[2006年 XX月 XX日]
金属の擦れあうかすかな音と共に、夕闇の中で小さな明かりが灯る。 弱々しく震えるオレンジ色の灯火は、少しずつランタンの中で力を増して行き、ほどなく部屋の隅々までを暖かい光で満たした。 過去長い年月を錬金術師と共に過ごしてきたランタンは、年を経るごとに徐々に魔法の力を蓄え、今では小さな火種でかな りの広範囲を照らし出す事ができる。 父の持ち物の中でも最も長く愛用されているひとつであるこのランタンには、時折まるで何者かの意思が宿ってでもいるかのように思える事がある。 今も留守中にこっそり入り込んだ娘をいぶかるかのように、ランタンはパチパチと火花を散らし、そのたびにちりちり…と小さな音をたてた。 本来ならば、父の承諾なしにこの仕事部屋へ入る事は許されない。 かつては錬金術師として、今現在は冶金術師として生計をたてている父の仕事場には、わずかとはいえ貴重な貴金属や、扱いを間違えれば大変な大惨事を引き起こしかねない薬品など、様々なものが父の決めた法則にのっとって並べられている。 好奇心旺盛で怖いもの知らずの若い娘が監視の目のないままこの部屋へ入る事は、父にしてみれば油の上で火花を散らせるようなものだろう。 まるで不心得者に抗議するかのように不規則に音をたてるランタンを無視して、リリスはゆっくりと手のひらを開き、握りしめていたものを明かりにかざした。 小鳥の卵ほどの大きさの、少しにごった透明な石。 形はきれいな楕円形だ。 もしかしたら宝石なのかもしれないが、だとしてもさほど高価なものではなかろうと思われた。 何しろその石のくすんだ色合いはとても見る者を魅了するような美しさを持ち合わせてはいなかったし、それを見つけたのも、とてもそのような類のものを保管しておくにふさわしい場所とは言えなかったからである。 リリスがそれを見つけたのは、つい先ほどのことだ。 いつものように陽が傾きかける頃、夕食の支度にとりかかるため調理場へむかったリリスは、はたと頭を悩ませていた。 今夜も、父が帰ってくるかどうかがわからない。 いつもなら今どのあたりにいていつごろ帰るという簡素ではあるが必ず伝言をよこす父が、今回に限って全く何の連絡もよこしてこないのだ。 父が北の領主に依頼を受けて仕上げた金の水差しを届けるために家を出てから、すでに10日以上が過ぎている。 北の領主の城までは、通常の旅程で考えれば往復10日程度は十分かかる。 だが、時として父は驚くほど短期間で旅程を終えて帰ってくる事がある。 依頼された作品に思いのほか高値の評価がついたり、条件のよい取引が成立した時などには、気を良くした父が普段はあまり使わない魔術を使う事があるからだ。 それゆえ、一度家を出た父がいつ戻るかは知らせがない限りはっきりとはわからない。 リリスはいつも、いつ父が戻って来てもいいように家中を万全に整えておくよう努めていたが、父親とたった二人で暮らしている彼女にとって、おおよその帰宅の頃合を知らせる便りがあるのとないのとでは、気持ちの上で大きく違う。 国境に近い険しい山間の谷に、リリスたち父娘は二人きりで暮らしていた。 もともとは公国の首都に近い、華やかな大学街に居を構えていたと聞いた事があるが、リリスにはそんなきらびやかな都会での暮らしは記憶の中にない。 覚えているのは、頑丈だが冷たい石壁で築かれた隠れ家のような今の住まいで幼い頃から父を手伝い、家事をこなす退屈な日々だけだ。 稀に父のもとを客が訪れる時もあったが、そうした機会に運良く客人に目通りできる事はめったになかった。 幸い生来の明るく無邪気な性格もあってか、子供の頃から世捨て人のような隠遁生活を送っているにもかかわらず、リリスは心の貧しい娘に育つことはなかった。 