際に存在していて、この帝都へ乗り込んできたりしたら、少なからず大騒ぎだろうな」

「それは帝国の領内で人を殺してるんだろ?皇帝が何とかしなきゃいけないんじゃないの?」

「もちろん、それが実在するのならな。だが、現状ではその黒騎士の話は単なる噂の域を出ていない。実際にその姿を目撃したという人物はごく少数で、襲撃を逃れて生き残ったという者は存在しないんだから。とはいえ、このまま噂が広まり続ければ、いずれはその真偽も含めて調査がされる事になるだろう。事実であれば、帝国として放置するわけにはいかないからな」

「ふうん・・・。で、あんたのお役目って方はどうだったのさ?」

「そっちは首無し騎士よりもっと現実的な問題だ。帝国領内だけじゃなく、他国でも同様なことが起きているらしいんだが、このところ各地で頻繁に教会荒らしがおきている」

「教会荒らし?」

「教会だけじゃない。修道院や祈祷所、聖堂と、宗派や宗教も様々だ。こちらは人が死んだり傷つけられたりという事はないが、施設の一部なりが破壊されたり盗まれたりしている。何の目的で荒らしているのかがよくわからないのも特徴だ。盗まれたものは特に金銭的価値が高いものというわけでもないし、破壊された部分にいたってはそれにどんな意味があるのかもわからない。ただ、その宗教や宗派の信者にとっては、自分達の神聖な信仰の対象を傷つけられるのは耐えがたい事だ。この国は侵略によって領土を広げ大きくなった征服者の国だが、制圧した他民族・他種族の信じる神や宗教までは抑圧しなかった。この国ではどんな神を信じようが自由だ。だから帝国の領内にはありとあらゆる神の社があり、教会がある。その多くの教会のどの宗派にも限定する事なく、教会荒らしをしている者たちは神聖な施設に忍び込んで爪あとを残していくんだ」

「ふうん・・・。それは、ラツィオの中でもおこってるの?」

「いや、まだ今のところは被害報告は上がっていないらしい。だが、いつ帝都のどこかが標的になってもおかしくはない。だから、今夜魔術騎士団の上層部が会合を開いて検討協議する事になった。その席に俺も呼ばれてるんだが、それが実はなんとヘルメス・フラメール殿の私邸なのさ」

「えっ!?オスカー、あいつの屋敷へ行くの!?」

「おう、帰路の任務で被害にあった教会にいくつか立ち寄って調査をしてきたからな。状況報告をしろと言われてるんだ。魔術騎士団の連中はこの教会荒らしを重く見ているらしい。首無し騎士に関しては、報告は既に上がっているはずだが情報も少ないしな。あそこの上層部の考えは、こちらにはさっぱりわからん。まぁ、まだ辺境地域の話だからな。バルセナタンがどう捉えているかはわからんが」

セシアスはオスカーから眼を逸らし、空を睨んで眉根を寄せた。
何かしら良くない事を考えているに違いない。そう思ったオスカーが話題を変えようと口を開きかけた時、それを察知したかのようにセシアスが突拍子もない事を言い出した。

「オスカー、その会合に僕を連れてってよ」

赤毛の傭兵は開きかけた口を開けたまま、大きく眼を見開いた。

「なんだと!?」

「呼ばれてるっていっても、一人で行くわけじゃないんだろ?あんた一応曲がりなりにも中隊長だもんな。中隊長くらいの身分なら、側仕えの従者とか連れててもおかしくないよな?」

「そりゃそうだが・・・」

「だからさ、僕をその従者に化けさせて、連れてってよ」

「何を言い出すかと思ったら・・・何のために?ヤツの屋敷にもぐりこんでどうしようっていうんだ?」

「どうって・・・その・・・調べてみたいんだよ。ほら、その塩の件だってさ。何の目的であいつがそんな事をしてるのか、ホントにそんなに大量の塩を溜め込んでるのかとか。もしかしたら、何か良くない事に使おうと思ってるのかもしれないじゃないか?」

