Chapter.1-4

頬に触れる柔らかな布の感触に気づき、リリスはぼんやりと意識を取り戻した。
本能的に薄く眼を開いたものの思考が働かず、なかなか焦点が合わない。
何度か左右の頬を布が撫でる感覚が伝わり、やがてそれが濡れた綿布であることがわかっても、リリスの意識はまだ朦朧としていた。
体中が痛み、力が入らない。
しっかりとした大きな手が自分を支えているのを感じて、リリスは細く長い安堵の溜息を吐いた。

「…父さん、帰ってきたの?」

まだ夢を見ているかのような微かな声で、リリスは呟いた。

「気が付いたか?」

聞き覚えのない声に、リリスは驚いて眼を見開いた。
とたんに、気を失う直前に体験した恐ろしい出来事の数々が、どっと記憶の波となって押し寄せる。
騎士の振り上げた剣の鋭い煌きが脳裏に浮かび、思わず飛び起きそうになったところで体中を信じがたいほどの激痛が駆け抜けリリスは悲鳴を上げた。

「まだ動くな。何ヶ所か折れているところもある。落ち着いたら施術する」

穏やかな、耳に心地よい声だった。
リリスは僅かに顔を傾け、自分を支えてくれている誰かを見上げた。
赤茶色の髪、切れ長の灰色がかった蒼い眼、すっと通った鼻筋と形のいい唇。
優しげな、整った顔立ちだった。
自然に結ばれた唇は、リリスを安心させるかのように穏やかなカーブを描いている。
リリスは、時折父を訪ねてくる訪問者の顔を、記憶している限り思い出そうとした。
だが、その中の誰ともその印象的な瞳の色は合致しない。
初めて見る顔だった。
めったに会うことのない父親以外の他人だが、不思議なことに不安や警戒感は湧いてこない。
むしろ、もう何も起こらないという安心感に全身が満たされている。

「あなた・・・誰?」

肺のあたりの痛みのため、ゆっくりと息を吐き出しながら、リリスが問う。

「私の名は、ヘイヤート・コウ。怪しい者ではないから、安心しなさい。少しの間床に横にするが、大丈夫か?」

リリスは小さく頷いた。
首無し騎士から逃げている時はまったく感覚がなかったのだが、一旦気づいてしまうと、身体のあちこちが息をするだけでも痛い。
コウが支えていてくれた手をそっと離し、冷たい石床の上に横たえられると、深く息を吸い込むこともできなくなって、リリスの呼吸は浅く忙しなくなった。
コウは辺りを素早く見回し、散らかった室内に何かリリスの支えにできそうなものがないか、物色した。
一見して錬金術師か冶金術師の仕事場とわかる室内には、当然ながら本や種々の実験道具、鍛冶道具など実用に関わるものしか見あたらなかったが、それでもコウは炉の付近に設えられている幅広い書見机の椅子が倒れ、その足元にいくつか羽のはみ出たクッションが転がっているのを見つけた。
急いでそれらを拾い上げると、再びリリスの上体をできる限りそっと起こし、背中にクッションを重ねてあてながら、壁に寄りかからせた。

「横になっているより、その方が楽だと思う。とりあえず手当てをするから、もう少し我慢してくれ」

言われた通り、固い石床に横たわっているよりも、壁に上体をもたせかけている方が息が楽にできた。
リリスは黙ってコウのてきぱきとした動きを見守った。
こういったことには慣れているのだろう。彼の行動には無駄も迷いもない。
コウはリリスの頭のてっぺんから足の先まで、全身を両手ではさみこむようにしながらそっとなぞり、口内で何かを呟いた。
大人の男に全身を触られるなど、リリスにとって初めての経験だったが、嫌悪感はなかった。

「肺の上の肋骨が3本折れている。あと、右の足首。それから腰骨にヒビが入っている。他は打撲と擦り傷だ。内臓に傷がなくてよかった。これならすぐ治せる」

自身も安心したかのように、コウはリリスに微笑んだ。
一体、この人は何者なのだろう?
リリスが見入るうちに、コウは折れていると宣告したリリスの胸部に手をかざし、目を閉じてまた何事か長い文句を唱え始めた。
リリスの胸にあてられたコウの手のひらに、ぼうっと白い光が浮き出し、見る見るうちに輝きが増していった。
リリスの肺の奥で息を吸い込むたびに彼女を苦しめた、刺すような痛みが、徐々に和らいでいく。
癒術の呪文だ。

この人は魔術師なんだ!!