とはいえ、歳を重ねるごとに膨らむまだ見ぬ広い世界への憧れと渇望は、ともすればやや強すぎる好奇心を育む事にもなった。 好奇心は真実を見出そうとする原動力となる。 その観点からすれば、彼女には父の跡を継ぐに十分な錬金術師としての資質は備わっていたと言えるかもしれない。 むろん、賢明な彼女の父はそれを口にすることはなかったが。 物事を冷静に客観的にとらえる思考力と自制心がなければ、娘の強すぎる好奇心はその身を滅ぼす刄ともなりかねない事を、彼女の父はよくよく理解していた。 その日帰るかどうかわからない相手を配慮しつつ食事の支度をするのは、なかなか大変なことだ。 とはいえ、おそらく今夜も父がもどる事はないだろうと、リリスは理由もなく感じていた。 決して裕福と言える暮らしではなく、簡単に食料を調達できる環境でもないこの家では、無駄にしてよい食材などない。 父が今夜は戻ってこないと断を下すと、リリスは食料保存庫として使っている薄暗い小部屋へ入り、あたりを見回した。 季節ごとにリリスが自ら育てた野菜のオイル漬けや、乾燥ハーブ、父が街へ出かけた折に買ってきてくれる薫製ハムや塩漬けの肉、乾燥させた魚、往復するのに半日かかる森まで出掛けて収穫してきた果実の砂糖漬けなど、部屋には長期に渡って保存のきく食料がきちんと整理されて並んでいる。 それら保存食の中には、リリスがまだ物心つくより前に亡くなったという、母が残していったものも少なからずあった。 リリスは、母の顔も姿もはっきりとは覚えていない。 それでもその残された保存食と類まれなる好奇心のおかげで、僅かながら成長するまでにいくつかの母の味を受け継ぐ事ができた。 母が残してくれたものは主に果実を使った砂糖漬けや野菜のピクルス、そして様々なハーブをブレンドした果実酒などであったが、その中でもリリスが最も気に入り、なんとかその味を真似たいと思いながらもなかなかうまくいかないのが、果実酒であった。 いったいどんな魔法がかけられているのか、母の残した果実酒には何が使われているのか、いくら吟味してもわからない複雑で深い味わいがあった。 長年に渡り熟成されたというだけではない、何か特別な業がそこには秘められているに違いなかった。 食品棚の前を何度も往復し、食材をあれこれ引っ張り出しては調理台の上に並べて、最後にリリスは棚の一番下に収められている、たくさんの大きな壷の群に眼を落とした。 ここに並んでいる全ての壷に、件の果実酒が詰まっている。 居並んだ酒は色、味、保存期間など実に様々で、中にはリリスがまだ一度も口にした事のないものもある。 少し考えてから、リリスは一番奥にしまいこまれた重い壷を、ひきずるようにして手前へ引き出した。 これは今まで一度も味見したことのない、最も古いものだ。 父でさえ、年に一度、年が新たになる祝いの席(といっても、結局父娘二人だけなのは何も変わらないが)でしか口にしない。 壷の中ではひきずり出された時の振動に呼応するように、小刻みに水音が響いていた。 重さの割りに、中身はもうあまりたくさん入ってはいないようだ。 リリスはこの数日、父がいないのをいい事に、食事の支度の前に必ず母の果実酒の味見をするようになっていた。 父に知られれば、こっぴどく叱られる羽目になるが、(今ではもうそれほど多く残っているわけではない果実酒は、父にとっては母の遺品であり、特別な時にだけ飲むことを許される貴重品であった)どうしても母の味を再現したいリリスには、父の不在は自らの舌にその味を覚えさせる数少ない機会であった。 またたとえ父に知られたとしても、母と同じ味を作る事さえできれば結果的には父も喜んでくれるだろうと、いささか勝手に彼女は思い込んでいた。 