[2006年 XX月 XX日]
正午を告げる大聖堂の鐘が鳴りはじめ、ジリアンは読んでいた手紙から顔を上げると、窓外に広がる清々しい青空に眼を向けた。 大聖堂のそれを追いかけて、街のあちこちに点在する寺院や祈祷所からも一斉に鐘の音が響き始める。 重々しく震える音、軽やかにはずむ音、まろやかに柔らかく響く音。 いくつもの異なる音色が交じり合い、重なり合って、しばらくの間久方ぶりの好天に恵まれた帝都の空を覆った。 読みかけの手紙を手にしたままジリアンは窓辺に歩み寄り、眼下に広がる建造物の朱い屋根の海を眺めた。 現在、二十を超える近隣の小国や他種族の領土を制圧し、国土を拡張し続けているロムネル帝国の心臓部であるここ首都ラツィオの人口は、およそ百万人ほどにのぼり、種族も生業も身分も様々に異なる雑多な人々が、なだらかな丘の頂にそびえる広大な白亜の宮殿を中心に螺旋状に広がる市街に居住している。 都市は全体をぐるりと長い外城壁に囲まれており、東西南北に設けられた四つの大門がそれぞれ大陸の四方へと通じる大陸街道へと直に繋がっている。 この大陸街道を通じて、帝都へは領土のあちこちから様々な物資や人が流れ込んでは出て行くのだ。 各大門には守番所が設置され、帝都への出入りは厳しく詮議を受ける。 街道から大門をくぐって帝都内部へ入ると、宮廷を取り囲む内城壁の小門まで続く緩い斜面には石畳の広々とした大通りが整備されており、その主要路を境として都市の住人が居住することを許される区画は地位や身分・種族などに従って細かく分けられていた。 それぞれの区画には地位・身分・種族による区長が選出され、治安の管理や統制が徹底される。 先々代の皇帝は芸術に対する造詣が深く、建築物の美観や配置に懲り、かなりの情熱をもって都市整備に尽力した。 その結果、ラツィオの街並みは都市全体が建築芸術とも言うべき美しい外観を誇るに到ったものの、それを長期的かつ効率的に保つため、住人達には多くの窮屈な決まり事が強いられるようにもなった。 その一つが、屋根に使われる材質である。 ラツィオの外観を統一された色彩美で彩るため、建物の屋根には必ず大陸の南砂漠地域で採取された朱色の岩粉から作られた瓦を使う事が義務付けられており、これによって宮殿から眺めおろす都市の景観は朝夕に見事なまでの朱色に染まる。 その幻想的で美しい街並の風景が口伝でひろまり、帝都ラツィオは“朱の都”の通称で知られるようになった。 当然ながら丘の頂に建つ宮殿は皇帝の居城であるが、強大な帝国の屋台骨を支えるために最も重要な軍事及び行政に関わる全ての中枢機関も、帝都では城とともに内城壁の内側に設けられていた。 軍事・行政以外にも、帝国国教会の総本山である大聖堂や裁判所、癒術院など様々な施設が完備され、これら各所に職を得ている者に限っては、宮廷内での寝泊が許されている。 身分や地位によって、まったくの住居に近い屋敷を与えられている者もいれば集団で生活を共にする宿舎をあてがわれている者たちもおり、それに伴って必要なものを売り買いする店舗なども存在する。宮廷を取り囲む内城壁の中にはもうひとつの小さな都市があるようなものだった。 今ジリアンが整然と丘の裾野に向かって広がる美しい朱色の屋根を見下ろしているこの部屋も、宮廷の北東の一角に位置する宮廷図書資料館の中にある。 ジリアンに与えられた居室は資料検分室および復元作業の為の保管庫を兼ねた仕事部屋とそれに続く居間、仮眠用の寝台が設えられた小部屋の3室で、膨大な量の書物を収めた図書資料館の最上階に位置していた。 最も見晴らしの良い東側には図書館長の居室があり、副館長、司書総長、司書長と役職順に並んだ居室の最も下位に位置するのがジリアンの部屋であったが、ジリアンを最年少として五人いる司書長を含め、この居室を生活の場としても活用しているのは彼女だけだ。 館長も副館長も司書長を束ねる司書総長も、与えられた立派な居室を使う事はめったにない。 彼らは内城壁の外、高級官僚の居住区に立派な私邸を持っており、執務時間中であってもそちらで過ごす事のほうが多い。 帝国が国の財産として保管している図書資料の保管施設である宮廷図書資料館には、ごく限られた人間の他にあまり出入りする者はない。 もちろん現在世界に冠たる学問都市・スカラビア公国を属領として内包し、文化的啓蒙国家を公称する帝国としては、表向き図書資料館に収められた書物は特別なものを除いて広く一般人にも公開することになってはいる。けれども、そのためにはまず宮廷内に入廷する許可を得た上で更に入館申請をしなければならず、その手続きを踏むには相当の日数と時間がかかる。よほどの理由がない限り、その手間をかけてまで宮廷図書資料館を利用しようと思う一般人は少ない。 とはいえ実務の現場について言えば、長いロムネル帝国の歴史と共に帝国には様々な類の書物・資料が相当量蓄積しており、それを整理・管理・保存するには人手も時間もそれなりにかかる。 