書物の中でしかお目にかかったことのない、本物の魔術師が目の前にいるのだと気づいて、リリスは痛みも忘れて好奇心を掻き立てられた。
何度か呪文が繰り返されるうち、肺の痛みは完全に消え去り、呼吸は普段どおりにできるようになった。
続けて、コウは怪我をしていると診たところを同じように呪文で癒していく。
ほどなく、リリスの体中に取り付いていた痛みはウソのように消え、擦り傷や打身の青い痕も綺麗に治って、リリスの手足はみずみずしく滑らかな肌を取り戻した。
コウが手を貸して立ち上がらせるとリリスは眼を丸くして全身を隈なく眺め、手足をそろそろと動かしてみてから、ぽかんと口を開いたままコウを見つめた。

「すごいわ!治ってる。あなた、本物の魔術師なのね!」

コウは本物のという言葉に思わず吹き出しそうになったが、口の端を緩めて笑うにとどめた。
何しろ、少女の眼にはありありと感嘆の色が浮かんでいる。
その瞳は夕暮れの空のような紫色で、感情豊かに煌いていた。

「さて、回復したところで尋ねたいのだが、いいかな?」

そう言われて、リリスは一瞬眼をしばたたいてから答えた。

「私も、訊きたい事があるわ!」

思いがけない返答に、コウはまじまじと少女の顔を見た。

「…まずは先に、君の名前を教えてくれないか?私は先に名乗っている」

はっと自分の無作法に気づき、リリスは顔を赤らめて頭を下げた。

「ごめんなさい。怪我を治してもらっておいて、失礼なことを…。私は、リリスといいます。…あの、私、助けてもらったんですよね…?」

コウは微笑んで頷いた。

「一応、そうなるね。理由あって私はあの首無し騎士を追っていた。運良く君の首が胴体から切り離される前にヤツに追いついけて良かったよ。ここには君の他には誰もいないのか?先ほど父さんと言っていたが、お父上はご不在か?」

「父さん…いえ、父は、10日程前に北の領主様に頼まれていた水差しをお届けにあがるために出かけて…まだ戻らないんです。いつもなら帰りの予定を連絡してくれるのに、今回に限って何の音沙汰もなくて…。とても心配していたんです。そしたら、突然あの魔物が…」

リリスは心ならずもぶるっと身体を震わせた。

「なるほど。…ここから北の領主といえば耳長族のギズモンデール公の自治領か、国境の砦を守るタリア伯…くらいしか思い当たらないな…どちらの領主に依頼されたのかな?」

「耳長族の領主様です。いつも材料のきっかり倍の金を使者の方が持ってきて、お品物の依頼書を父に渡していくの。父の仕事をとても気に入ってくれているみたいで、よく注文をいただくわ」

「…ギズモンデール公か…」

耳長族はその名の通り長く垂れ下がった耳を持ち、非常に優れた聴覚を誇る一族で、多種族に対しての警戒心が強く、度重なるロムネル帝国の軍事侵攻にも屈することなく自治権を獲得した数少ない種族だ。
帝国が広大な領地を傘下に治めていくうちに周囲を帝国の領土に囲まれてしまいはしたものの、領主ギズモンデールは決して帝国の一部となることに同意しなかった。
その気性は穏やかで物静かな賢人であると聞き及ぶが、一方では信頼を勝ち得るのが非常に難しい人物であるとも言われている。
耳長族の領主がそれほど気前よく金を支払い、何度も注文するということは、よほどリリスの父を信頼し、腕を買っているということだろう。
コウはあらためて荒らされた室内をぐるりと見渡してみた。
天井の高い広々とした部屋。
どっしりとした大きな作業台には騎士の残した大きな傷が深々と残っているが、もともとごちゃごちゃと余計なものは置かれていない。
型を作成したり細かな細工を施すために効率的に作業ができるよう、たくさんの引出しや補助台があり、天板が斜めに傾けられるようになっている中型の作業机は、なぎ倒されて天板がへし折れていたが、使い込まれた天板の上は綺麗に磨かれ、片側には細かい目盛が刻まれていた。
部屋の入り口から最も離れた奥まった一角には、それ用に壁をへこませた上ではめ込まれた大きな薬品棚があり、しっかりと蓋をされた薬瓶がぎっしりと並んでいる。
万が一の時にも倒れたり落ちたりして、瓶が割れることのないようにという配慮だろう。棚は壁に埋まった状態で、それぞれの棚段には瓶の半分ほどの高さの横板が渡してあった。
慎重に保管してあるな、とコウは感心した。
騎士の暴挙はこの薬品棚にまでは及んでいない。
室内を見る限り、この仕事部屋の主はとても几帳面で周到な人物のように思われる。
そして、あのランタンだ。