父娘たった二人の生活にもかかわらず、父は常にリリスに対して厳格で寡黙な人であった。 父親が娘に抱いている愛情はもちろん確かなものではある。 しかし必要以上に口を開かず、仕事に打ち込む職人気質の父親から娘がそれを感じ取れるのはごく稀なことで、父の他めったに接する他人のいないリリスにとって、それは与えられるにとても十分といえるものではなかった。 もともとの好奇心からもあるだろうが、父を喜ばせる事でその愛情を確かめたいと願うリリスの無意識の想いが、記憶も朧な母の名残を追う強い欲求となって彼女を動かしていたのも無理からぬことと言えるだろう。 壷の蓋を開けると、柔らかくほのかに甘い果実の香りと鼻腔の奥をくすぐるハーブの豊かな香りがふわりと漂う。 柄の長いひしゃくを使い壷の底のほうから静かに深い濃紅色の液体をすくいとると、リリスはいつも自分が使っている銀のゴブレットにひしゃくの中身を移し変えた。 その時である。 ひしゃくから、何かがゴブレットの中に滑り落ちた。 ぽちゃん、という水音と共に果実酒のしぶきが顔にはね、思わずリリスは眼を閉じた。 一瞬、瞼の裏に果実酒の濃紅色よりもっと濃い紅黒い影が陽炎のように浮かび上がった。 それが何なのか、思い至るより早く影は消えたが、その刹那背筋を冷たいものが走り抜け、リリスは自分でも理解しがたい恐怖を感じて眼を見開いた。 鼓動が早鐘のように鳴り、指先が痺れていた。 リリスの他に誰もいるはずのない食料保存室は、弱まりつつある陽光のせいでより薄闇が濃くなった以外別段変わったところはない。 脈打つ心臓が徐々に速度を緩めていく。 “落ち着きなさい、リリス。何も怖い事なんてありゃしないじゃないの” そうリリスは自分自身に呟いた。 “そろそろ暖炉とランタンに火をいれなくちゃ…” 今しがた感じた言いようのない恐怖は、一体何だったのだろう? リリスの手の中で、ゴブレットに注がれた液体はゆらゆらと波紋を描いている。 “疲れているんだわ、きっと。 父さんの帰りが遅いから、ちょっと不安になってるのかも…” リリスは突風のように身内をかすめていった恐怖の残像を振り払うかのように、ゴブレットの中を覗き込んだ。 濃紅色の液体の底に、何かが沈んでいる。 酒壷に残っていた果実の種だろうか? リリスは躊躇いがちにゴブレットの中にほっそりした指を差し入れ、底に沈んだものを取り出した。 それは、果実の種ほどの大きさの、麻布か何かの塊であった。 よほど長い年月、酒壷の底に沈んでいたのだろう。 酒の色が染み込み、濃紅というよりは黒に近い色に変色した布は、何重にも層を重ね、何かを大切に包み込んでいる。 もしかしたら、これが母の果実酒の味の秘密なのだろうか? そう思いつくと、リリスははやる心を抑えきれず、丁寧に巻かれた古布をためらいがちにはがしていった。 そうして、リリスは石を見つけたのである。 *** *** 石は、ランタンの光にあたると、瞬間虹色に輝いた。 リリスは、はっとしてその美しさに思わず息をのんだが、瞬く間に虹色のきらめきは消え去り、石はすぐにもとのにごった色にもどった。 火にかざしたまま眼を凝らして見ると、石の表からランタンの炎が僅かに透けて見える。 その様子は、まるで石の内部で小さな炎がゆらゆらと焔を揺らしているかのようだった。 リリスはふうっと大きく息を吐いた。 不思議な石だ。 さて、この石をどうしたものか? これが本当に母の果実酒の隠し味ならば、どうやって利用すればいいのだろう? ただ同じように酒の中に沈めておけばよいのなら簡単な話だが、そんな単純な方法であのように複雑な味がだせるものとはリリスには到底思えなかった。 