特に、建国当時より以前に遡るような古い古文書などには、慎重で厳重な保管体制と定期的な修復作業が不可欠だ。 火急を要する仕事はほとんどない代わりに地道に積み重ねていく細かい業務は山ほどあり、ジリアンは入館以来その作業を日々こつこつと誠実にこなしてきた。 ここでは上位の役職についている者ほど追われる仕事はなく、宮廷図書資料館の官職に就くのは大抵の場合勤勉とは無縁で野心もなく私邸でのんびり悠々自適な毎日を過ごしたいとか、そこそこの収入で煩わしくない地位を得たいと願う老齢もしくは怠け者の貴族たちで、日々の実務に追われているのは少数の下位職者だけなのだった。 ジリアンが最近になってその下位職者の中から史上最年少の司書長に抜擢されたのは非常に稀なことで、彼女自身その異例の昇進に少なからず驚いたが、今では勤勉な上に能力も高いジリアンを盾にすることで自分達の怠けぶりを目立たなくさせると同時に、業務も滞ることがないという実に手前勝手な目的からの人事采配だったのだと彼女もよくよく理解している。とはいえ帝都での後ろ盾も何もない一介の女司書にしてみれば、城下に許された下流層の居住区からかなりの距離がある自らの職場へ毎日歩いて通う必要がなくなるばかりでなく、家賃の出費が抑えられるとあってはそれだけでも十分ありがたくはあった。 彼ら管理職に職務に実直たれと望むのは、どだい無理な話なのだ。 鐘の音が長い余韻を残して澄んだ空のかなたに消えていくと、ジリアンは窓枠に寄りかかった姿勢のままで手紙の続きに眼を落とした。 このごろ、ロザリンは以前に比べてよく手紙をよこすようになった。 遠く離れた故郷、スカラビア公国にいる双子の妹の手紙には、長年の願いが叶って想いを通じ合えた恋人のことや、稼業の酒場を切り盛りする父親のことなど、とりとめもない近況報告が綴られてくる。 それらの便りに近頃どことなく漠然とした違和感を感じる気がして、ジリアンはかすかに不安をおぼえていた。 双子の姉妹である彼女たちは、赤ん坊の時から何もかもそっくりだった。 髪の色、瞳の色、背の高さ、声、しぐさにいたるまで、亡くなった母親にも見分けがつかないほど二人はよく似ており、幼い頃は感情の移り変わりや病気にかかるタイミングでさえ、申し合わせたかのように一緒であった。 長じるに従って徐々に物事への興味も好みも少しずつ個々に変化していったが、遠く離れて別々の生活を営んでいても、心の奥深いところでは常に姉妹はお互いを感じ合い、意識し合っていた。 その自らの分身のようなロザリンからの手紙に感じる違和感が一体なんなのか、ジリアンにもはっきりとはわからなかったが、それを気のせいだとごまかせないほど彼女の不安は日ごとに膨らみつつあった。 なぜこんな風に胸騒ぎがするのだろう? 恋人ができたばかりの幸せそうな妹の顔を思い浮かべ、ジリアンは首を振った。 「どうかなさいましたか?」 気遣わしげな声に、我に返ってジリアンは戸口へ眼を向けた。 艶やかな黒髪の少年が、両手いっぱいに古い書類を抱えて開いたままの扉を背に立っていた。 額に垂れかかる長い前髪に隠された、夜空のような紺碧の瞳が案じるように曇っている。 「なんでもないわ、セシアス。ちょっと考え事をしていたものだから」 ジリアンはにっこり微笑んで手紙を折りたたむと、生真面目な助手の少年から大量の古資料を受け取った。 「今日の分はこれだけ?」 「いいえ、まだ西の奥の書架分があります。ですが、今日はこれだけ眼を通していただくので手一杯でしょう」 「あら、どうして?」 「もうジリアン様の他に今日は誰も司書長はいらっしゃいませんから。正午の鐘が鳴り始めたら、皆お帰りになりましたよ」 セシアスは肩をすくめて皮肉っぽく唇の端を歪ませた。 そのしぐさはこの黒髪の少年のよく見せる癖であったが、そうすると、どちらかといえばまだ少女のような面立ちが、少し大人びた表情になる。 「それに・・・」 セシアスの歪んだ口元が、今度は怒っているようにぎゅっと引き締められた。 「それに?」 真っ直ぐにジリアンに向けていた視線を窓の外へ移し、少年は何かを睨みつけた。 「ヘルメス・フラメール師がお見えになってます。ジリアン様にお会いしたいと」 「ヘルメス・フラメール師・・・またなの?」 ジリアンはうんざりしたように呟くと、溜息を吐いて書類を書き物机の上に置いた。 「ジリアン様は体調がすぐれないといってお断りしましょうか?」 セシアスがいかにもそうしたいと言わんばかりに提案した途端、柔らかな声がそれを制した。 「それは困るな。今夜こそはぜひとも宴席にご招待したいと思っているのに」 ジリアンとセシアスが同時に振り返る。 部屋の戸口に寄りかかるように片手をついて、そのヘルメス・フラメールが謎めいた眼差しをこちらへ向けて立っていた。 