Chapter.1-2

ヘイヤート・コウは短く刈り込んだ赤茶色の髪をくしゃくしゃとかき回すと、腰の革ベルトに挟んであった純銀製の小さなボトルを取り出し、ぐいっと一息に飲み干した。ごくりと喉が鳴り、熱い液体が胃の底まで流れ落ちていく。
ほうっと満足気に息を吐くと、コウはボトルのキャップをしっかりと閉め、何事か口内で呟いた。
たちまち、たった今空っぽになったはずのボトルが重くなる。
それを再びもとの場所に収めると、コウは自らの目線の先に広がるアカガネ色の空を眺めた。
スカラビア公国の最西端に連なるラウラナ連峰は、公国内で最も高いクス山を中心に天然の国境壁の役割を果たしている。
通称“西の魔女”と呼ばれ、峰越えの困難なことで有名なこの連峰の登山路は険しく、山嶺近くは殊更天候が変わりやすい。
山麓から中腹あたりにかけて背の高い針葉樹林に覆われた山道は昼間でも薄暗く、よほど旅慣れた者でも気をつけていなければ簡単に道を見失ってしまう。
だが一方でその険しさ厳しさの中にあって、天上に向かって屹立する峰々は時の移ろうに従って様々な美しい姿を見せる。
針葉樹林を抜けたあたりからは、高地の森の果実を実らせる木々が茂り、いくつもの澄んだ水をたたえた沼や湖がそそり立つ岩肌に囲まれた谷間に楽園のごとく穏やかにある風景は、見る者の心を捉え、魅了する。
その神秘的で優しくもあり妖しくもある美しさと厳しさが、“魔女”と呼ばれる所以であった。
今コウが馬を降り束の間の小休止をとっている山頂の窪みからは、眼下に緑豊かな草地と小さな湖を内包する峡谷が見渡せる。
湖の周りには小さなかわいらしい花々が淡い色合いを競わせて、風に揺られていた。
実に心和む美しい景色に、我知らずコウの表情が和らぐ。
沈みつつある太陽の最後の残照に照らされて、谷間を囲む森の木々は深い紅色に、湖の水面は燃えるような朱色に輝いていた。
頬を撫でてゆく冷たい風を心地よく感じながら、コウは髪と同じく赤茶色の革手袋をはめた手のひらをこすり合わせた。
陽が落ちてしまえば、この高度では急速に冷え込んでくるはずだ。
旅装束は数日前に雨に打たれたのと、強い西風にさらされたのとで、埃っぽいにおいがしている。
学都バルセナタンを発ってから、長い時が過ぎていた。
大儀ある旅立ちであったが、それは過酷な旅でもあった。