ともかく、この石の素性がわからない事には、それがなぜ果実酒の中に入っていたのかもわからない。 リリスは作業台のランタンの脇に石を置くと、部屋の中を見渡した。 見慣れた父の仕事部屋。 父と一緒でなければ決して入室を許されない部屋ではあるが、普段様々な作業を手伝っているリリスは部屋のどこに何があるのか、あらかた把握していた。 辺境の石造りの住まいからほとんど外へ出た事のないリリスがひととおりの知識を身に付けるために役立った多くの書物も、この仕事部屋に隣接する書斎に収まっている。 「まずは、これがどんな石なのか調べてみなくちゃ…」 そうつぶやくと、リリスは宝石や鉱石などに関する本を求めて、書斎へ向かった。 書斎は作業台からは少し離れているのだが、扉で仕切られていない為、ランタンの暖かな光は書斎の中ほどの書棚にまで届く。 住まいの最も北側に位置するこの仕事部屋には、昼間でもあまり日光があたらない。 陽の光はもとより、月明かりも満足に入らない室内で唯一の明かりである事を思うと、リリスは改めてランタンの不思議な力に驚かずにはいられなかった。 書棚の前に立ち、記憶している書物の並び順をたよりに目的の本を探す。 何冊か古い鉱石や宝石類の版画図録を抜き出すと、万が一父が帰ってきたらという危険も忘れて、リリスは夢中で書物のページをめくった。 一冊、また一冊と、リリスの前には古い革表紙の本が積み上げられていったが、なかなかそれらしい石の記述を見つける事はできない。 どうやらこの石はよほど珍しいものらしかった。 どのくらいそうしていたのか、突然、耳をつんざく甲高い金属音が響きわたり、リリスは驚いて文字通り飛び上がった。 その拍子に、手にしていた分厚い本『古今鉱石辞典』がどさりと床に落ちた。 心臓が痛むほど全力で、どくどくと全身に血液を送り出している。 反射的に、リリスは作業台の方に眼を向けた。 作業台の上では、ランタンが今にも爆発するのではあるまいかと思うほど、強烈な光を発していた。 その強い光に眼がくらみ、リリスはぎゅっと瞼を閉じると思わず腕を上げて顔を覆った。 ランタンはますます強く輝きを増し、耳を塞ぎたくなるような異音を奏で続けている。 炎を囲むガラスも熱に耐えかねて膨らみ、きりきりときしんだ音をたてて今にも割れそうだ。 「何なのよ!!!!」 両眼ばかりか頭全体を抱え込むようにしてその場にしゃがみこみ、リリスは叫んだ。 すると、その叫び声に応えるかのように、ぷつりと突然音はやみ、ランタンの炎はすっと射るような光を和らげた。 いったい、何がおこったのだろう? リリスはガンガン鳴るこめかみと、まだよく見えない両眼をさすりながら、ふらつく足取りで作業台へ近づいた。 ランタンの脇に置かれた石は、置かれたときのまま、同じようにそこにある。 眼をしばたたかせて、リリスはランタンを見つめた。 不思議な事が起こっていた。 先ほど発した熾烈な光がウソのように、ランタンの炎は穏やかに、輝いている。 けれども、その形状は自然界ではありえない形に変化していた。 ランタンの中で、炎は3つの違った形をとり、細かな火花を散らしながら揺らめいていた。 “隠れろ” 最初、リリスの思考は眼前に在る現実を受け止めかねて凍りついた。 本来、火種一つであるはずの炎が分裂してそこに存在しているなど、あり得ないことだ。 そのあり得ざる事実を目の当たりにしている衝撃で、炎の形作るものが文字であるらしいという事をのみこむまでにしばらくかかった。 その文字らしいものが、ごく最近になってようやく習得しはじめた古代の帝国文字(正式文書でのみ使用されていた、書き言葉)である事に気づくまでには、更にいくばくかの間を要した。 