ジリアンは一瞬、小さく身震いしそうになるのを何とかこらえた。 彼女のささいな表情の変化から心の内をはかっているのか、ヘルメスは唇の両端を緩やかに持ち上げ、眼を細めた。 ただそれだけのことで、この青年の面には世にも麗しき天使の微笑が浮かび上がる。 深い森の闇にも似た暗い濃緑色の瞳が、微笑みながら真正面から容赦なくジリアンの眼を射抜く。 金糸のように見事な黄金の巻き毛の青年は、その眼に欠片ほども感情を映さない。 ヘルメスの眼を見るたび、ジリアンはいつも得体の知れぬ底なし沼を覗き込んでいるかのような錯覚に囚われる。 いくら水面を見つめたところで、そこにはただこちらを見つめ返す自分の姿が映るだけ。 深い沼はその奥底に秘めるものを、誰にも知らしめるつもりはないのだ。 ヘルメス・フラメールは、今や帝国が何人も抱える皇帝専属の魔術師達の中で、歴代最も若年の実力者として広く帝国内外にその名を知られている。 皇帝からの信任も厚く、陰では皇帝をさえ凌ぐ権力者と噂されるほど、この若き魔術師の影響力は非常に強い。 魔術師としての能力が他に抜きん出ている事はもちろん、天の恵みとして授かったすばらしく美しい容姿が、特に何にも代えがたい力を彼に与えていた。 やや中性的な面立ちは男女どちらに対しても存分にその効力を発揮し、長身でしなやかな体躯は優美な動きで人々を磁力のように惹きつけ、その容貌に見合う柔らかな美声は人々の心を夢見心地の内に魅了した。 多くの人はヘルメスに見つめられ、心地よく耳をくすぐる音楽のごとき声に語りかけられるだけで、いつの間にかこの魔術師の虜となる。 だが、ジリアンは違った。 初めてこの図書資料館でヘルメスと対峙した時、魔術師の瞳の奥に隠された計り知れない闇に、ジリアンは気づいた。 その時から、ジリアンにとってこの美貌の麗人はただの美しい青年ではなくなった。 人々がまばゆい太陽と称える彼の微笑みは、彼女に冬の朝の凍てつく冷気を想起させ、その唇から零れるどんなに優しげな声音にも、ジリアンの本能は密やかな毒の匂いを敏感に嗅ぎとった。 帝国の誰もが憧れる魔術師に、彼女は冷たさと漠然とした悪意のようなものを感じこそすれ、人としての暖かみを一切見出すことができなかった。 彼と顔を合わせる機会が増えるにつれて、ジリアンの中では魔術師との関わりを避けたいという思いが強く膨らんでいった。 ところがその願いとは裏腹に、この数月ヘルメスは幾度となく図書資料館へ足を運び、その度に助力を求めてジリアンを訪ねていた。 帝国第一級の魔術師は政への関心同様自らの知識を深めることにもたいそう意欲的で、元々ジリアンが司書としての職を得るずっと以前からしばしば図書資料館を訪れていたが、このところその来館はかつてない頻度になりつつあった。 もちろん、ここだけでなく必要とあらばスカラビア公国の学都バルセナタンへまででも足繁く通ってヘルメスは求めるものを得る。 欲するものはどれほどの時間や労力を費やそうとも必ず手中に収める。 その強い執着心と情熱があってこそ、彼は現在ある地位を手に入れられたのだ。 しかし、そのために彼は緻密な計算のもと常に細部に至るまで網の目のごとく冷淡な策略を巡らせているはずで、それを内心快く思わない者も宮中には存在している。 ジリアンは特にヘルメスに敵対したいと思っているわけではなかったが、どちらかといえばその少数派の側に近い印象を彼に対して抱いていた。 「いらっしゃいませ、フラメール様。本日はどのようなご用向きでしょうか?いつもご利用の閲覧室の鍵は、先日お渡ししたままだと記憶しておりますが…?」 ヘルメスは天使の微笑を保ったままゆっくりと戸口から離れ、室内に足を踏み入れた。 柔らかな巻き毛がふわりと揺れ、かすかな香の香りがあたりに広がる。 セシアスは思わず鼻にしわをよせ、ヘルメスの顔が見えない位置まで後ずさった。 「もちろん、あなたの言う通り私は閲覧室の鍵を持っていますよ、ジリアン。おかげでいつでも自由にあの部屋を利用する事ができます。ありがとう。今日は、また探していただきたい資料があって来たのです。書架へお供願えませんか?」 「…わかりました。ではすぐに参りましょう。お忙しい御身の午後のお時間を減らしてしまっては申し訳ございませんから」 「私もお手伝いいたします」 すかさず、セシアスが申し出る。 ヘルメスはジリアンの上に留めた視線を逸らさず、少年の方は一顧だにせぬまま首を振った。 「たいした量ではないのでね。二人もの手を煩わせる事はない。それに、彼女は私と昼食を共にしてくれる気はなさそうだから、資料が見つかればすぐに退散するよ」 仕方なくセシアスは引き下がった。 ジリアンはそっとセシアスに目配せをして頷くと、ヘルメスを促して部屋を出た。 「あなたは昼食をとっていらっしゃい」 部屋の戸に鍵をさしこみながらそう言って、ジリアンは書庫へ降りる螺旋階段をヘルメスと共に降りていった。