オスカーは呆れて物も言えないという表情で、自らが保護した少年を見下ろした。
オスカー自身、時折どうやっても道理で説明のできない理屈をこねて無茶を通す事はあるが、同じ事をこの被保護者に認めるわけにはいかない。
相手はセシアスが勤める資料館の上司達のような腑抜けではなく、抜け目のない切れ者なのだ。

「お前、何でもいいからあいつの尻尾をつかみたいと思ってるんだろう?無駄だ。あの男は完璧だぞ?そうそう簡単にヘマをするようなヤツじゃない。逆に言い訳できない状況に追い込まれて、厄介な事になるのがオチだ。俺もまだしばらくこの割のいい仕事を手放したくはないからな」

セシアスはすっくと立ち上がり、オスカーを真正面から睨みつけた。

「自分だって、あいつのこと胡散臭いって思ってるんだろ!?もしあいつが何かまずい事を企ててたら、どうするんだよ!?その割のいいご大層な仕事だって、所詮皇帝の駒になって動く人殺し稼業じゃないか!もしあいつが皇帝をいいように操ってでもいたら、それだってどうなるかわかったもんじゃないよ!!」

オスカーは少年を落ち着かせようと、自分も素早く立ち上がり、セシアスの両肩に手を置いてなだめた。

「落ち着け!!そんな大声出すんじゃない。めったなことを言うなと言ったばかりだぞ」

セシアスは頬を紅潮させて静かに息を吐き出すと、彼から顔を背けた。

「とにかく、座れ」

そう言われて、少年はしぶしぶ腰をおろしたが、その表情は抑えた怒りと不満でこわばっていた。
オスカーは溜息を吐いた。
何の気なしに、少年の古傷を逆なでするような言葉を自分が発した失敗を察してはいたが、それに触れるのは避けたほうがいい事も彼にはわかっていた。

「いいか、セシアス。俺は別に偉ぶるつもりはない。だがな、少なくともお前の倍近くは生きていて、その分お前より色んなものを見聞きしてきた。だから言うんだ。あの男には関わるな。ひよっ子の手におえる相手じゃない。危険だ」

「月並みな台詞だね」

少年が鼻で笑う。

「俺は真剣に言ってるんだ、セシアス。お前は勘が鋭い。頭もいいし、機転もきく。いざって時の肝も据わってる。だが、今お前がしたがってるのは、単なる感情的な無茶だ。あの男の私邸に入り込んで、当てもなく何を探るって言うんだ?冷静に考えてみろ。相手は帝国専属の魔術師なんだぞ?下手をすればお前の上司であるジリアン司書長にも影響がある。そういう事も、よくよく考えろ」

ジリアンの名を出されると、セシアスの反発心は一気にしぼんだ。
確かに、オスカーの言うことはもっともだ。
セシアスが漠然と感じている魔術師への不信感だけでは彼を悪人と決め付ける理由にはならないし、当然、冷徹で策略家の魔術師が安々と他人に自らの秘密を知られるような隙を見せるはずもない。
それも、ただの図書資料館司書の少年ごときに。
一時の感情にまかせてヘマをすれば、事はセシアス一人で背負いきれるものではなくなる。

「・・・わかったよ。あんたの言う通りだ」

がっくりと肩を落とし、セシアスは項垂れた。

「・・・お前の気持ちはわからんでもない。しかし、感情だけで闇雲に動いたところでいい結果は生まれん」

オスカーは慰めるように、少年の柔らかな黒髪の頭をくしゃくしゃと撫でた。
その時、オスカーの眼の端に、遠ざかっていく小さな人影がちらりと映った。
金色の髪をなびかせ、優雅に歩く背中。
ヘルメス・フラメールだ。
図書資料館の正面玄関はこの南側の庭園からは見えないが、玄関前のスロープから伸びる歩道はよく見渡せる。
どうやら、少年の嫌う客は宮殿へ戻って行くところらしい。

「おい、セシアス。奴さん、ようやく帰ったらしいぜ」

オスカーは、遠ざかっていくヘルメスの背中をじっと見つめながら、撫でていた少年の頭をぽんぽんと軽く手のひらで叩いた。


***


「あら、ウィン様。おいでになっていらっしゃったのですか。遠征からお戻りになったのですね?」

去っていく魔術師の姿を確認した2人が正面玄関へ回ると、扉口に険しい表情をしたジリアンが重厚な扉の片側を開けたまま立っていた。
二人の姿を認めると、ジリアンはいつものように優しく微笑んだ。
セシアスはほっと安堵の溜息をもらしたが、ジリアンがいつになく厳しい眼差しでヘルメスの去った歩道を見つめていたことに再び不安を覚えた。
何かあったのだろうか?