「君はさっき、私のことを“本当の魔術師”といったね?どうやらお父上はとても腕のいい冶金術師のようだが、魔術は使われないのかな?」

「ええ、そうね、多少は…。でも、さっきのあなたのような癒術を使うことはないし、少なくとも私の目の前ではあまり使うことはないの。それに、心得はあっても父は魔術師ではないわ。随分昔には錬金術師として色んな研究や実験もしていたみたいだけれど、今は…」

そこまで話して、リリスはふと、余計なことを話しすぎたかと不安になった。
確かにコウはリリスの命を救ってくれた恩人ではあるが、初めて会う得体の知れない人間だ。
父やリリスについての個人的な事柄を不用意にぺらぺらと話してしまってよいものかどうか。
父は、わざわざ好んでこの他人と関わりを持たない隠遁生活をしているのだから。
コウは、リリスの眼に浮かんだその一瞬の躊躇いを即座に察知した。
それ以上リリスに何も言わせないうちに、コウが言葉を継いだ。

「そうか、ではお父上以外には誰もこの家にはいないんだね?君ひとりでお父上の帰りを待っていたのか?」

リリスは黙って頷いた。

「わかった。とにかく、間に合ってよかった。あの騎士は訪れた家の住人を必ず全員皆殺しにする。私はヤツを追ってずっと旅を続けてきたが、今まで誰一人助けることはできなかった。君を救えて良かったよ」

「あ…あの、助けていただいて、ありがとうございました」

思い出したようにリリスが早口でそう言うと、コウは笑って何事もなかったかのように暖かな光を発し続けるランタンを指差した。

「お礼はあのランタンにも言った方がいい。君を助けられたのは私だけの力じゃないからね」

コウにそう言われて、リリスは初めてランタンのこと、そして自分が見つけた石のことを思い出した。
そうだ。ランタンがなければ、リリスは間違いなくコウがこの部屋にたどりつくよりずっと前に首を切り落とされていたはずである。

“石!!”

リリスは、はたと気づくと、慌てて荒れ果てた書斎の本の海の中へ駆け込んだ。
あの石はどこへいったのだろう!?
書棚の本は半分以上が床に散乱しているが、リリスが隠れていたはずの床の穴はすでに跡形もなく姿を消している。
リリスは床に這いつくばって、呆気にとられたコウが訝しげに自分を見守っているのも気にせず、石を探した。
折り重なった分厚い本の山を掻き分け、幸いそれほど手間取ることなくリリスはそれを発見した。
そっと拾い上げると、無事を確認するかのごとくランタンの投げかける明かりにかざしてみる。
石には傷ひとつ付いていなかった。
リリスはほっと安堵の溜息を吐いた。
振り返ると、黙ったままリリスの様子をじっと見つめていたコウと眼が合った。
その煙ったような蒼い瞳には何の感情も読み取れはしなかったが、物問いたげに微かに傾けられたコウの顔を見て、リリスは掌に石を握りしめ、「母の形見なの」とだけ、呟いた。
コウは何も言わずに頷くとリリスから眼を離し、遠くの床に横たわる黒い甲冑に視線を移しながら口を開いた。

「さて…これからどうするかな…。君にはどこか身を寄せることのできる身内や知り合いはあるか?」

「え…?どういうこと?」

「私はこれまでこの魔物を追い続けてきたが、今夜初めて実際に自分の眼で見、剣を交えた。かろうじて勝つ事ができたとは思うが、完全に仕留められたのかどうかはわからない。これは血肉のない闇の世界の生き物だ。また蘇って現れないとも限らない」