彼女の後姿が床下にすいこまれるように見えなくなるまでの間、セシアスはずっとヘルメス・フラメールから眼を離さなかった。 魔術師の姿が眼の端から消えると、セシアスは苛立たしげに下唇を噛み締め、もはやどちらの影も見えなくなった螺旋階段の下り口を睨みつけた。 どこがどうと、はっきり言えるわけではない。 けれども、セシアスはジリアン同様、初めて見た時からヘルメス・フラメールが嫌いだった。 ただ本能的に。 そして、自分自身の本能的な直感が過去にあまり外れた事がない事を、少年はよく心得ていた。 その幸運な才能に恵まれていたからこそ、セシアスはこれまでのあまり幸せとはいえない人生をそこそこ平穏に過ごしてこられたのだ。 彼の上司は芯の強い聡明な女性だが、少しばかり控え目で人の良すぎるところがある。 ヘルメスが何の目的でこのところ頻繁にジリアンのもとを訪れているのかはわからないが、セシアスにとってあまり歓迎できる事態でないことは間違いなかった。 「気に入らないな、あいつ…」 そう小声で呟くとセシアスはくるりときびすを返し、ジリアン達が降りて行ったのとは反対側にある階段から階下の館職員用控え室棟へと降りて行った。 *** *** 「どうやら私はずいぶんとあの少年に嫌われているらしい。彼は、よほどあなたのことが心配だとみえますね」 ジリアンの後ろについて螺旋階段を降りながら、ヘルメスが面白そうにそう言った。 「そうでしょうか?まぁ、私はあまり要領も良いとは言えませんし、他の司書長様方より随分若輩ですから、頼りなく見えるのでしょう。あの子は働き者で頭の良い子ですから」 ジリアンは当たり障りのない言葉を選んで答えた。 セシアスがヘルメスを嫌っていることは、ヘルメス本人にも筒抜けでわかってしまうほど、疑う余地なく明らかであったが、いかに空々しく聞こえようと素直に「はい、そうです」と肯定するわけにもいかない。 「頼りないとはとんでもない。彼も確かに有能なのでしょうが、あなたの能力の比ではないでしょう。あなたの素晴らしい記憶力と洞察力のおかげで、私はこのうんざりするほど膨大な量の文書の中から必要な資料を速やかに見つけだす事ができる。私にとっては、あなたほど頼りになる司書はいません」 「お役にたてて光栄です」 形ばかりの礼を述べ、ジリアンは螺旋階段を降り切ると、足早に先立って書庫への通路を進んだ。 帝国の専属魔術師に対して彼女のこの素っ気ないふるまいはいささか礼を失してはいたが、ジリアンはなるべく彼との長い会話を避けたかった。 できるなら、ヘルメスと同じ空間を共有することも。 彼女のその率直な気持ちを宮中の高貴な身分のご婦人方が知れば、珍獣を見るような眼でジリアンを見るに違いない。 ヘルメスの魅惑的な風貌と権力に魅せられ、彼に近づく機会を虎視眈々と狙っている女性は掃いて捨てるほどいるのだ。 そのヘルメスからの再三にわたる食事の招待を、ジリアンは何かと理由をつけては断り続けていた。 次に彼からの招きがあれば、さすがにこれ以上断るのは失礼に値すると思われるほど何度も。 既に館長からもジリアンは直々に呼び出され、勧告を受けていた。 帝国一の権力者からの招待を断りつづけた末に機嫌を損なう事にでもなれば、彼らの現在の地位を揺るがす要因にもなりかねないと、ジリアンの上司たちは危惧しているのだ。 彼女にできるささやかな抵抗は、ひとつしかなかった。 とにかくヘルメスに誘わせなければいいのだ。 とはいえ、実際にはそれは簡単ではない。 無駄な事とは知りつつも、ジリアンはできる限り業務に関わりのない会話をヘルメスと交わさないようにしようと思っていた。 「私と話をするのがお嫌ですか?」 ジリアンの考えなどお見通しというところだろうか、ヘルメスはクスクス笑いながら彼女の背中に穏やかに話しかけた。 書庫の扉の取っ手にかけた手が、一瞬止まる。 「そんな事はありません」 「そうですか?では私の思い過ごしでしょうか。あなたはそれこそ細心の注意を払って、私を避けようとしているように見えるので」 まさにその通りだ。 ジリアンは言葉に詰まったが、力を込めて扉を大きく開き、思い切ってヘルメスを振り返った。 彼女の視線を真っ直ぐ受け止める濃緑の瞳には、強い光を宿した彼女自身の眼が映っている。 「正直に申し上げるならば、私は自分に自信がないのです。フラメール様に思っていただいているほど、私は有能ではありません。身にあまる評価をいただいていると思うと、とても・・・何といいますか、恐ろしいのです」 「あなたは私に過大評価をされていると思っているのですか?ではそれも思い過ごしです。私は自分の基準でしか人も物も評価しません。ですが、誉めすぎがあなたにとって少々重圧になるというのなら、あまり誉めすぎないように心がけるとしましょう。会話どころか、会ってももらえなくなってしまっては困りますからね」 ヘルメスを先に通すため、扉を支えたまま脇に控えたジリアンの腕をそっと取り、ヘルメスは共に室内に入るよう彼女を促した。 