「ごきげんよう、アナ司書長殿。いつもセシアスがお世話になっております」

オスカーは極上の笑顔をジリアンに向ける。
日頃この世の全ての女性を愛していると豪語する赤毛の傭兵は、上機嫌で彼女の手の甲に口づけた。

「いえ、私こそ、セシアスの助力にはとても感謝しています。彼は大変よく働いてくれますし、他の司書たちともうまくやってくれています。ウィン様にご心配いただくような事は何もありませんわ」

「それはよかった。安心しましたよ」

「何言ってるんだよ。別に僕の親兄弟でもないくせに」

セシアスが不満気に言う。

「セシアス、ウィン様はあなたの身元後見人なのだから、保護者のようなものよ。あなたの事が心配なのは、あなたを愛してるからだわ」

“愛してる”という言葉に、オスカーとセシアスが同時にぶっと噴出した。

「“愛してる”ですか。おお、セシアス、もちろん俺はお前を愛しているとも」

大笑いするオスカーの横で、ふてくされたセシアスが舌を鳴らした。

「中に入りましょう、ジリアン様。オスカーなんかここの資料文書には何の用もないんですから。帰都の挨拶はもう済んだ事だし、じゃあな、オスカー」

そう言いながらセシアスはオスカーに背を向け、つかつかと館内へ向かって歩き出した。

「おいおい、そりゃないだろ?久しぶりに会ったのに少しくらいゆっくり話しをしようぜ」

オスカーは大げさな身振りで嘆いて見せ、それを見たジリアンは思わずクスクスと笑いをもらした。

「セシアス、ウィン様のおっしゃる通りよ。お入りいただいて、私の私室でお茶でもご馳走なさいな。どうせ今日は仕事にならないんでしょう?他の司書たちはどうしているの?何人かは書架で見かけたけれど」

「昼食の時に司書長様方はジリアン様以外全員帰ったってわかったので、皆それぞれ好きに過ごしています。中には書架で仕事を続けている者もいるのかもしれませんが」

しぶしぶ、セシアスは答えた。

「なら、少しぐらいいいじゃないの。私も、今日はもう通常業務をこなしている余裕はないわ。夜までにフラメール様にお届けする文書を全て揃えなければならないし、支度をしなければならないから」

「支度?何のです?」

オスカーが聞く。

ジリアンは、小さく首を振ると、困った顔でオスカーを見た。

「今夜、私自身がフラメール様のところへ文書をお届けにあがらなければならないのです。そのまま夜に催される予定の宴席に同席する事ことも、承諾させられてしまいました」

「えっ!?」

セシアスが弾かれたようにジリアンへ顔を向けるのと、オスカーがヒューと軽く口笛を吹くのが同時だった。

「なんですって!?ジリアン様、なぜです!?」

「仕方がないわ、フラメール師は事前に資料の貸出許可を得た上でそれを依頼してきたんですもの。仕事として頼まれたことを拒否するわけにはいかないし、宴席の件についてはどのみち館長から今度お誘いがあった際には必ずお受けするようにと言われていたのよ。これ以上引き伸ばしても無意味でしょう?むしろ、あくまで仕事という形にできる方がありがたいわ」

ジリアンにそう言われては、セシアスには返す言葉がない。
物言いたげにぐっと言葉を飲み込む少年の様子を横目で身ながら、ジリアンは肩をすくめてオスカーに向かって苦笑した。