再度首のない黒い騎士に襲われる事を思うと、リリスの背筋を電流のように震えが駆け抜けた。

「一度襲った相手を二度と襲わないという保障はどこにもない。そもそもこれまでヤツは標的を仕留め損ねた事がないんだ。万が一のことを考えれば、早急にここを離れたほうがいい」

「そんなわけにはいかないわ!!だって、父はまだ帰って来ていないのよ!!父が戻って、私がいなくなっているのを見たら…しかもこんな状態のまま」

リリスは荒らされた部屋をぐるりと見渡した。

「それはわかる。だが、そうしても危険がないと確信が持てないまま、ここへ君を置いて行くわけにはいかない。騎士の実態をこの眼で見、確認したからには、私は急いで戻らなければならないし…」

リリスの頭は混乱した。
コウの言うことは理解できる。
彼はたまたまリリスを救ってはくれたが、そのまま父が戻ってくるまで一緒にいてくれるわけではないのも当たり前だ。
そもそも、父が何事もなく無事に帰ってくるのかどうかさえ、今では疑わしい気がした。
けれどもこれまでの人生で自分に父以外の親族がいるという話は聞かされたことがないし、たまに訪れる客以外の人間に会ったこともないリリスにとって、家を出て世話になることのできる知人など皆無だった。
どうしたらいいのか、わからない。

「私には行くところなんて…ここを出て、他所へ行ったことなんて一度もないわ。小さい頃からずっと、ここで父と二人で暮らしてきたんだもの」

「親類がどこかに住んでいるとか、聞いたこともないのか?」

「ええ、ないわ」

リリスは途方に暮れたようにうなだれた。
コウは少女をじっと見つめ、しばらくの間どちらも口を開かないまま沈黙が落ちた。
やがて、コウが思い切ったように言った。

「…では、私と共に来るか?」


*** ***


暖炉の薪が弾け、目の前で火の粉がきらきらと輝きながら舞うのをぼんやりと見つめながら、コウは体を温めるためにリリスが持ってきてくれた、花の香りのする酒を一口飲んだ。
これも彼女の母の遺品で、薬酒としての効能もあるらしい。
コウは破壊された扉から吹き込む冷たい風に暖炉の火が消されないようささやかな保護結界を張っていたのだが、それでも荒らされた狭い居間は肌寒い空気に満たされていた。
かつてはそれなりに居心地が良かったであろうと思われるこの部屋に、通り過ぎた魔物の息吹がまだ残っているかのようだ。
コウは寝具代わりに自らの外套を肩からはおっていたが、今夜は眠るつもりはなかった。
騎士が新たな姿を得て舞い戻ってくる可能性は、ないとは言い切れない。
だが、おそらくそれはなかろうとコウは思っていた。