ランタンの炎は、“隠れろ”という言葉を形作っているのだ。 明らかに、それはランタンからリリスにむけて発せられたメッセージに他ならなかった。 “隠れろ”? だがいったい何から?そしてどこへ? リリスがそう思ったとたん、炎は瞬時に形作るメッセージを変えた。 “急げ” 炎の文字がそう変化するのと同時に、先刻リリスが書斎の床に積み上げた書物の山が音を立てて崩れ、石の床にぽっかりと穴が開いた。 書斎の床にそんな仕掛けがあるとは夢にも思っていなかったリリスは、思わずあんぐりと口を開け、いきなり床面に出現した空間を見つめたまま身動きできなかった。 ランタンが、急かすようにちりちりと警告の音を鳴らす。 すると、突然リリスの耳に、大地を揺るがす雷鳴にも似た禍々しいいななきが届いた。 これまでに一度として聞いた事がないほど、不気味な声だ。 この山間の生活で馬のいななきを耳にする機会はあまりないが、それでもこれほどぞっとする声を聞いた事はかつてない。 全身の毛が一斉に逆立ち、肌は粟だって、リリスは身震いした。 何か、よくない事が起ころうととしている。 いや、既に起きているのかもしれない。 だからこそ、父からの連絡は途絶えているのか? ランタンが発するメッセージは、いまやめまぐるしく点滅しながら、くるくると形を変えていた。 “急げ” “隠れろ” “持って” “石” 考えている暇がない事は疑う余地もない。 本能的に、リリスは動いていた。 *** *** 作業台に置かれたランタンと石をひっつかみ、書斎の床に開いた穴へリリスは思い切って飛び込んだ。 そこへ床石が動いたことでわずかに傾いた書棚から滑り落ちた何冊もの本が、ばらばらと降り注ぐ。 リリスは頭上から落ちてくる重い書物からランタンを守るように体で覆った。 すぐにリリスを襲う本の雨は止み、穴が開いた時と同じ唐突さで辺りは闇に包まれた。 先ほどまで床に開いていた穴の入り口は、今はリリスの頭上で何事もなかったかのように重い石で閉じられている。 ランタンの火は穴に飛び込んだとたん消えそうなほどにか細くなり、リリスの体の下で見る見る小さくなっていった。 上では、まだ本があちこちにすべり落ちる音が断続的に響いている。 おそらく、書棚ひとつ分くらいの書物が床に散らばっているに違いない。 それは石床を覆い隠すようにして折り重なっているはずだ。 まもなくその音もやみ、鼻先すら見えないほど小さく弱くなったランタンの明かり以外全てが闇の中に沈みこんだ。 飛び込んだこの穴がどの程度の深さなのかも、リリスにはわからない。 暗闇と静寂の中で、今にも口から飛び出しそうなほど脈打つ自分の心臓の音だけがやたらと大きく耳にこだまする。 全身の肌は粟だったままだ。 頭の中は、ひどく混乱していた。 自らの身に今何が起ころうとしているのか、連絡のない父の身に何が起きているのか、これまでの平穏な日常からかけ離れた異常な事態に対する恐怖と、それを受け入れがたい気持ちがおこさせる現実味のなさとが彼女の思考能力を麻痺させていた。 「これは夢。悪い夢に違いないわ」 小さく呟いて、リリスは手にしたランタンをしっかりと胸に抱きしめ、眼を閉じて顔を伏せた。 普通なら、そんなことをしたら大やけどを負ってしまう。 だが、ランタンはか細い炎をますます消え入りそうに細くして、熱を消していた。 まるで、自らをかき抱くリリスを傷つけぬよう細心の注意を払っているかのように。 闇に包まれてからどのくらいたったのか、気が付くとランタンの弱々しい光はいつのまにか青白い柔らかな光に変化していた。 炎とは違う、熱を帯びない光。 リリスは顔を上げ、恐る恐る周囲を見渡した。 