Chapter.1-3

とうとうリリスの手からランタンが離れ、握りしめていた石は掌から滑り落ちて床を転がった。
遠のこうとする意識の片隅で、リリスはその一瞬、騎士の手が緩んだのを感じた。
首から上のない騎士からは、感情というものを直接的に読み取ることはできない。
だがわずかな気配から、リリスは騎士が何かに気をとられたのだと直感した。
その時である。
ガラスの砕ける鋭い音がリリスを我に返らせた。
次の瞬間、左手から肩口まで鞭で、打たれたかのような激痛がかけ上がったかと思うと喉に当てられていた氷の刃が弾け飛び、同時にリリスの体は自由を取り戻した。
とっさに上体を起こして騎士を降り仰いだリリスの眼に、信じられない光景が映った。
騎士の禍々しい巨体を、青白い燐光のような炎がすっぽりと包み込んでいる。
その中で騎士は、纏いつく炎を払い落とそうとするかのように体中を掻き毟っていた。
音にならない騎士の苦悶の声が部屋中に広がる。
リリスはぞっとした。
青白い炎は騎士の足元からすっと細い軌跡を描き、その導線は床に転がったランタンからのびていた。
ランタンのガラスが砕け散り、火種からまるで意思ある蛇のように這い出た炎が、騎士に襲い掛かっているのだ。
リリスは体中に走る痛みに顔をしかめながら、首をめぐらせて石を探した。
すぐに求めるものをさほど遠くない床の上に発見し、リリスは床を這って石に近づくと、そちらへ手をのばした。
すると、その動きに騎士が反応した。
青白い炎に包まれたまま、騎士はすばやく腰に帯びた長剣を抜き放つと、リリスののばした手の先へ容赦なく振り下ろした。
すさまじい力で石床に当たった切先から、鉄くさい火花が散る。
間一髪のところで手を止めたリリスは、あやうく手首から先を失う危機を免れた。
あとほんの一瞬手の動きを止めるのが遅かったら、運が良くても指先が綺麗に切り落とされていたに違いない。
鋭く光る長剣の刃は、まさにリリスの指先に触れそうなところで石床にめり込んでいる。
騎士は石にめり込んだ剣先を軽々と引き抜くと、今度はリリスの頭上にその刃を打ち下ろすべく、再び大きく振りかぶった。
反射的に、リリスは振り下ろされたのとは逆の方向へ身を転がして刃を逃れた。
長剣は空を切り、再度石床に当たって鈍い金属音を響かせた。
抵抗するのはもとより無理だ。
だが逃げなければ死ぬとわかっていても、もはや痛めつけられ恐怖にすくんだリリスの身体にはその力が残されていない。
必死で騎士から遠ざかろうと、リリスは動かない身体をひきずるようにして床を這った。
いつしか両眼からは涙が溢れ、リリスの血の気の失せた唇からは、声にならない悲鳴が嗚咽と共に漏れていた。
騎士の全身はランタンの炎に包まれていたが、その想像もつかない苦痛の中にあっても騎士のリリスに対する明確で激しい殺意は全く薄れる気配がなかった。
炎が与える苦痛のためか、動作は次第に鈍重になり、リリスを追って踏み出す一歩はひどくゆっくりした動きになりはしたものの、騎士は執拗に剣を振りかざし、繰り返しリリスめがけて打ち下ろす。
一振りごとにすんでのところで剣先をかわして石床の上を這いまわり、何度も追いすがる刃をすり抜けて逃げ続けるも、やがてついに命運尽きて、リリスは壁際の書棚の前に追い詰められた。
ぜいぜいと肩で息をしながら、今度こそここまで何とか鼻先でかわしてきた死の手から逃れる術はない事を、全ては無駄な足掻きであったのだという事を、リリスは思い知った。
頭の中は“なぜ?”という言葉で埋め尽くされていた。

なぜこんなことになったの?

なぜ父さんは帰ってこないの?

なぜ私は死ななければならないの?