ヘルメスに触れられた途端、ジリアンは身体の芯が痺れたようにぞくりとするのを感じた。 ヘルメスは書庫内に入るとすぐにジリアンの腕を放し、高い天井まで届く書架の列が迷路のように並んでいるのをじっくりと眺めた。 ここは、書物の迷宮だ。 もちろん、この資料館に収められている書物や文書は細かく分類され必要な処理を施された上で保管されており、ある程度は館内に精通していない者でも求めるものを探す事はできる。 けれども、探し物が専門的なものであったり非常に特殊な分野に属するものである場合には、司書の手を借りずにそれらを見つけ出すのは楽な作業ではない。 ヘルメスは、書架の最も奥まった一角を目指して歩き出した。 求めるものがどの区画に収まっているのか、ヘルメスにはおおよその見当はついているらしい。 それほど、ヘルメスはこの図書資料館へ通いつめているのだ。 「今日は帝国前史に関する文書と、記録を調べたいのです。それと、竜族の伝承・伝説及びその研究文書」 「帝国前史のいつ頃のものですか?ご存知の通り、史記類は古期・前期・中期・後期に分けて収めてありますが、今ちょうど修復作業に入っている古文書がいくつかありますので。竜族についての記述は、おそらく古期よりも前期の資料に多く記されていると思いますけれど、竜族自身の手で残された伝承録はこの書庫にはありません。地下の資料保管庫に収めてあります。竜族の何についてお調べになりたいのですか?」 書庫内に入るなり、てきぱきとした有能な司書の顔になったジリアンは、それ以上ヘルメスが彼女との会話の幅を広げようとしなかった事に内心ほっとしつつ、彼の後に続いた。 「分岐種族の歴史と伝承。特に、“ドラグ・シード”についての詳細が知りたいのです」 「ドラグ・シード…。それはたいへん専門的な分野ですね。バルセナタンになら何人かその研究家がいるので、最新の論文なども揃っていますが…」 「いや、研究家の書いた論説よりも、伝承を記録した古文書そのものが見たいのです。竜族が現在にいたるまでの長い歴史の中で、始祖の血族から随分枝分かれしていった事は承知していますが、その分岐の過程とそれが始まる前、まだ古い血が濃く残っていた時代に彼らが残した記録を調べたい。その同時期にあたる帝国史と、口伝を文書におこしたものも含めて」 「わかりました。ですが、そうなると少々時間を要しますね。古文書や文書などはある程度選別しても相当数あると思いますし、伝承録の原本は基本的に保管庫からの持ち出しは難しいので。閲覧室をお使いになりますか?」 「いや、今日はあまりこちらでゆっくりできる時間がないので、できれば私の私邸へ届けてもらいたいのです。貸し出しの許可は既に館長から取ってあります」 「わかりました。では、保管庫のもの以外はお届けにあがるよう手配いたします」 その言葉を待っていたかのように、ヘルメスは立ち止まり、ジリアンを振り返った。 「貴重な資料文書です。不備のないよう、責任を持ってあなたが届けてください。今夜、私の私邸で魔術騎士団の会合があります。その後ちょっとした宴席を設けることになっていますので、それに間に合うようにお願いします」 しまった。 そういう事か。 まんまと嵌められたと思ったが、仕事を盾にとられてはどうしようもない。歯ぎしりしたい思いを何とか押さえつけ、ジリアンは観念して溜息を吐いた。 「……わかりました。必ずお届けします」 ジリアンの答えを聞くとヘルメスは満足気に微笑み、再び書架の谷間へ向かって歩きだした。 仕方がない。 もともと館長からは次に招待を受けた際には絶対に断らないように、と念押しされていたのだ。 仕事の一環という体裁をとれるだけ、まだマシかもしれない。 ヘルメス・フラメールという人物のみならず、公の宴席に出席すること自体、ジリアンは苦手だった。 これまで、ヘルメスの誘いをずっと断り続けてきたのは、半分はそれが理由でもあったのだ。 また、彼の招待を受けることで帝国の社交界にいらぬ風聞をたてられる事になるのも嫌だった。 彼女は、ただの平凡な一介の図書司書にすぎない。 由緒ある高貴な血筋でもなければ、有力な後ろ楯があるわけでもない。無論、出世の野心などというものにはおよそ縁も興味もない。 ヘルメスに目をかけられることで、無縁だったはずの厄介ごとに巻き込まれたくはなかった。 「該当すると思われる文書は、かなりの量がありそうですね。まず先に伝承録の原本を拝見しましょう。私邸へ届けていただけるものは後でいくらでも検分できますから」 ジリアンの憂鬱な気持ちに拍車をかけるがごとく、しばらく書架の谷間を歩き回って書物の背表紙を眺めた後、ヘルメスは上機嫌でそう言った。 ジリアンは言われるまま、地下の資料保管庫へヘルメスを案内した。 