「もう噂はお聞きお呼びかもしれませんけれど、私、フラメール様から何度もお食事や宴席へのご招待をいただいていたのに、ずっとお断りしていたんです」

「ええ、知ってますよ。けっこうおもしろおかしく噂になってます」

オスカーはにやにやしながら答えた。

「大方は最後にはあなたが招待を受けざるを得ないだろうという見方をしてはいますが、中にはフラメール師が根負けするという方に賭けている者もいます」

「自分の動向が賭け事の対象になるというのは、あまりいい気はしませんね。ですが、その少数派の方々はこれで負けが確定です。セシアス、いいかげん中へ入りましょう。こんなところで立ち話をしていても仕方がないわ」

ジリアンに促され、ようやくセシアスをしんがりに三人は館内へ入った。
少年が重々しい音と共に大きな樫の木の飾扉を閉めると、天井の高い資料館内には低く木のきしる音が響いた。

「とりあえず、私の私室へご案内しましょう。暖かいお茶でも淹れますから」

先に立って歩き出しながら、ジリアンが言う。

「ありがとうございます」

オスカーは礼儀正しく返事を返したが、セシアスは眉間にシワを寄せたまま、むっつりと黙り込んでいた。
全員が無言のまま階段を上がり、最上階のジリアンの私室に入ると、書き物机の上には既に大量の書籍と古文書の箱が小山のように積み上げられていた。
ジリアンがヘルメスを送り出す前に、書架で見かけた司書の何人かに頼んで運んでもらったのだ。

「すごい量ですね。これ全部をフラメール師のところへ届けるんですか?」

オスカーは眼を丸くして訊ねた。

「いえ、おそらく全ては必要ないと思います。ただ、それを確認しなければならないので、ひととおりフラメール様のご要望の記載があるかないか、眼を通さなければなりません」

「お手伝いします」

セシアスがぼそっと呟く。

「どうした?急にえらくしおれちまったじゃないか?」

オスカーが少年の背中をばんばん叩くと、セシアスは苛立たしげに彼を睨みつけた。

「本当に仕方がなかったのよ、セシアス」

ジリアンは困ったように首を傾け、少年の眼を覗き込んだ。

「あなたがフラメール師を嫌っているのは、よくよくわかっているわ。フラメール師ご自身もそうおっしゃっていたくらい、見ていればどう思っているか手にとるようにわかるから。私を心配してくれているのも…。ありがとう。でも、どうしても避けて通れない事もあるのよ。あとは自分の力で厄介事に巻き込まれないよう、うまく切り抜けるしかないわ」

セシアスは黙ったままう頷いたが、もちろん納得のいった表情ではない。
オスカーがジリアンと眼を見合わせ、やれやれといった顔で片眉をあげて見せた。
お湯を沸かす火をおこすために小さな暖炉に向かいながら、少年は机の上の山積みの文書に眼をやった。

「いったい、フラメール師は何の資料を届けろと言ってきたんですか?」

「今回は、竜族の伝承・伝説・研究関連の文書と、その同時代の帝国史の文書よ。主に竜族の分岐種族に関する伝承、特にドラグ・シードについて詳しく調べたいって。保管庫で竜族の伝承録もひととおり見ていかれたわ。あれは貸し出しする事はできないから」

ジリアンは、オスカーに私室で一番具合のいい長椅子を勧めてから、少年の質問に答えた。
資料室でのヘルメスの傍若無人なふるまいを思い出し、また怒りがよみがえってきたが、何度か強くまばたきを繰り返し、それを押さえ込んだ。

「竜族?また古臭い伝説を調べているんですね、我国の魔術師どのは。竜族はもうずいぶん昔に絶滅したといわれてる伝説の変化種族でしょう?人の姿と竜の姿、どちらにもなれたという」

オスカーが口を挟む。

「いえ、完全に絶滅していると言い切ることはできません。学会研究者の発表によれば、現在も竜族の末裔は細々とではありますが血筋を残していると考えられています。もちろん、かつて繁栄していた頃のように濃い血統ではないでしょうし、分岐族が更に分岐した末裔といった、かなり枝葉的な生き残りだとは思われますけれど、それでも竜族の血を受け継ぐ一族はまだ存在していると言われています。ただ、彼らは長い過酷な歴史を経て現在まで生き残ってきたので、非常に警戒心が強く、自分達の素性が知れることを嫌います。おそらく、変化能力ももう持たなくなっているでしょう。ですから、現代に生き残っている竜族の末裔を見つけ出すのは、とても難しいのです。それで、一般的には絶滅したと思われているのですけれどね」