青白い光はランタンから発しているにもかかわらず、リリスの全身をすっぽりと繭のように包み込んでいる。 前後左右は、相変わらずの暗闇だった。 手を伸ばせば自らを包んでいる光のおかげで指先まではぼんやりと見て取れるが、その先に何があるのかはわからない。 これでは、どちらかへ向かって歩き出す事もできない。 その時再び、先刻耳にしたのと同じ禍々しい馬のいななきが轟いた。 今度は、明らかに先ほどよりずっと声の主はリリスに近い場所にいる。 おそらくは、我が家の戸口に。 体内の全神経が、頭上のどのあたりにあるのかも定かでない我が家の正面扉に集中していた。 そこに、何かがいる。 できる事なら、相対したくない危険なものが。 特別な能力を持っているわけではないリリスにその姿が見えるはずもないのに、恐怖にとぎすまされた彼女の五感の全てが、恐ろしい気配を感じ取っていた。 黒い、黒い、漆黒の闇よりもさらに深い闇。 その闇は触れるものを瞬時にして凍らせる刃のような冷気を纏っている。 書斎の床下でランタンの作り出す光の繭にくるまれながらも、闇の冷気が放つ強烈な腐臭をリリスの鼻ははっきりと嗅いでいた。 全身が、無意識のうちに小刻みに震えだす。 突然、めりめり、ミシミシという大音響とともに家全体がぐらぐら揺れたかと思うと、地響きをたてて地面が揺れた。 おそらく、正面扉が開けられたのだ。 音と衝撃から察するに、普通に開けたはずはない。 正面扉は大した装飾もない簡素なもので大きくはないが、人里離れた辺境の住まいであることや年若い娘が一人で留守を預かる時の安全を考慮し、大人の男の拳ほども厚みがある堅いオーク材でできている。 そのおかげで扉はかなりの重量もあり、開け閉めにはリリスも少なからず苦労するのだが、その代わりに普通の人間には無理やりに扉を破って侵入する事は難しいはずである。 先程の地響きは、この重い扉が破られ、床に倒れたことを意味するものに違いなかった。 がちゃり、がちゃり、と不気味な足音が響く。 もはや事態は明白だ。確実に、何かよくないことが起こっている。今、リリスのすぐ傍で。 足音は、一歩一歩ゆっくりと家の中を確かめるように歩を進めた。 不思議な事に、リリスにはその足音の主の所作がはっきりと感じ取れた。 がちゃり、という金属音がするたび、石床が沈み、家屋が震える。 平屋造りの家は、正面の扉から入るとすぐに狭いホールを経て暖炉のある居間に通じ、その奥に調理場、食料保存室がある。 調理場を通り抜けると狭い中庭に出、そこから南北に伸びた廊下の両翼にそれぞれ父娘の個室があるのだ。 父の仕事部屋及び書斎は、その北翼に位置していた。 冷たい闇の足音は、居間から調理場、中庭までやってくると、迷う事なく北の部屋を目指した。 そこにリリスがいる事を知っているからなのか、それとも他に目的があるのかはわからなかったが、ともかくまっすぐに不吉な足音の主は父の仕事部屋へ近づいてくる。 床下の闇の中で、リリスは小さく折りたたんだ自らの体をさらに丸く縮め、暗黒の嵐がこの部屋へ入る事なく過ぎ去ってく れるよう一心に祈った。 だがその願いも空しく足音はほんの数歩でこの部屋までたどり着き、正面扉と同じようにこちらも通常よりは少し厚いオーク材の丈夫な戸がすさまじい音とともに破壊された。 石床に倒れた木材が、すぐ近くに身を潜めるリリスの胃の腑の底までを揺さぶる。 思わず悲鳴をあげそうになり、リリスは石をにぎりしめた手で自分の口を強く抑えた。 決して見つかってはならない。 見つかったら最後、自らを待っているのは死であると、リリスは本能的に悟っていた。 足音は、殊更ゆっくり仕事部屋を行き来している。 