青白い炎を纏った騎士は、ゆっくりと剣を振り上げていく。
獲物を追い詰め、仕留める満足感からか、騎士はからかうように炎の中でゆらゆらと上体を揺らして見せた。
リリスには、もう何を感じる力も残っていなかった。
せめて振り下ろされる剣先を見ずにすむように、リリスは力なく眼を閉じた。
なかなかその時はやってこない。
なぜ騎士は剣を振り下ろすのにそんなに時間がかかっているのだろう?
それがリリスの記憶している、最後の“なぜ?”だった。
そのまま闇の中に吸い込まれるように、リリスは意識を失った。


*** ***


コウが浅い眠りから覚めたのは、既に陽が落ち切って、辺りが闇に沈もうとしつつある頃だった。
身を寄せていた窪みから身体を起こすと、不安定な足場にも関わらずじっと佇んで主を待つ愛馬がのそりと首をもたげ、ブルルと鼻を鳴らした。
両頬が冷たく、風が刺すようにちくちくする。
予想通り、陽が落ちた途端急激に冷え込んできたようだ。
本当は眠るつもりはなかったのだが、自分でも気づかないうちに、いつのまにかうとうとしてしまったのだろう。
コウは立ち上がり、肩からかけた外套をしっかりと身体に巻きつけた。
荷物をまとめて肩に担ぐと、愛馬に近寄り、首を撫でてやる。
馬の身体は夜露で少し湿っていたが、ほんのりと温かかった。

「すまん。待たせたな」

そう声をかけると、担いでいた荷物を鞍の上に載せる。
背中に愛用の一般的なものより少し長めの長剣を背負い、馬の手綱を握ると、コウは山を下り始めた。
うっかり眠り込んでしまう前、コウはたまたま頭上に現れた鳶を利用し、魔術で心眼を飛ばした。
鳶の眼を通じてコウは空を飛び、眼下に見下ろしていた峡谷のその先を探ってみたのだ。
その様子次第では今夜騎士が現れそうな場所を絞り込める可能性があった。
コウは鳶の思考をほんの少し操作して峡谷の湖の上を旋回し、蹄の跡がないかを確認した後、森の上を横断した。
このあたりの木々は実をつける落葉樹が多く、鳶から隠れるように木々の間を走り抜ける小動物の姿も時折見受けられる。
木々の葉はこのところの昼夜の寒暖差を示すかのように、ほんのり葉先の色を変え始めていた。
思ったよりも森の規模は大きく、木々の頭を抜けるにはしばらく時間がかかった。
森が途切れるとそこは途端に荒涼とした谷間になり、切り立った断崖の間にごつごつとした岩があちこちに顔をのぞかせる草地がしばらく続いた。
そしてその谷間の奥まった高台に、一軒の石造りの家をコウは発見した。
田舎屋の割にかなりしっかりとした堅牢な造りのその家は、上空から見下ろすと母屋と見られる部分から裏手に小さな中庭を挟んで南北に回廊がのびており、北と南にそれぞれ別棟が建てられていた。
北側の棟は南側に比べるとずいぶん広く、平屋にしては普通より天井が高そうであった。
だがコウの眼を引きつけたのは、屋上からのびた細長い煙突だった。
母屋の方にも煙突はあるが、それはあきらかに調理や暖をとるための暖炉のもので、形も高さもごく普通だ。
この別棟からのびている煙突はそれに比べてすらりとしたかなり背の高いもので、それも一本ではなかった。
高さの違うものが合計で三本。
間違いなく、この家には立派な炉があるはずだ。
騎士は、今夜ここを目指すだろう。
コウはそれを確信し、鳶から意識を離した。
疲れているところへ予想より長い距離を飛んだので、意識が身体に戻る間に眠ってしまったのだ。
鳶の翼で飛んだ距離が馬で駆けてどのくらいかかるものかは計りかねたが、急いだ方がいいのはもちろんわかっている。
足場の悪い宵闇の山道を、コウは慎重に手綱を操りながら降りて行った。
湖のほとりまでたどり着くと、コウは馬に水を飲ませてやり、少しだけ草を食ませてからその背に跨った。
ここからは一気に、早駆けで森を抜けるつもりだった。
その時、コウの耳に追い求めるものの声が届いた。
木々を震わせ、大地を揺らす雷鳴のように、不気味で禍々しいいななき。
首無し騎士の操る魔馬だ。
コウは、凍りついたように動きを止め、全神経を集中させて闇に意識を向けた。
今は眼を借りることのできる他の生き物を見つけられない。
自らの意識の力のみで、騎士がどこに姿を見せたのか探るしかない。
研ぎ澄まされた魔術騎士の意識は、やがて不吉で冷たい闇の気配を捉えた。
騎士は、すでに森を抜けた平地に姿を現したようだ。
急がなければならなかった。
今夜こそ、呪われた騎士の非道な殺戮に終止符を打たなければならない。
この旅路の間、数え切れないほどの魂に眠りの魔術を施した。
これ以上理由もなく平和な暮らしを脅かされ、救われない死者を増やすわけにはいかない。
騎士道精神の正義感からだけではない、あまりにも悲惨な死者たちを目の当たりにした人としての純粋な怒りが、コウを突き動かしていた。
決然と馬に一蹴りを加えると、それを待ちかねていたかのように愛馬は全速力で駆け出した。
うっそうと繁る森は月明かりに照らされてもなお薄暗い。
だがその中をコウの操る駿馬は、木々をすり抜ける風さながら、迷うことなく走り抜けていった。
片手でしっかりと手綱を握りしめ、もう片方の手を胸の護符にあてて、コウは祈るように念じた。