地下保管庫には書籍や文書の体裁を持たない類の資料や、風化や傷みがひどく、とても一般書籍と並列させることのできないもの、修復待ちのため別保管になっているものなど扱いに慎重さを要するものが数多く収められている。 「古代竜族の伝承録は、すべて織物という形で残されています。実用品として実際に使用されていたものがほとんどですので、大きなものは壁にかけるタぺストリーや敷物から衣類、装飾品などにいたる小さなものまで物品も多様です」 書庫から地下へ降りる狭い螺旋階段を下りながら、ジリアンが説明する。 階段には魔術で灯された常灯の蝋燭が点々と浮かんでおり、地下へ降りていく彼らの足元を照らしていた。 この魔法の明かりは、かつて帝国を見舞った大火災という惨事をきっかけに、当時の皇帝が自ら専属魔術師達に命じて帝都中の公の施設に施させた設備で、昼の太陽光と同じくらい明るく、なおかつ熱を発しない。 貴重な資料の宝庫である図書資料館では、それこそいたるところで使用されていた。 「彼らは私達のものと同じような、書き記すための文字を持ちません。織りの手法や模様、モチーフ等に幾多の意味があり、それらの組み合わせで様々な事柄を記録しているのです。」 ヘルメスは黙ってジリアンの説明を聞きながら、彼女の後をついてくる。 ふと相手の静かさに不安を覚えてジリアンが振り返ると、魔術師はそのまま続けてと言うように、にこやかに頷いた。 「竜族の始祖は、神々に近い神竜であるとされています。伝説では始祖の頃の竜族は非常に知性高く感情豊かな穏やかな一族で、魔術を操ったと言われていますが、その頃から竜の姿も人の姿もとれる、いわゆる変化の能力があったのかどうかは、はっきりしていません。最も古い記録として公式に確認されているのは帝国前史の頃のもので、竜族単独ではなく他のいわゆる変化族の一例として記載されているものになります。ただ私は専門家ではありませんし、竜族についてそれほど詳しい知識を持ち合わせてもいないので…。学都では今はもっと様々な事がわかっているかもしれません」 長い階段を下りると、薄紙一枚差し込む隙間がないほどぴったり組み上げられた大きな石組みの壁がそそり立つ通路を進み、人一人がやっと通り抜けられるくらい幅の狭い扉の前までたどり着く。 扉の両脇には螺旋階段と同じように魔法の蝋燭が赤々と燃え、簡素ながらも重厚な保管庫の扉を浮かび上がらせている。 ジリアンが扉の中央に手をかざし軽く眼を閉じると、扉の中心から細く淡い光の筋が彼女の眉間に向かって真っ直ぐにのび、滑らかな額を照らした。 これも、図書資料館に施された魔術師の技だ。 通常の鍵では盗まれたり紛失したりする恐れがあり、そこから資料そのものの盗難や紛失につながる可能性もあると考えた数代前の皇帝が、鍵の代わりに資料館で働く特定の人物のみを識別することができるよう、扉に魔法をかけさせたのだ。 ジリアンは、数少ないこの保管庫を開けることのできる人鍵の一人であった。 扉はジリアンを認めると、重そうな音をたててゆっくりと内側へ開いた。 「どうぞ、お入りください」 ヘルメスは優雅な身ごなしで扉を潜り抜けると、ジリアンと共に室内へ入った。 通路と扉の狭さからは想像できないほど、保管庫の内部は広い。 資料館の書架よりもさらに天井が高く、一定の温度と湿度を保持できるよう様々な処置がとられた室内では、空気を循環させるために太い木管製のパイプと四方に取り付けられた換気口、それに天井に備え付けられた送風扇が、無人でも絶えず働き続けていた。 当然、室内の明かりは熱を持たない魔法の灯火だ。 窓のない地下室の天井までの広い空間にはいくつもの蝋燭が群れをなして浮かび、弱い光を投げかけている。 古文書や資料文書、遺物の中には光を嫌うものも少なくなく、明かりは必要に応じてその強弱を調節することができるため、普段室内は薄暗い状態に保たれていた。 「もう少し、明るくいたしましょうか?」 ジリアンがたずねると、ヘルメスは片眉をわずかに上げ、首を傾けた。 そのとたん天上に浮かぶ蝋燭の半分が光の勢いを増し、室内は柔らかい午後の日差しのような明るさに満ちた。 「あなたの手を煩わせるほどの仕事ではありません」 ヘルメスはにこりと笑ったが、ジリアンは改めて自分が今相対している人物が帝国一と噂される魔術師であることを自覚した。 眉ひとつ動かすだけで、彼は魔術を操れる。 そう思うと、この地下深くの保管庫でヘルメスと二人きりになっていることが実はとても危険なことのような気がして、ジリアンは胃を締め付けられるような気持ちになった。 「ありがとうございます。伝承録が保管してあるのは、この奥です。お持ちしますからこちらでお待ちください」 ジリアンはヘルメスを室内中央に設えられた長方形の大きな大理石の書見台の前まで案内すると、脇の簡素な長椅子を勧めてから竜族の伝承録が収めてある保管棚へ向かった。 