結局リリスはコウの提案を保留にし、一晩考えさせてくれと答えた。
彼女の置かれた状況を考えればそれも無理のないことだ。
コウは今夜一晩をこの家で明かし、明日の朝最終的にどうするかを決めることにしてリリスをこの家で唯一破壊されていない彼女自身の部屋で休ませ、自分は夜番を兼ねて暖炉のある居間で過ごす事にした。
リリスの父親の仕事部屋からは騎士の残骸の甲冑を運び出し、家の外で焼いた。
甘い匂いのする酒をもう一口含むとコウは胸から護符を引っ張り出し、その面に刻まれた文字を読むともなしに眼で追い、指でなぞった。
旅に出てからというもの、考え事をする時にはいつも必ずそうしていることに、コウ自身は気付いていない。
ようやく、騎士に追いついた。
この眼で姿を見、対峙し、戦った。
これまでは騎士を追って訪れたどの被害者の家も、ごく普通の生活を営む普通の人々の住まいで、住人は皆イライジャに聞かされていたような隠居した錬金術者や魔術師などではなかった。
しかし、とうとうた辿り着いたこの家は、まさに隠遁生活を送る錬金術師のものであった。
しかも、当の錬金術師は姿を消したまま戻っていない。
たった一人の娘を魔法のかかったランタンと共に残し、なぜ戻ってこないのか?
通常、あれだけの力を備えたランタンが残されているならば、それを通じて家や残された者に何かあった場合、即それが主人に伝わるようになっていてもおかしくない。
今回娘が襲われて、死の瀬戸際に追いやられたことまではわからずとも、少なくとも何事か異変が起きたということは、既にランタンの主である父親に伝わっていても不思議ではないのだ。
父親の身に何かあったのだろうか?
その可能性は否定できない。
騎士を追う間に、コウは魔物の標的となってるのは不特定多数の人々で、殺戮には目的もなければ終わりもないのではなかろうかと思うようになっていた。しかしこうなってみると、実のところ騎士の目的は最初からこの家の主であり、これまでもずっとこの家を探して歩いていたのではなかろうかという気がしてくる。
もしそうなら、リリスをこの家に残していくのは危険だ。
かといって、いつ戻ってくるのか、果たして無事でいるのかさえ定かでない父親を、一緒に待つわけにもいかない。
この眼で見た事、確かめた事を、できる限り速やかにイライジャに伝えなければならないし、極秘任務である以上魔術を使っての伝達はできない。
コウ自身の口から直接伝えなければならないのだ。
残された道は、リリスを伴って行く事だった。
もちろん、その旅程で再度騎士に襲われる事も考えられるが、その場合は先の自分の推測に何らかの裏づけを得られる事になるかもしれない。
魔術の心得がある者になら、本人にしか読むことのできない伝言さえ残しておけば事の成り行きは理解できるだろうし、バルセナタンまでの旅路もわかっているはずだ。
非合法に魔術を学んだのでない限り、魔術や錬金術を学ぶ者は必ず学都を訪れた事があるはずなのだから。
ましてや、その後聞き出したリリスの言によれば、彼女の父は以前学都と思われる大学街に住んでいた事があるらしい。
正しく伝言が伝わりさえすれば、リリスの父親についての対処はそれほど問題ないとコウは考えていた。
留守になる家に伝言を残すと同時に、コウはギズモンデール公のもとへも彼女の父親の消息が不明になっている旨と事情を説明し、助力を求める伝書を送るつもりでいた。
問題は、リリスだった。
彼女にとって、どうやらたとえ一時的にであれこの家を出る事、父親の庇護を離れて一人になる事は、簡単に決断できる事ではないようだ。
幼い頃からこの家だけが世界の全てであり、父親との生活しか知らなかった少女にしてみれば、当然の事かもしれないが、コウがいくら説得してもなかなかリリスの不安はぬぐいきれず、気持ちは固まらないようだった。
あれほど生き生きした瞳の娘が、閉ざされた小さな世界の中だけの生活に満足し固執しているとは、コウにはとても思えなかったのだが。
一歩を踏み出すきっかけさえあれば、リリスは心を決めるかもしれない。
コウのほんの基礎知識でしかない癒術治療に眼を丸くし、訊きたい事が山ほどあると瞳を煌めかせていた少女の表情を思い出し、コウは思わず口元が綻ぶのを感じた。
非常に好奇心の強い少女だ。
学都へ連れて行けば間違いなく様々なものに興味を引かれ、真綿が水を吸うように知識を吸収するに違いない。
なぜ、彼女の父親は学都を離れてこのような荒地に引き篭り、隠れた暮らしを続けていたのだろう?
もしも騎士がこの家を求めてやってきたのだとしたら、理由はそこにあるのかもしれないとコウは思った。