“どうか間に合いますように”

やがてようやく森を抜け出し、ゴツゴツした岩肌の見え隠れする草地に出ると、そこからは間違いなく一目でそれとわかる死の使いの軌跡が道案内をしてくれた。
足跡は鳶の眼で見たのと同じ景色をたどり、予想通り高台の家を目指している。
コウはさらに馬の足を速めた。
ほどなく、遠くにうっすらと窓明かりの漏れる家影が現れ、コウの眼はその周囲を見回るかのように行き来する魔馬の姿を捉えた。
魔馬は敏感に近づいてくる何者かの存在を嗅ぎつけ、豪胆にもブルンと荒い鼻息を漏らすと、挑むようにコウへ向かって駆け出した。
前方から向かってくる巨大な闇の塊のような姿に愛馬は一瞬怯んだが、コウが口内で何事か呪文を唱え首筋を数回優しく叩くと、全身に力をみなぎらせて力強く歩を進めた。
地獄の使者を思わせる闇の魔馬は、まっしぐらにコウめがけて駆けてくる。
コウは背中の長剣の柄に手をかけ、疾走する愛馬の背にぴったりと身を伏せながら、近づいてくる黒い魔物に眼を据えたまま待った。
瞬く間に魔馬はコウの面前まで迫り、標的を睨みすえると邪魔者を一足に踏み潰さんとする意図もあらわに、勢いよく後足で立ち上がった。
コウの愛馬の倍以上ある黒い馬は、立ち上がるとまるで巨大な壁のようだ。
蹄はコウの頭ほどもある。
コウは巧みな手綱さばきで愛馬を操り、また馬も的確に主の意志を汲み取り、目の前に立ちはだかる黒壁の脇すれすれをするりとかいくぐって、踏みおろされる鉄槌を回避した。
同時に小山のような魔馬の脇を過ぎ行きざま、コウは長剣の柄をしっかりと握りしめ、一気に鞘から引き抜いた。
引き抜きながら、その勢いもろとも魔馬の胴に振り下ろす。
電光石火の早業だった。
狙いはあやまたず、コウの放った一撃は黒馬の腹を深々と切り裂いた。
地面にめり込むように踏み下ろされた前足の膝が、苦悶の声と共にがくりと折れる。
コウが与えた一刀は魔馬の動きを瞬時にして凍りつかせた。
腹部を裂かれた馬は、そのまま地響きをたてて大地に崩れた。
普通なら相当の血飛沫があがる深手だったが、魔物は生き物ならばその体内にめぐらせているはずの赤い液体を吐き出すことはなかった。
代わりに、何やら得体の知れない不気味な色の煙がその傷口から立ち昇った。
まるで意思ある生物ででもあるかのように、煙は螺旋模様を描きながら地面へ広がり、ゆっくりと地表へ吸い込まれていく。
コウは再度の馬の襲撃に備えてすばやく愛馬を反転させその様子を確認したが、横たわった黒馬が再び立ち上がりそうな気配はないと察すると、即刻石造りの家を目指した。
あの馬は魔物だ。
生あるものではない、馬の姿を映した動く屍だ。
器が壊れて流れ出た“死”そのものの息吹は、地の底へ這い戻っても、また再び器を得て舞い戻るのだろう。
何度でも。
だが、コウが今対峙すべきは馬の姿の魔物ではない。