三月ほど前、コウは恩師であり上司とも言える(しかも、最上位の)魔術士ギルド総帥、フーティリエ・イライジャに内々に呼び出された。
コウが所属する魔術騎士団は強大な力と領土を誇り現在も領土の拡大に意欲的なロムネル帝国の軍隊に属し、その性質上帝国の属領で国そのものが巨大な学問都市とも言えるスカラビア公国に本隊を置いている。
帝国には団の中でも選りすぐりの精鋭とされる一握りの管理階級のみが“本部”と称して駐留しているが、実際の魔術騎士部隊のほとんど大部分は公国にあって、騎士たちはそれぞれ学問・術の更なる習得や剣術の鍛錬などに明け暮れているのだ。
コウは、もともとは魔術の道を極め、いっぱしの魔術士になる事を夢見ていた若者であった。
だが志半ばで自らにその素質があまりないことを悟ると早々に日々の糧を得る稼業の方向性を修正し、それまで覚えた魔術を無駄にせず、より彼の天賦の才を生かせる魔術騎士になることを選んだ。
コウには複雑極まりない呪文や古来の伝統的な儀式の手順を覚えるよりも、柔軟で身軽に動くしなやかな身体と物の動きをすばやく捉える視力のよさが存分に生かせる剣術の方がはるかに向いていたし、上達も驚くほど早かった。
そのコウの才能と素質をすばやく見抜き、それとなく道を示してくれたのが、当時の恩師であり現在では魔術を操ることを認可された全ての魔術士(もちろん程度の差こそあれ、魔術を利用する騎士団である魔術騎士もそれに含まれる。それゆえ、魔術騎士団は帝国の軍隊でありながらも魔術士ギルドの独自の規律を守っている)を統括する魔術士ギルドの総帥でもあるフーティリエ・イライジャであった。
コウにとっては恩人とも言うべき、最も尊敬する人物だ。
魔術騎士団に入団してからは魔術学そのものに専門的に関わる機会も減り、久しくイライジャと顔を合わせていなかったので、突然の呼び出しに少々面食らいながらコウは数年ぶりに恩師のもとを訪ねた。
イライジャの住まいは学都中心部からはずいぶん離れた、学徒の下宿屋街の外れにあった。
全魔術士を束ねるギルドの総帥の住居にはとても似つかわしいとは言えない、こじんまりとした石造りの建物で、母屋の横に3階建ての小さな塔が並んで建っている。
コウは学徒時代に何度かこの住まいを訪れた事がある。
飾り気のない外観をしていても造りは非常にしっかりとした職人の手になる建築は、天候や季節に左右されることなく内部を完璧に一定の心地よさで保ってくれる優れた家であった。
コウを教えていた当時既に老境にさしかかっていたイライジャは、ギルド総帥となった現在さらに歳を重ねており、おそらくは公国内の魔術士の中でも最長老と言っていいほどの年齢になっているはずであったが、しばらくぶりに見る恩師の姿はコウが学徒であった頃とほとんど変わっていなかった。
豊かに垂れた白い顎鬚と、ふさふさした口髭がイライジャの顔の下半分を覆っている。年齢に見合った皺の刻まれた面には生気が溢れており、小さな丸い眼鏡の向こうからは知性とユーモアに富んだきらきら輝く子供のような眼が久しぶりに会う愛弟子の顔を嬉しそうにのぞきこんでいた。

「久しいの、ヘイヤート。騎士団での噂は色々と耳にはしておるが、見たところ学徒の頃とあまり変わっておらんようじゃな」

イライジャはコウに座り心地のよい椅子を勧めながら、眼を細めて笑った。

「団の噂ですか?連中のたてる噂なんて、どうせろくでもないものでしょう?事実に基づく話はほんのひとかけらで、あとは誇大妄想かと思うくらいの大ホラですよ」

コウは苦笑しつつ答えた。
騎士団の中でもコウが所属する第17部隊は、出自も育ちも、おまけに才覚までが様々な雑多な集団である。
いわば“本部”駐留の精鋭部隊の真逆ともいえる一団であり、率直に言うならば個々の個性が強すぎて統制が利きにくい、厄介者たちの掃き溜まりのような部隊だ。
だが、その強い個性と秀でた才能は時に非常に高い利用価値を持つ。
騎士団全体の中ではその扱い難さ故に芳しい評価を得ていないにもかかわらず、その実彼らに与えられる任務は他のどの部隊よりも重要で、高度な手腕を要するものがほとんどだ。
もちろん、それには多大な危険を伴うものも多く、その分彼らの報酬は他部隊の同階級の騎士よりも厚遇されている。
それに対するやっかみも手伝って、魔術騎士団という特殊な集団の中でも特に異質な空気を持つ第17部隊には、好感を抱く者の方が少数派であると言えた。

「厄介事ばかりを押し付けるだけ押し付けておいて、陰ではさんざん好き勝手を言ってる連中ですからね。もう何をどう言われようが気にもなりませんが」

「いやいや、そういうところがの、やはり変わっておらん。他人の評価を気にせんというのは悪い事ではないが、君らのようにきちんと背筋を正して言いたいことを言う者たちは、とかく目を引くでの。良きにつけ悪しきにつけな」