背中にヘルメスの視線を感じ、逃げるように保管棚の陰に滑り込む。 ヘルメスから見えない位置に落ち着くと、ジリアンは全身で大きく深呼吸した。 ヘルメスはジリアンの姿が見えなくなると面に貼り付けていた微笑の仮面を外し、感情のない本来の自分の顔に戻った。 これでようやく、無理のない形で彼女を私邸に呼ぶ事ができた。 今までに、たかだか食事に招くだけの事にこれほど手こずらされた女は珍しい。 彼がにっこり微笑み優しく語りかけるだけで、女性という人種に限ってはたとえ高貴な身分の婦人であろうと大抵の場合ヘルメスの思い通りに動かす事ができた。 仮に女性でなくとも、明らかに彼に敵対している者でなければ、頻繁な誘いに対して何度めかの招待には応じるのが普通だ。 だが、彼女は度を越えた頑なさでヘルメスの招きを断り続けた。 すでに宮廷内でもその噂は隅々にまで行き渡り、いい賭けの種になりつつある。 ヘルメスは他人の口に上る自分の風評にはさほど感心を示さなかったが、自らが立てた計画どおりに物事が進まないのは、決して許せなかった。 また、結果的に目的を達するまではどんなに時間がかかろうとも粘り強く策を講じるが、それに伴う形でヘルメス自身が際立って目立つことは良しとしなかった。 これ以上彼女に招待を拒絶させることを許せば、あらゆる意味でヘルメスはしばらくの間不必要に注目される事になる。 それは、彼の望むところではなかった。 ヘルメスはクッションのあまり良くない長椅子に身を沈め、静かに眼を閉じた。 天井まで届く保管棚の間を、森の中を彷徨う女鹿のごとく動き回る彼女の姿が見える。 帝都において特別評判になるほどの美女というわけではないものの、銀の髪が緩やかな波を描いて背中へ流れ、琥珀色の澄んだ瞳に深い知性の光をたたえた彼女の姿は、非のうちどころなく美しい。 魔術師は心ゆくまで遠視でジリアンの姿を愛でながら、口元を綻ばせた。 いずれ、彼女を手に入れる。 ヘルメスはずいぶん前から、そう決めていた。 ジリアンは、本人にその自覚はないだろうが、最年少の司書にして今やこの図書資料館の中枢を担う仕事を一手に引き受けている。 彼女の並外れた記憶力と物事を正確に効率的に処理する能力には天性のものがあり、館内の膨大な量を誇る資料や文書が現在どこにどう収まっているのか、どういう状態にあるのか、またその資料や文書の背景にまつわる様々な予備知識を彼女はさも当たり前のように覚えている。 その能力はヘルメスにとって非常に有益で、魅力的であった。 彼女が異例の出世で司書長の地位を得られたのは、実のところヘルメスが婉曲に手を回した結果だった。 もちろんそれを本人に知らせるつもりは毛頭なかったが。 ジリアンが自分の身長ほどもある大きな筒状の包みを抱えて保管棚の間から出てくると、ヘルメスは即座に立ち上がり、重そうな包みを彼女の手から取り上げた。 「ありがとうございます。これが一番大きな物なので。あと残りの物も持って参りますので、もうしばらくお待ちを…」 「ひとりでは持ちきれないでしょう。私も手伝いますよ」 そう言うと、ヘルメスは受け取った包みを大理石の台の上に丁寧に置き、ジリアンと共に保管棚の間へ向かった。 ジリアンはヘルメスがすぐ隣に並んでいることを努めて意識しないようにしながら、黙って竜族の残した伝承録を厳重に管理された棚の引出しや箱から取り出し、書見台まで運んだ。 二人で両手いっぱいの資料を運び出し、全てを書見台の上に並べるまでに彼らは三度棚の間を往復した。 書見台の前に落ち着くと、ジリアンはまず最初に持ってきた大きな筒状の包みを開いた。 何重にも重ねられた油取り紙の中から、くるくると丸められたタペストリーが姿を現す。 しっかりとした織りの一枚布は柔らかく手触りも滑らかで、縦幅はジリアンの身長より少し高いほどであったが、広げると横幅はこれでもかなりの大きさであるはずの書見台のおよそ倍はあった。 そのため、タペストリーの半分は書見台にのりきらず、そのまま床面へ流すように開くしかない。 ジリアンが手袋をはめた手でひと巻きづつ慎重に丸まった布地を開いていくと、内側に隠されていた図柄が少しづつ明かりの下に曝されていく。 織物を広げる時はいつもそうだが、ジリアンは光を受けて輝くばかりに生き生きとした色彩を放つこれら伝承録の美しさに、息を飲むほどの感動を覚える。 小さく感嘆の溜息をもらしながら最後のひと巻きを開き終え、ジリアンは色鮮やかなタペストリーの全面を眺めた。 色とりどりの糸で織り成された図案と紋様、そして織りそのものの手法が、生命ある芸術品として何かを見るものに語りかける。 「美しい・・・」 そのジリアンの思いを代弁したかのように、ヘルメスが呟いた。 眼を上げると、ヘルメスの濃緑の瞳と眼が合った。 「やはり美しいと思われますか?竜族の織物は使われていた糸が通常我々が目にする物より軽くて細く、特殊な点が特徴で、仕上がりが大変精巧な美しい物ばかりです。