暖炉に暖かい火が入り、セシアスが湯を沸かす準備を整えると、ジリアンの私室には心地よい温もりが満ちた。

「ドラグ・シードってのは何です?」

オスカーが続けて訊ねた。

「ドラグ・シードというのは、竜族の中で最も強い魔力を持った一族の総称です。始祖の竜族の血を一番濃く受け継いだ、進化種だと考えられています。竜族は年代を経るに従って多くの分岐種族に分かれていきましたが、その大元にいた種族だと言われていて、私もそれほど詳しい知識は持っていませんが、伝説として有名な“黒竜”がそのドラグ・シード一族の代表格ですね」

「“黒竜”伝説…ですか。ロムネル帝国建国の時代の伝説ですね」

「そうです。この国がまだ小さな中原の小国家であった頃の伝説です」

「そんな時代の古臭い伝説を調べて、何がおもしろいんでしょうかね?」

オスカーは長椅子にもたれて寛ぐと、鼻で笑うようにそう言った。

「ウィン様には、まったくご興味のあるようなものじゃございませんものね」

クスクスとジリアンは笑った。

「フラメール師は保管庫の伝承録も調べていったんですね?」

セシアスが静かな口調でジリアンにたずねる。

「ええ、タペストリーから何から、ひととおり全部見ていかれたわ。あまり時間がなかったから、ざっとという感じだったけれど」

「そうですか」

セシアスはお茶を淹れるためのポットに薄荷の葉を茶葉と一緒に数枚入れ、カップを準備すると、意を決した表情でジリアンへ向き直った。

「ジリアン様」

ジリアンは顔を上げ、セシアスの紺碧の瞳を見返した。

「何かしら?」

「これだけの資料を一人でフラメール師の私邸まで運ぶのはとても無理です。当然運び手も必要ですし、私を一緒にお連れください」

「えっ?あなたを一緒に?」

ジリアンは一瞬眼をしばたたいたが、オスカーはまたか、というように顔をしかめた。

「でも、運ぶといっても私が荷を運ぶわけではないのよ?フラメール師からは迎えの馬車をよこすと言われているし…」

「私はジリアン様の部下で助手ですし、不自然なことはないでしょう?これだけ多くの文書を持ち出しするからには二人以上の人間が同席して、それを確認する必要が十分あります。宴席に出席されている間はお待ちしていますから」

「おい、セシアス」

セシアスは、オスカーを無視した。
ジリアンは、とまどった。
確かに、ヘルメスの私邸へ届けなければならない文書資料はかなりの量になる。
相手が相手だけに細かな手続き上での段取りをとやかく咎められることはないだろうが、本来ならばこれだけ大量の書物の貸し出しの受け渡しには、紛失や間違いを防ぐためにも二人以上が立ち会うことが具体的に義務付けられている。
ヘルメスは単に荷物を運ぶ事だけを彼女に要求しているわけではなく、それを口実に彼女を私邸に招くのが目的でもあるのだから、一人でヘルメス邸を訪れなくてすむのなら、それにこしたことはない。
しかし、だからといってセシアスを伴って行くのが賢明な行為であるとはジリアンには思えなかった。
何と言ってもセシアスはまだ若いし、日頃取り繕えない魔術師に対する悪感情をうまく面に出さずにすませられるとは考えにくい。
必要以上にヘルメスにセシアスを意識させる事は、この先決してセシアスのためにならないだろう。

「お願いします、ジリアン様」

庭でオスカーに食ってかかった時とはうって変わって激した風もなく、セシアスは真剣だ。
同じ事を要求しているにもかかわらず、先程と今ではセシアスの様子はまるで違う。
単なる感情につき動かされた衝動的なものではなく、そうする事がどうしても必要なのだとでも言わんばかりに強い意志が見え隠れしている。
その少年の内の明らかな変化が、オスカーは不思議でならなかった。
ジリアンはまだ答えあぐねている。