イライジャは、やんわりとした口調でそう言うと、大いに満足気な笑みを浮かべて蜂蜜入りの暖めた火酒を銀製のカップにたっぷり注ぎ、コウに差し出した。
コウは礼を言ってカップを受け取り、その温もりで手のひらを暖めた。
ここ数日、バルセナタンは季節の変わり目のせいか昼夜の寒暖差が激しくなり、夜間は少々肌寒く感じられるようになっている。
イライジャのように歳を重ねた者には、この程度の肌寒さでも身体の芯を暖める飲み物の方が好ましいのだろう。
イライジャよりはるかに若いコウには、今はまだ暖めた火酒より冷えた麦酒の方が大いに食指をそそられるのだが。
カップの中身を一口啜ると、とろりとした濃厚だがしつこくないサラリとした甘味と、カッと舌が焼けるような熱い刺激が心地よく喉を滑り落ちていく。
別段身体が冷えていたわけではなかったが、思いのほか刺激の強い甘い酒は日頃の疲れを吹き飛ばすとびきりの味だった。

「…旨いな。先生、自家製ですか?」

「そうじゃ。仕込んで20年になる代物じゃよ。まだ若干味が若いがの。それでもこの年寄りがちびちび啜るだけじゃから、まだまだ先に楽しめるだけの量がある。あと10年もすれば最高の味になるじゃろうよ。その時には、君にも一瓶進呈しようかの」

イライジャは口元を綻ばせた。
イライジャには家族がいない。
かつてはどうであったのかも、コウは知らない。
恩師の長い人生の軌跡はコウには知る機会もなかったし、また無理に知りたいとも思わなかった。
ただ時折コウは自らの境遇に近しいものを感じるからこそ、イライジャは自分に対してひとかたならず目をかけてくれているのではなかろうかと思うことがあった。
コウにも家族はいない。
コウは魔術士を目指して学徒となるよりもずいぶん以前、つまり幼少の頃から既に天涯孤独の身の上であった。
もちろん家族も身よりもないコウのような者が、このバルセナタンで特別珍しいわけではない。
魔術ばかりでなく医学や錬金術、建築、考古学など、ありとあらゆる学問の学びやである大学都市には、帝国だけでなく各地から夢と希望に胸を膨らませた学徒達がやってくる。
この世に様々な幸・不幸があるように、彼らの人生もまた様々だ。
コウのように誰かが待つ帰れる場所を持たない者は世界中にいくらでもいて、神に与えられた日々を生きている。
この学問の都でも、それは同じ事だ。
イライジャがコウのどこに親近感を抱くというのか?
それはコウ自身にもわからないし、それこそ全く根拠のない思いではあったのだが、コウには不思議とその思いが決して的外れなものではないような気がしていた。

「近ごろでは帝都の情勢が落ちつかんようじゃが、どうじゃな?騎士団の内部ではそれほど影響はないかの?このところ君は休みをもらっておるようじゃが?」

「休み?まぁ、表向きはそうなっているでしょうが、実際のところは謹慎ですね。僕は別に不穏当なことをしたつもりはありませんが、上官同士の話し合いで穏便にことを収めようという事になったんでしょう。当分の間休暇をとるように指示されましたよ。先生は全てご存じなんじゃないんですか?」