家の戸口に駆けつけるやいなやコウは愛馬の背から飛び降り、防衛の呪文を唱えた。
不意をつかれて魔術攻撃をされることを防ぐためだ。
首なし騎士が攻撃的魔術を使うことができるのかどうかはわからなかったが、わからないからこそ全ての事態に備えなければならない。
正面扉と思しきぶ厚い扉が無理やり押し開けられ石床に倒れている入り口から、コウは屋内に足を踏み入れた。
ささやかな玄関ホールの床に無残に横たわる扉は中心から縦に大きな亀裂が入り、何かがめり込んだようにへこんでいた。
床に倒れた時に引きちぎられた金具やかんぬき錠、ささくれた木片が床のあちこちに散乱している。
ホールから続く室内は小さな嵐が通り過ぎたかのようにあらゆるものがなぎ倒され、点々と転がっていた。
コウは数歩で居間から調理場を走り抜け、破壊された扉のない出入口をくぐって中庭へ飛び出した。
そのまま中庭を突っ切って、北側の別棟を目指す。
既にコウの敏い耳には大剣が空を切り、石床に火花を散らす金属音と、掠れて声にならない女の泣き声が届いていた。
まだ間に合う。
全身の血が沸騰した湯のように熱く体中を駆け巡る。
別棟の扉も、やはり容赦ない力で破壊されていた。
コウは右手に構えた長剣に左手を添え、剣そのものに魔力を持たせる印を柄に描きながら、室内へと踊り入った。
コウの眼に、今まさに剣を振り下ろさんとする騎士の禍々しい姿が飛び込んできた。
駆け入った勢いのまま、一足飛びにコウは騎士の背めがけて愛剣を振り下ろした。
間一髪のところで騎士は突然の侵入者に気づき、振り返りざまにコウの剣をよけて飛び退いた。
コウの方へ向き直り、のっそりと上体をゆらした騎士の足元に、力なくくずおれている若い娘の姿がちらりと垣間見える。
まだ首から上は身体から離れてはいなさそうだ。
心の底からこみ上げてくる安堵感とともに、改めてコウは追い続けてきた首のない闇の騎士を真っ直ぐ見据えた。
そして、騎士が青白い炎に包まれていることを知って眉根を寄せた。
一体あの炎は何だ!?
油断なく騎士の動きに意識を向けながら、コウは揺らめく炎をじっと見つめた。
即座にその炎は騎士自身が発しているものではないと気づいたが、陽炎のような炎が騎士の足元から細い軌跡を描き、床を這うようにしてのびているのに眼が止まるまでには、一瞬の間があった。
その虚間をついて、首なし騎士は驚くほど身軽な動きでコウとの間合いを詰め、すんでのところで獲物を仕留め損ねた剣をコウの喉元へ向けて繰り出した。
鼻先すれすれで剣先を避け、後方へ飛び退ると、コウはばねのようにしなやかな身のこなしで足が触れた瞬間に床を蹴り、騎士の懐へ飛び込んだ。
しっかりと水平に剣を構え、甲冑の継ぎ目を狙って深々と剣を騎士の腹部に沈めるつもりだった。
しかし、騎士はコウの動きを読んでいた。
繰り出した剣を引くと同時にひらりと身をかわし、飛び込んできたコウの左手から回り込んで後を取る。
すべての動きは、首から上がなくともちゃんと見えているかのようだった。
背後に回った騎士は長剣を振りかぶり、コウの後ろ首めがけて打ち下ろす。
石床を転がって、コウは死の刃を逃れた。
その時、騎士の足元からのびている炎の軌跡が、床に割れて転がっているランタンへつながっているのをコウは眼の端で捉えた。
ランタンの炎が騎士を包み込んでいる。
ランタンが騎士を攻撃しているのだ。
コウは驚くとともに瞬時にしてそのランタンがただのランタンではないということを理解した。
ガラスが割れ、床に倒れているにも関わらず消えない炎。
意思ある炎。
ランタンには魔術がかけられている。
素早く身を起こしざま、コウはランタンに向けて念じた。

“我汝に力を与えん。その炎持て闇の使いを焼き滅ぼせ!”