リリスには足音の主が部屋中を隅々まで検分している様子が、まるで見えているかのようにわかった。 やがてあちこちで物がぶつかり合い、床に落ちて瓶や容器が割れる音、引出しを引っ張り出したり、棚が倒される音が響き始めた。 どうやら足音の主は、何かを探しているらしい。 リリスは、頭上を振り仰いだ。 すると、何も見えるはずはないと思っていたリリスの目に、不思議な光景が飛び込んできた。 床下にいるリリスの頭の上には、石床がある。 その頭上の石床が、不思議な事にぼうっと青白く透けているのだ。 まるで、透明度の低いすりガラスを通して見ているかのように、あちら側がぼんやり見える。 リリスの真上には大量の本が折り重なって散乱していたが、床面に、つまりはこちら側にむかって開かれたまま押し付けられているページの文字すら判読することができた。 呆気にとられて、リリスは自分が飛び込んだ穴の入り口に手をのばしかけた。 その途端、開かれた本の文字は一瞬にして消え去り、漆黒の闇が靴底の形を刻印のように頭上に刻んだ。 闇の主が、石床を覆う本を蹴りのけ、リリスが息を潜める床下の入り口に立ったのだ。 危ういところでリリスはのばしかけた手をひっこめたが、触れてはいないはずなのに指先は凍ったように痺れて感覚を失った。 リリスはできる限り入り口から遠ざかろうと、身を屈めた。 ランタンが膝と胸の間で苦しげに軋む。 リリスの頭上に立つ闇は、ぼんやりと膜がはったように輪郭がぼやけてはいるものの、人の姿をしていた。 2つの黒い靴底からはそのまま足が伸びている。 けれど、その先の体と頭部まではよく見えない。 靴底はしばらくの間そこに佇んでいたが、散乱する本を蹴り、踏みつけながらリリスの頭上を離れた。 ほっとしてリリスが小さく息を吐いた刹那、ダン!という衝撃音とともに、今度はリリスの頭上に漆黒の手形が現れた。 闇の主は明らかにその床石の下に求めるものを嗅ぎ当てていたのだ。 今や、不明瞭ながらも身を折って屈みこみ、手をついて石床を探るヒトの姿があちら側に見て取れる。 黒い鋼の甲冑。肩からは全身を覆わんばかりの長い漆黒のマントが背中へ流れ、鈍い光を映す肱当ての先に伸びた手は、黒い手袋に包まれている。 折り曲げて片膝をついた足は、やはり漆黒のブーツと黒い鋼の脛当てに守られていた。 肩から先その顔形まではまだ見えないが、騎士のいでたちだ。 リリスの頭上で膝を折り床に手のひらを這わせながら、禍々しい闇の主はどうすればその下にあるはずの探し物を手に入れられるかをじっと考えているかのようであった。 リリスには息を潜め、わが身が床下からひきずりだされる瞬間がこない事をただひたすら祈るしかなかった。 同時に、まるで目の前に差し出されているかのように見える真っ黒な手形から、リリスは眼を逸らす事ができなくなっていた。 魅入られたようにその闇の一点を見つめたまま、やがてリリスは自らの意思とはまったく逆に、自身がゆっくりと屈んでいた身を起こし、そろそろと立ち上がりかけている事に気が付いた。 “だめ!!いけない!” 頭の片隅で自分の声が叫んでいるのがわかっていたが、リリスの思考がいくら動きを止めようとしても身体は言う事を聞かない。 もちろん黒い手形から眼を逸らす事も、自分の力ではかなわなかった。 闇の手は、目に見えないリリスの意識を感じ取り、手繰り寄せようとするかのように指先で床石をなぞっていた。 あたかもそこにある何かの存在を知り、手のひらでつかみ上げようとしているかのようだ。 獲物はのろのろと、だが着実にその手に落ちようとしている。 リリスの眼に映る漆黒の手形が徐々に近く大きくなり、ついに上を見上げていた彼女の額が青白い光を放つ床石にふれた時、全身を強烈な痛みが駆け抜けたかと思うと、瞬時にして彼女は身を潜めていた床下から光の世界へ引き戻された。 