まったく思い出すのも腹立たしい、とんだ災難だ。
その日は非番だった。
夜遅く、街の安宿兼居酒屋で同じ部隊の同僚と飲んでいたところへ、バルセナタン駐留の帝国軍騎馬小隊の一団が後からやってきた。
彼らは日頃から魔術騎士団を敵視していた。
お定まりのように、騎馬隊の連中は大声を張り上げて明らかにコウと同僚を意識した愚痴を零しはじめた。
コウは同僚2人と3人で部屋の一番奥のテーブルに座っていたが、こういうことはよくあることで全員がはなからまともに取り合う気がない。
騎馬隊の一団は総勢8人でカウンターに陣取り、忙しく動き回る店の看板娘を頭のてっぺんから足の先まで眺めまわしつつ、時折ちらちらとコウ達に視線を投げてくる。
しばらくして程よく酒が入りはじめると、彼らの言動はますます度を越していった。
あてこすりや揶揄するにとどまっていた発言は、だんだんとコウ達に向けたあからさまな攻撃になってゆき、彼達は内心では腸が煮えくりかえるような思いを抱きながらも、努めて知らぬふりを決め込んでいた。
ところがまるで相手にしないその冷静さが逆に気に障ったとみえ、とうとう彼らの中で主格と思われる大男が、麦酒を並々そそいだゴブレットを手にコウ達のテーブルまでやって来ると、しつこく絡みだしたのだ。
見かねた店主が声をかけようとしたところへ、店主の2番目の娘で店の看板娘であるロザリンが勇ましく頬を紅潮させて両者の間に割って入った。
ロザリンはバルセナタンの安宿酒場界隈ではかなり有名な器量良しで、明るく人当たりのよい人気者であった。
日々酔っ払い客をあしらっているため少々気の強いはねっかえりのきらいはあるものの、波打つ見事な銀の巻き毛とくるくると表情を変える生き生きとした琥珀色の瞳に、誰もがはっと息を飲む美人だ。
とりわけ男達を魅了するのはぷっくりとしたかわいらしい下唇と形の良い胸のふくらみで、彼女を目当てに連日通い詰める常連客も少なくない。
当然、騎馬隊の男達もその例外ではなかった。
ロザリンが彼らの間に立つと騎馬隊の男達はいっせいに色めきだち、目的の矛先を彼女に替えた。
コウ達を庇うように割り込んだことと、ほんの一瞬ではあったが彼女がちらとコウの方へ視線を投げたことが、中でも主格の大男を残忍で貪欲な嫉妬心に燃え上がらせた。
男はやにわに彼女の腰を抱きすくめると、そのままテーブルへ押し倒した。
事ここに至り、もはや無関心ではいられなくなったコウ達は、ついに心中に収めていた憤りを爆発させた。
男に組み敷かれたロザリンを助けるため、コウは迷うことなく大男の顎を打ち砕き、二人の同僚達もそれぞれコウにならった。
巻き込まれた他の客達も加わった大乱闘を収拾するべく、学都警備隊がかなりの手勢を引き連れて駆けつけた頃には、コウ達騎士団の三名は騎馬小隊のほぼ全員を酒場の床上に叩きのめし終えていた。
結果、ロザリンからは感謝とともに熱い抱擁と甘美な口付けを得たコウ達であったが、軍の上層部からは厳しい叱責とうんざりするようなありがたい訓示を垂れられる事になった。
魔術騎士団と騎馬部隊間は様々なかけひきの末、お互いが大きな損害を被らないところで妥協案を交わし、騎馬隊では主格の男を含めた半数が減給、またその場に居合わせた全員が数日間の罰役に服する事となり、コウ達三名は指示があるまで長期の無給休暇(事実上の謹慎である)を言い渡されたのだった。
軍内外で隊員達が小競り合いや喧嘩などのトラブルを起こすのは日常茶飯事ではあるし、両者に課せられた罰則もそれほど厳しいものではないのだが、自ら望んで引き起こした乱闘騒ぎではないだけに、コウにとっては全くもって不本意な処遇である。

「ロザリンの父親は大そう感心しておったぞ。君が一撃で打ちのめした騎馬隊の副隊長は、かなりの大男だったそうじゃが、君の拳をくらった後しばらく立ち上がれなんだとか。ロザリンはあれからすっかりおとなしくなってしまったようじゃがの」