途端に、ランタンから発する青白い炎は油を注がれたかのように勢いを増し、青白い光が紫色に変化した。
騎士の全身を包んでいた陽炎のような炎は、燃え盛る業火となり、騎士は思いがけない火の攻撃に身をのけぞらせた。
音を発する器官さえあれば、おそらくすさまじい苦悶の絶叫を上げていたに違いない。
騎士は激しく炎を上げる火柱と化し、闇雲に剣を振り回した。
先程までとは比べ物にならないすさまじい炎の魔力に、さしもの騎士もかなりの打撃を受けているようだったが、それでも覚束ない足取りながら騎士はコウに迫ってくる。
驚くべき執着心だ。
コウはできる限り床に倒れている娘の側から騎士を引き離そうと、剣を構えたまま騎士が一歩を踏み出すごとに後方へと見を引いた。
いつまでも炎の魔力が続くわけではなく、もちろんそれだけで打ち倒せる相手でもない。
そして当然、ランタンに秘められた魔術の力の支援がなければ、簡単に勝てる相手ではないだろう。
あまり時を移さず、一気にケリをつけなければ。
娘から十分に騎士を遠ざけたと思ったところで、コウは再度相手の懐をめがけて剣をつきたてようと飛びこんだ。
騎士は苦しげに身を捩じらせながらも的確な動きでコウの剣を自らのそれで撥ね上げ、身をかわした。
弾かれた剣につられてコウがバランスを失う。
何とか身体をひねって体勢を整えたコウの首めがけて、騎士が水平に剣をふるう。
危ういところで上体をのけ反らせ、麦穂のように薙ぎ払われるのを避けたコウは、身を反らせたまま床を蹴って後転し、背後にあった作業台の上に飛び乗った。
騎士が間髪いれずコウの頭上めがけて剣を振り下ろす。
コウがぎりぎりの一瞬で剣をかわすのと、騎士の長剣が作業台に深々とめり込むのがほぼ同時であった。
即座にコウは作業台の上から転がり下り、今度こそ騎士の腹部を覆う甲冑の継ぎ目に狙いを定めて、渾身の力で剣を刺し込んだ。
ずしりと重い、確かな手応えが伝わる。
騎士はその瞬間、剣を振り下ろした体勢のまま凍りついた。
剣は甲冑のわずかな継ぎ目に狙いどおりに突き刺さり、騎士の腹部を貫いてあちら側まで貫通していた。
そのまま柄を握りなおし、コウは一息に剣を真横へ滑らせる。
たいした抵抗はなかった。
思いの他呆気なく剣は騎士の腹部を切り裂き、胴体を上下真っ二つに分けた。
コウは大きく肩で息をつきながら、騎士の身体を抜けきった愛剣を空で払った。
血糊は全くついていない。
魔馬と同じだ。
紫の炎に包まれたまま動きを止めた騎士の、切り裂かれた腹部から、不気味な黒い煙が細く漂うように漏れ始める。
コウは後ずさって騎士から離れ、なおも剣を構えてその様子を見守った。
仕留められたのかどうかは、まだわからなかった。
荒い息遣いとともにコウの額から汗が伝い、鼻の先から滴り落ちた時、騎士の切断された上体がずるりと傾き、それを合図にそれまで騎士の体内に納まっていたのであろう邪な何かが堰を切ったように一気に中空に霧散した。
紫色にきらめく火の粉が辺り一面に降り注ぐ。
霧のように広がった黒煙は、一旦中空で無秩序に散乱したかと思うとすぐに雲のようにまとまり始め、魔馬と同じく螺旋を描きながら床石の継ぎ目に吸い込まれていった。
煙がきれいに消え去ると同時に、嫌な音を響かせて、黒い甲冑が床に転がった。
甲冑の中には、ひどい腐臭を放つ汚泥と大量の長虫が血肉の変わりに詰まっていた。
ひとまず、終わった。
コウは全身を震わせて肺に思い切り空気を吸い込み、吐き出した。
胸の護符に手をやり、感謝の言葉を呟く。
そして手にした剣を背中の鞘に収めると、倒れている娘に近づき、傍らに膝をついた。
娘の側に倒れていたランタンを拾い上げ、自らの役目を終えたとばかりに炎の力を弱め、それでも消えることなく明かりを灯しつづけるそれを、無造作に積み上げた本の上に載せる。
魔法のランタンは心なしかほっとしたように、ちりちり・・・とかすかな音をたてた。
娘は大量の本が床を埋め尽くさんばかりに散乱している中に、死んだように横たわっていた。
黒い緩やかにカールした髪が乱れて顔中に張り付き、唇の端には乾きかけた血の跡がついている。
地味な色の室内着はあちこちが汚れ、ほっそりした手足にはいくつもの擦り傷が鮮血の色を滲ませていた。
青く鬱血した打撲の跡も痛々しい。
見たところ、コウよりは随分年下のようだ。
まだ十六、十七といったところだろう。
肌はこの辺りでは珍しい黄白色で、ほんのり褐色を帯びている。
少し南方の血が混じっているのかもしれない。
コウはそっと彼女の身体を抱き起こした。

[2006年 XX月 XX日]

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