特に、お探しのドラグ・シードにまつわる伝承とその同時代の物は群を抜いています。おそらく糸にも織りにも魔術がかけられているのでしょうね、私にはわかりませんけれど。他と比較してみると、その差は歴然としています」 ヘルメスはじっと彼女の琥珀色の瞳に眼を合わせたまま、同意した。 「大変美しい物だと思いますよ。そして、もちろんあなたの言う通り、これには魔術がかかっています。間違いなく。ただ、残念ながらいったいそれが何の目的でかけられたどんな魔術なのか、それは全くわかりませんが」 ジリアンは自分を見据えて微動だにしないヘルメスの瞳から、逃れるように視線をタペストリーへと移した。 緊張感が増し、息苦しい。 「これは、この資料館に保存されている竜族の伝承録の中で最も大きな物です。最後の竜族の王城が帝国の侵攻に屈して滅びた時、時の帝国の将軍が最大の戦利品として帝都へ持ち帰った物で、もとは竜王の玉座の壁に掲げられていたと言われています。何代にも渡って竜族の王家に受け継がれてきたのでしょうが、ほとんど傷みも汚れも見られません。中央には黒い竜の図柄が描かれていますが、これは伝説の魔竜、黒竜です」 タペストリーは深い艶のある青を基調に細かく象徴的な図柄が組み合わさって複雑な色模様を描いており、ところどころに一目でそれとわかる生物や植物、静物が配されている。 その最中心には、太陽を象徴するらしい球体からのびた一本の樹を、身体全体で包み込むように輪になった黒い巨大な竜の姿が記されていた。 竜は長い尾ととがった背びれを持ち、大きく裂けた口から炎にも似た舌を出している。 その赤い舌は、まるで青々と繁った大樹の葉を焼き尽くそうとするかのように、長くちらちらと揺らめいていた。 「黒竜と世界樹の図ですね」 ヘルメスがタペストリーの隅々まで視線を走らせながら独り言のように答えた。 先ほどまでジリアンに向けられていた瞳は底知れぬ沼の静けさを湛え、注意深く細かな図案に注がれている。 ジリアンは本能的に口を閉ざし、静かに一歩退いた。 ヘルメスはジリアンの配慮を受け入れ、それ以上口を開く事なく黙々とタペストリーの図柄を眼で追いはじめた。 何度かヘルメスのための仕事を経験したジリアンには、彼が作業に集中している間は求められるまで自分に役目はないとわかっていた。 束の間ジリアンはヘルメスに見つめられる緊張感と居心地の悪さから解放され、安堵感からぼんやりと魔術師の近寄りがたく美しい横顔と、タペストリーとを交互に眺めていた。 ところがしばらくすると、ジリアンは時折ヘルメスの濃緑の眼が細められ、微かに唇が震えているのに気がついた。 最初は織面の図柄に集中し、無意識に独り言を呟いているのだろうかと思ったが、数瞬の後、唐突に思い至って彼女ははっとした。 ヘルメスは、魔術を使っているのだ。 タペストリーにかけられた魔法を解くためなのか、それとも別の目的のためなのか、それはジリアンにはわからなかったが、ヘルメスが伝承録を前に何かを試みているという事だけは間違いないという確信があった。 しかし何が目的であろうと、貴重な文化的資料に断りもなく魔術をかけるなど許される事ではない。ジリアンは思わずカッとなって口を開いた。 「フラメール様」 思いがけず強くはっきりした口調で呼びかけられ、ヘルメスは紋様に集中させていた眼を上げてジリアンの方を見た。 「どうかしましたか?」 何事もなかったかのように、ヘルメスが微笑む。 ジリアンは押さえつけた怒りに目がくらみそうになりながら、静かに息を吸い込んだ。 「この織物は長時間光にあたるのを嫌います。そろそろ次のものをご覧いただいたほうがよろしいかと」 半ば震えそうになる声を悟られないよう祈りつつ、ヘルメスに告げる。 ヘルメスは片方の眉をかすかに上げ、訝しげに瞬きをしたが、黙って大理石の書見台から退いた。 ジリアンが怒りのために冷たくなった手でタペストリーを慎重に元のように丸めていくのを見守りながら、ヘルメスは堪えきれずにクスクスと笑った。 「何がおかしいのです?」 さすがのジリアンも、これには少々声を荒げヘルメスを睨んだ。 「いや、少々思い出した事があって。失礼しました。あなたを怒らせるつもりはなかったのですが」 ジリアンはおさまらない怒りを落ち着かせるために、織物を油取り紙で包む作業に集中した。 これ以上、ヘルメスと二人きりでいる事には我慢がならない。 だが、彼が見たいと望む伝承録はまだ一山残っている。 「・・・勘がいいな・・・」 ジリアンに聞こえるか聞こえないかのかすかな声で、ヘルメスが呟いた。 けれども、ジリアンがそれを聞きとがめようとヘルメスに眼を向けた時には、既に彼は別の伝承録に眼を落とし、見事に感情の消え去った表情でそこに描かれた模様をじっと見つめていた。 ジリアンには、それ以上何も口にできる言葉はなかった。
[2006年 XX月 XX日]