「彼女が?なぜです?まさか、あれで男が恐ろしくなったとかですか?」

「いやいや、違う。あの子はそんなことくらいで気弱になるような娘ではあるまいよ。そうではなくてな、少々患ったらしい」

「患った!?」

「ほっほっ。何とやら言う薬の効かん病じゃな。あれ以来、店へ顔を出しておらんじゃろう?君は事実上謹慎だと思うておるようじゃが、名目上はあくまで休暇じゃ。昼だろうと夜だろうと外出するのは自由なのじゃからな。店のテーブルをいくつかダメにした詫びもかねて、ここを出立する前に必ず一度は店に顔を出しておくことじゃ」

遠回しにではあったが、イライジャの言わんとしているところは察しがついた。
実のところ、コウ自身あの店を訪れる度、ロザリンが密かに投げかけてくる視線に以前から気づいていたからだ。
そして、もちろんまんざら悪い気はしていなかった。
だが今はそれよりも、コウはイライジャが最後に付け足した言葉の方がひっかかった。

「先生、ここを出立する前とは…?いったいどういう意味です?」

コウがすぐさまその疑問を口に出すと、イライジャは急に真顔になった。
優しげな眼の奥に厳しい光が宿り、面からは煙のように笑みが消え、周囲に何者かの気配がないか確かめるように室内の様子を伺ってから、イライジャは声を顰めてコウを手招いた。

「もう少しこちらへ椅子を寄せるのじゃ」

言われるままに、コウが座っていた椅子をイライジャの近くまで進めると、イライジャは空中に呪いの印を刻み、低い声で呪文を唱えた。
防御の魔陣を張ったらしい。

「よもやとは思うがの。他に耳があっては困るでな。さて、ヘイヤート。改めてじゃが、今日突然君を呼び出したのは他でもない。実はの、君に極秘の任務についてもらいたいのじゃ」

コウの身体に緊張が走り、全神経がピンと張り詰める。
極秘任務、それも魔術騎士団の総帥直々の依頼となれば、極めて重要なものに違いない。

「これは本部にも内密の任務じゃ。むろん帝国軍側には毛ほども悟られては困る。それゆえ、団の中でもこの事について知る者はごく一握りじゃ。近頃ではどこに陰の眼が光っておるかわからんでの」

そうまで内密の極秘任務とはいったいどんなものなのか?
コウは背筋を正し、口元をぐっとひきしめたままイライジャの次の言葉を待った。

「君は近頃魔物の噂を耳にしたことはあるかの?」

「魔物の噂…ですか?いえ、特には…」

「実はな、近頃帝国のあちらこちらで…と言うても都から離れた山間部や、属領である公国や伯爵領の町や村ばかりでなのじゃが、魔物が出没しておるようなのじゃ」

「魔物?」

「うむ、姿を目にした者の話によると、黒い大きな馬に乗った黒装束の騎士だというのじゃが…その騎士には首がないというのじゃ」

「…首がない!?」

「そう、首がないのじゃ。首から上がな。つまり、身体だけが馬に跨って動き回っておることになるのじゃが、これがひょっこりと人里離れた田舎の村や町に現れては、一線を退いて隠居しておる魔術士や錬金術師を襲っておるという話なのじゃ」

「首なしの騎士…ですか…」

「噂がまこと事実であるならば、その首無しの騎士は何者なのか…また誰かに操られておるのであれば……まず間違いなくそうであろうと思うが…一体誰に何の目的で操られておるのか…それをつきとめねばならん。そこでじゃ、ヘイヤート。まずは君にその首なし騎士の噂が本当に真実であるのかどうか、また実際に首なしの騎士が罪もない老いた魔術士達を殺戮して回っておるのかを確かめてきてほしいのじゃ。そして、それがまことならば…ようよう調べて対処を考えねばならん」