*** ***


リリスはいつもと同じように自分の寝床にもぐり込み、上掛けを鼻の下までひっぱりあげて心地よい温もりに包まれていた。
天井に映る柔らかな明かりをじっと眺めていると、先程経験したばかりの恐怖や異常な出来事は全て夢で、明日の朝にはいつもと変わらぬ一日が始まるのではないかと思えるのに、寝台の脇の書き物机に置いたガラスの割れたランタンは、あれは決して夢などではなかったという事実と、彼女が今現在直面している現実を否応なくリリスに突きつける。
リリスは長い溜息を吐き出すと上掛けの上に手を出し、ずっと握りしめていた石をランタンの光にかざしてみた。
はじめてこの石をランタンの光にあてた時、確かに一瞬石は虹色に煌めいたはずだった。
しかしその後何度光にかざしてみても、石が再び虹の輝きを見せることはなかった。
今度もやはり石は濁った不透明な色のまま、うっすらと向こう側に透ける小さな炎の光を映しているだけだ。
もう一度大きく溜息を吐いてリリスは寝床の中で寝返りをうち、石を握りしめた手を胸元に引き寄せ、子供のように体を丸めた。
心地よい暖かな寝具に包まっていても、今夜はとても眠れそうにない。
あまりにも様々な事が起こりすぎたし、考えなければならない事が山ほどあった。
明日、コウはこの家を発つ。私はどうしたらいいのだろう?
彼の言うように、一人でこの家に残るのは確かに良い事ではないとリリスも思う。
自分の部屋以外はほとんど全室がめちゃくちゃになっているし、家の戸という戸は無いも同然になっているのだ。
正面玄関の扉など、とてもリリスの力では元のように修復する事はできない。
めったに誰かが訪れる事など無い荒地とはいえ、戸の無い家で暮らすのは無用心すぎる。
それに、荒らされ放題になった家を一人で片付けるのも、うんざりする作業になるだろう。
もちろん再びあの騎士が蘇り、襲ってくるようなことがあれば、今度こそ命はない。
それよりは、一旦家を離れ、父の迎えを待つ方がずっと安全だ。
これまでかなわなかった、見た事もない世界へ足を踏み出す機会を得られるというのも、リリスにとっては魅力であった。
とは言うものの、はたしてコウの言うとおり、彼について行ってもいいものだろうか?
コウは名前と騎士を追っていたという事だけは話してくれたものの、なぜ騎士を追っていたのか、厳密には自分が何者であるのかまでは、リリスに話してはいない。
コウが言う父にしか読めない伝言を残す事や、ギズモンデール公へ助力を請うという方法は、理にかなっているとは思うが、彼がどこの誰かもわからぬままに信頼していい人間なのかどうか、リリスには判断する事ができなかった。
また、住み慣れた家を離れるという事自体、当然ながら不安であった。

“父さんさえ帰ってきてくれたら…”

そう思うと、胸を締め付けられるような息苦しさが押し寄せる。
リリスが最も恐れているのは、まさにその父の事だった。
もしもこのまま父が帰ってこなかったら…。
リリスは本当に頼るものも何もなく、たった一人この荒地の住処に取り残される事になる。
育った家という小さな世界しか知らないまま。
もしそうなったら、自分は一人で生きていけるのだろうか?
これまで、そんな事を考えた事は一度もなかった。
父と二人の、単調ではあるが平和で穏やかな生活が瓦礫のように崩れて消え去ることなど、夢にも想像したことはなかったのだ。
本当に父の身に何かが起こり、二度と彼女に会えないようになってしまったのだとしたら…。
考えたくはないが、もしその最悪の事態が現実のものとなった時、リリスにはそれを受け止められる自信は全くなかった。
眼の奥がつんとして、リリスは涙を堪えるために上を向いた。
泣いたところで何も解決はしない。
明日の朝には答えを出さなければならないのに、思いはぐるぐる堂々巡りを繰り返し、唇からは溜息が漏れるばかりだった。
ついに、悶々とする思いに耐え切れず、リリスは起き上がった。

“母さんの果実酒か、お茶でも飲んで少し気持ちを落ち着けよう。コウが起きていれば、もう少し話してみたほうがいいかもしれないし…”

上掛けをめくり、寝台を降りて居間へ向かうためランタンを手に取ろうとしたその時である。
ガラスが割れ、枠組みだけが残された父のランタンは、消えることのない炎を揺らして、暖かな光を投げかけている。
その炎が、再び意思ある光の線となり、中空に何かを描きはじめた。
もう、リリスは驚きはしなかった。
ゆっくりと、輝く炎の線が自分の目の前で灯以外の形に変容していく様を、リリスは半ば唇を開いたままじっと見つめていた。
とうの昔に滅び去った、古代の文字がリリスの瞳に浮かび上がる。
炎はリリスに告げていた。
間違いなく、明確な意思をもって。

“行け”

“彼と”

“共に”

[2006年 XX月 XX日]

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