「俺が同じ邸内にいるとわかっていても、お前はアナ殿が心配だって言うのか?」

オスカーの険のあるもの言いに、セシアスは視線を自分の後見人に移した。
同時に、ジリアンも眼を丸くしてオスカーを見た。

「ウィン様も今夜フラメール様のところへいらっしゃるのですか?」

「ええ、私は魔術騎士団の会合に呼ばれているのです。会合の後の宴席にももちろん出席しますから、アナ殿がご迷惑でなければ無事にこの私室まで送りとどけて差し上げますよ。それでセシアスが安心してくれるならお安い御用だ。いや、むしろ役得かな」

オスカーはセシアスが彼のその言葉に反発するだろうと踏んでいたが、予想に反して少年は苛立ちや怒りの感情を示す事はなかった。
ただ懇願するような強い眼差しを彼に向け、もどかしげに言葉を継いだ。

「別にオスカーを信頼してないわけじゃない。もちろん、ジリアン様に何もないように、絶対に守って欲しいとは思ってるよ。けど、あんたには傭兵としての立場があるし、もし何か想定外の事がおきた時、どうにもできない事もあるかもしれないじゃないか?手は多い方がいいだろ?」

オスカーは、しばらく黙ってセシアスの澄んだ夜空のような瞳を見つめていた。
一体、なぜそうまで少年はヘルメス・フラメールにこだわるのか?
曲がりなりにも騎士団が集まる集会の場で、一体どんな想定外の事態がおきるというのだ?
のど元まで出そうになったその疑問を、オスカーはぐっとこらえて胸の内におさめ、冷静になって考えてみた。
確かに、セシアスの言うことも間違いではない。
ジリアンの供としてセシアスが書物を運ぶためフラメール邸を訪れるのは特に不自然ではないし、オスカー自身少年が言うように実際には四六時中彼女の横に張り付いているわけにはいかないのだ。
とはいえ、迎えに来たヘルメスの使いと共にフラメール邸へ入るのでは、用が済んだらさっさと一人で帰されるか、悪くすれば控えの間に閉じ込められないとも限らない。
そうなれば、結局は最初から一緒に行かないのと同じ事だ。
ややあって、オスカーは重たげに口を開いた。

「・・・前髪でも切ってみるか?」

「え?」

オスカーの思いがけない言葉に、セシアスも、黙って二人の様子を見守るしかなかったジリアンも、すぐには返事ができなかった。
オスカーは苦笑いしながら、燃えるような自身の前髪を両手でかきあげた。

「お前には負けたよ。しょうがない、連れてってやる。俺の側仕えの従者としてな。ヤツとしては、おそらくアナ殿に余計な供を連れてきて欲しくはないだろうし、俺にくっついている方がかえって自由が利くだろう。ただし、お前はヘルメスに面が割れてるからな。一応軽くでも変装したほうがいい。洞察力の鋭い男だから、効果のほどは怪しいもんだが、お前の印象はきっといつも前髪で顔を隠した暗い少年って感じだろうから、髪を切って短くすればちょっと見は別人に見えるんじゃないか?傭兵部隊の従者は兵隊に負けず劣らず、色んな人種・種族の寄せ集めだし、そうすればすぐにはお前だとはわからないだろう。だが、なるべくヤツには近づかない事、俺の指示には必ず従う事が条件だ。どうする?」

セシアスの表情が、一気に明るくなった。
顔中に喜びが広がり、口元が自然に綻ぶ。

「約束するよ!自分からは絶対にあいつには近づかないし、言われたとおりにする」

最後の部分はあまりあてにならないだろうとオスカーは密かに思ったが、なるようになるさと自分自身を納得させ、あっけにとられているジリアンに向かって片目をつぶって見せた。

「申し訳ありません、アナ殿。そういうわけですので、今夜あなたの部下をお借りする事になりました。もちろん、フラメール邸でのあなたの安全は私が身をもって保証しますよ」

[2006年 XX月 XX日]

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