少しの間、コウは黙っていた。
黒い甲冑に身を固めた首のない騎士のイメージがコウの頭の中で姿を形作っていく。
血が騒いだ。
魔術騎士団とはいえ、普段任務で相手にするのは基本的に、生きた生身の人間である。
血肉を備えた生者でないものを相手にする任務ははじめてのことで、未知なる相手への好奇心と、その危険に対峙するスリルがコウの騎士としての闘争心を掻き立てた。

「では、先生。いつ発てばよろしいですか?」

「そうじゃな、色々と持たせたい物もあるのでな、多少わしの方での準備も必要なのじゃが…君はいつ頃なら出発できるかね?」

「備えが整うならば、今すぐにでも」

コウは満面の笑みを浮かべて答えた。


*** ***


最終的に全ての準えが万端となり、コウがバルセナタンを出立したのは、それから数日後の事であった。
その間コウは密かに旅支度を整えながら、それを悟られぬよう無為な長期休暇を与えられた騎士が過ごすようにふるまい、日々を送った。
イライジャの勧告通りロザリンの店を訪れ、(さすがに店主を気遣い、もっとも客の少ない宵の口という時間帯を選んだが)お互いの気持ちが自然に緩やかに寄り添うのを確かめ、わずかな時間の中で情熱を交し合った。
都を密かに発つ夜、しばらく会えないと告げられると、ロザリンは何も言わずに自らが胸に下げていた護符のペンダントをはずし、コウの首にかけて微笑んだ。