自らの唇から気が狂ったように悲鳴が迸り出ている事も、黒い闇の騎士が手のひらだけで彼女の顔をつかみ、床から半身ほどの高さまで軽々と持ち上げている事も、リリスにはまったくわかっていなかった。 両脇にだらりと垂れ下がった手にランタンと石を堅く握りしめたまま、リリスは絶叫し続け、黒い手のひらが与える耐えがたい苦痛から逃れようと必死で身を捩らせた。 騎士の手はリリスの虚しい抵抗をあざ笑うかのようにニ、三度彼女の体をぶらんぶらんと振ると、事もなげに書斎の床に放り投げた。 冷たい石床に体を打ち付けられ、一瞬呼吸が止まる。 背中をしたたかに打って、リリスは気を失いかけた。 ぐるぐる回る頭を何とか支えようとするが、息を吸い込む事さえうまくできない。 散乱した本の海に埋もれながら、それでもリリスの両手はまだランタンと石をしっかりと握りしめていた。 石床に打ち付けられた格好のまま顔を上げる事もできないリリスの鼻先に、重々しい鋼の音とともに黒い足先が踏み下ろされた。 泥土に汚れたブーツのつま先を視界に捉え、リリスは気丈にも最後の力を振り絞って顔を上げた。 じきに彼女の命を奪うのであろうこの謎の騎士は、いったい何者なのか? 緩慢な視線を足先から上へ送り、力いっぱい頭をもたげて騎士を振り仰いだ時、リリスの双眸は大きく見開かれたまま凍りついた。 闇色の鋼の甲冑とマントに身を包んだ騎士。 リリスの背丈の倍ほどもある長身の騎士は、がっしりとした逞しい体躯の、いかにも歴戦の勇者のようであった。 だがその広く厚い胸板から肩口に巻きついたマントの上には、あるべきはずのものがなかった。 首から上がないのだ。 正確には、首から上が切り落とされているのだ。 ゆっくりと、騎士は動けないリリスの傍らに肩膝をついて屈みこんだ。 本来逞しい体に見合う太く鍛えられた首があったであろうはずの喉の付け根のあたりには、切れ味の良くない刃物で無理やりに切り落としたようなぎざぎざした肉の断面が赤黒い洞穴のように口を開け、中心にはロウのように変色した骨が顔をのぞかせている。 黒く凝固した血の塊が傷口のあちこちにこびりつき、どす黒い塊の合間からは何やら蠢くものの姿が見え隠れしていた。 決して目に止めるに快いもののはずはない。 リリスが見まいとして眼をそらそうとしたちょうどその時に、そのありがたくないものは彼女の視線の先に不快な姿を現した。 死肉をむさぼる長虫(ワーム)が一匹、二匹、乳白色の醜い体をうねらせながらマントの上に転がり落ちる。 それをきっかけに、傷口からは大量の長虫が身を捩らせながら這い出てきた。 丸々と太った長虫の姿を目にした途端、リリスの胃は激しく痙攣し、それまでおとなしく収めていた胃の中のものを急激に逆流させた。 もともとまだ夕食を食べてもいなかったのだから、それほど吐くものもないはずだったが、だからといって彼女の胃は内容物を吐き出そうとする強烈な力を緩めようとはしない。 リリスは体を横たえたまま、咳き込みながら吐いた。 そのリリスの頭を再び騎士の手が捕らえた。 髪の根元からがっしりと鷲づかみにされ、力任せに顔を上へ反らされる。 首のない騎士のもう片方の手がひらりと動いたかと思うと、その手には鋭い刃の短剣が握られていた。 氷のような刃が躊躇いもなくリリスの首筋に当てられる。 ほっそりした娘の首に冷たい死の気配が口づけをしていた。 “ああ、死ぬんだ、私…” 全身の力が抜け、抵抗する気力もないリリスの意識は、今にもとぎれようとしていた。 あとほんの僅か騎士の手に力が込められれば、リリスの命の火は消える。
[2006年 XX月 XX日]