「またお会いできる日まで、預かっていて」

その護符はその夜以来、一度として彼の胸元を離れた事がない。
コウは学都を出ると、まず最初に北へ向かった。
イライジャからは、最も新しい首無し騎士の情報元となったのがスカラビア公国と聖ベリアーニ伯爵領との国境から北東に位置する村で、まずはそこを訪れてみるようにと指示されたからだ。
そこは古くから羊飼いが住む小さな集落が寄り集まってできた村で、今では羊と共に珍しい麦を育てており、希少な麦を使用した麦酒を主な収入源としている。
その村に直接首無し騎士が現れたというわけではなく、その村に住む羊飼いが子羊を市に出すために帝都へ出かけた際、帰りの道中で騎士を目撃したというのだ。
羊飼いはまだ働き盛りのがっしりした身体つきの男で、手伝いに息子2人を連れての旅路であったという。
コウは村を訪ね当て、羊飼いに不信に思われぬよう麦酒を買い求めにやってきた物好きな旅人を装って、それとなく話を聞き出した。
それによると、彼らは羊を連れた往路は羊達に食ませる牧草地を通らねばならない必要性から、山越えを避けてなるべく平地を迂回していくルートをとったが、復路は最短で戻れる道程を選び、国境のフォブス山を越える事にした。
その帰路の途中、野営した山間の湖のほとりで、彼は首無しの騎士を目撃したらしい。
その湖の対岸側のほとりには小さな家が数件建っており、全ての住まいに人が生活を営んでいる気配があった。
2人の息子が寝入り、焚き火が朝までもつようにあともう少しの薪を集めようと林の方へ分け入っていこうとした時、突然今までに聞いた事もないような生物の声を耳にして、羊飼いの男は震え上がった。
胃の底から全身が揺さぶられるような、不吉な声だったという。
男はとっさに低く身体を屈め、辺りを伺いながら水辺で眠る2人の息子のもとへ戻った。
何か危険な生物が近づいて来ているのならば、大急ぎで子供達を起こし、安全な場所へ避難させなければならないと判断したからだ。
じっと息を潜め、耳を澄ますと、やがて遠くから馬の蹄が大地を蹴る音が聞こえてきた。
そこで彼は先程の声が馬のいななきであったことに気づいた。
本能的に男は急いで焚き火に水をかけて消し、眠っている息子達を背後に姿勢を低くして地に伏せた。
湖の対岸側では家々の屋根に突き出した小さな煙突から薄く煙が立ち昇り、窓には薄明かりが灯っているのが見える。
羊飼いは言い知れぬ胸騒ぎに押し潰されそうになりながら、彼達に今すぐ明かりを消してどこかに身を隠すよう警告したい衝動にかられたが、遠く湖面を隔てた向こう側に彼の声を届かせる術はない。
そうしている間にも、馬の轟かせる蹄の音はどんどん近づき、やがて音の主がその声にたがわぬ不気味な黒い姿を森の奥から現した。
幸いにも、馬が姿を見せたのは羊飼いが野営していた位置よりもやや湖の南側の林だった。
馬上の騎手は森を出ると一旦馬の手綱を引き、動きを止めた。
遠目には背後の森の闇に沈んで黒い馬の姿がぼんやりと認められるだけであったが、その馬は羊飼いが今までに見たことがないほど大きかった。
馬が動きを止めていたのはほんの一時であった。
騎手はすぐさま進路を左手にとり、湖のほとりをぐるりと回って彼らの野営地からは反対の方向へ離れていった。
その向かう先には、対岸側の家々がある。
騎手が間違いなくそこを目指していると確信すると、羊飼いは息子達を急いで起こした。
寝ぼけ眼でわけもわからず、まだ夜明けでもないのにたたき起こされた事に口々に不平を漏らす息子2人を叱責しつつ、羊飼いは既に対岸の家々の目前まで近づいている黒い姿に眼をやった。
そして、見たのだ。
薄い月明かりに加え、家の窓から漏れる明かりにぼんやりと照らされて浮かび上がった、馬上の騎手の姿を。
黒い甲冑に身を包み、うっそりと漆黒の馬に跨る騎士の姿を。
その騎士には、首が無かった。
全身の血が凍りつき、ざっと羊飼いから血の気が引いた。
彼はまだ眠そうに目をこすってあくびをしている息子達の腕をつかみ、荷物をまとめるのもそこそこに転がるようにその場を後にした。
最後に湖の向こうを振り返って見た時、首の無い騎士は馬を降り、立ち並ぶ家々のひとつに悠然とと近づいてゆくところであった。
その後その湖のほとりの住人がどうなったのかは、羊飼いの知る由もない。
彼は息子達を急きたてて、夜の森の奥深くへと入り込み、帰り路を見失ってしまった。
ようやく見知った場所に出て、我が家へたどり着くのに、まるまる1日を無駄に費やしてしまったらしい。
もう金輪際二度とフォブス山を越えるルートで旅はしない、と彼は声を震わせながらコウに話した。
それが、およそ一月半ほど前のことだという。
コウは羊飼いの話を聞いた後、すぐにその湖を目指してフォブス山へ向かった。
湖は山の中腹あたりにある、スカラビア公の砦からさらに馬で西へ半日ほど行ったところにあった。
男の話の通り湖の西側のほとりには数件の小さな家が建っており、そのすぐ対面側の水辺にはまだ微かに彼らの野営の痕跡が残っていた。
心づもりはしてはいたが、湖畔の家々にはまったく人の気配は無かった。
コウは丹念に湖畔の周囲を調べながら、しんと静まり返った建物に近づいた。
地面にはコウが操る馬の倍はありそうな巨大な蹄の跡が残っており、家々の周辺をぐるぐる取り囲むようにして馬が歩き回った様子がよくわかる。
蹄の跡に混じって、いくつかの人の足跡もあちこちに残っていたが、その全ての上に何か黒いものが点々と模様を描いていた。
血の跡だ。
足跡の終点には、水溜りのように広がった血を吸い取った地面が、湿った嫌な匂いを放つシミとなって悲惨な誰かの最後を物語っていた。
血痕を辿ってひととおり周囲をめぐった後、コウは家々の内部をのぞいて回った。
入り口の扉を開ける手間はいらなかった。
家中の全ての戸は壊され、無残に砕かれていた。
室内は嵐が通り過ぎた後のように何もかもが破壊され、壁が崩れ落ち、家具と家具の間にまるで打ち捨てられたごみのように、人々の遺体がきれいに積み重なって横たわっていた。
ご丁寧にも首無しの騎士は理不尽な被害にあった彼らの遺体を室内に運び入れ、そのように並べていったらしい。
それらの遺体には全て、首が無かった。
想像以上の惨状に、さすがのコウも何度もこみ上げてくる吐き気をこらえなければならなかった。
それと共に、激しい怒りで眼が眩んだ。
残された遺体の大半は老人のものであったが、その中には明らかにまだ年若そうな男女と、子供のそれも含まれていた。
おそらく、老いた親と共に暮らす若夫婦とその子であったのだろう。
家の中に残された物を見る限りでは、彼らはごく普通の人々で、魔術師でも錬金術師でもない。
ただ、少し離れたところにある小屋には、既に使われなくなって久しいと思われる、立派な炉があった。
老人の若い頃には、もしかしたらここで金物を造っていたのかもしれない。
コウは一軒一軒を訪ねてまわり、同じように積み重ねられた遺体に弔いの呪文を唱え、騎士の痕跡を調べ終えると全ての家に火をつけた。
首から切り離された遺体は既にほとんどが腐敗していたが、二つに分裂されたもう一方の行方を思い、安らかならぬ魂が彷徨歩くことになっては困る。
教会の使途ではないコウには正式に魂を神の元へ送り出すことはできないが、魂を安らかに眠らせるための魔術を施すことはできる。
誰にも知られず悲運の内に命を落とした彼らに、コウはせめてそのくらいのことはせずにはいられなかったのだった。
彼らの中の誰一人、かつて魔術師であったと思われるような者はいなかった。
コウは彼らの弔いを済ませると、すぐさま地面に残る首無し騎士の置き土産を追った。
すなわち、蹄の跡である。

無意識のうちに、コウは胸元にかかる護符を楔帷子の上から弄った。
そこにそれがあることを、彼は日に何度も触れて確かめる。
そうする事で、遠く離れたバルセナタンに思いを馳せ、恋人に触れているような気持ちになるのかもしれない。
首無し騎士の軌跡を辿る事は、その後に残される悲劇の跡を辿る事でもあった。
何度かコウは、件の不吉ないななきがかすかに耳に届くほどの距離まで騎士に迫ったが、惨状を放置できずにいる間に瞬く間に引き離された。
騎士はいかにも魔物らしく、日中はあとかたも無く姿を消しているようだった。
夜間視界の良くない森の中で蹄の跡を追うのは楽なことではなかったが、昼間になってその跡を探そうとすると、必ずどこかでいったん途切れていた。
根気よくあたりをつけて先へ進んでいけばまた離れたところに現れるのだが、跡と跡の乖離はひどい時には馬で半日以上の距離に及んだ。
一度ならず、軌跡を見失ったかと思って焦ったこともあったが、時には魔術を駆使し、進んでは戻り戻っては別の方角へ進み、丁寧に繰り返し探索する事で再び痕跡を発見した。
そして、とうとうコウは追いついたのだ。
今朝、最後に途切れた足跡を目にした後、一日かけて探したがどこにも次に現れた巨大な馬の蹄跡はなかった。
峰伝いに追いかけてきた足跡が突然消え、新たな跡が見つからない。
ということは、今夜そう遠くないところで騎士が姿を現す可能性は十分にある。
コウは山頂の窪みに身体を休め、その時が訪れるのを待っていた。
夕闇が辺りを包み満天の星が空に瞬きはじめたら、あの地を這うようないななきを、しっかりと耳に捕らえるのだ。
どこに現れて、どちらへ向かっているのか。
瞬時のうちにそれを理解し、放たれた矢のごとくそこを目指すのだ。
その時を、コウはじっと待った。

[2006年 XX月 XX日]

inserted by FC2 system